橋爪大三郎

タイトル 副題 出版社
はじめての構造主義                 講談社現代新書

書評 『はじめての構造主義』

 『はじめての構造主義』を読んだ。
とてもわかりやすく構造主義の考え方が説明されている。
 ”20世紀中頃、ひとつの時代が終わる。それはそれまでの西欧中心の「真理の探究」が制度の上に立ったものに過ぎない事が、証明されたからだ。それがモダニズムの終焉とポストモダニズムの始まり。”
 これがこの本に対する僕の理解だ。ポストモダンの中心的思想の「構造主義」は西欧の近代を分析し、批判するための優れた方法であるということ。これによって西欧文化は客観性を手に入れたと言える。
 日本のモダニズムとポストモダンの論争を見ていてもよく解らないが、あくまで西欧の事と割り切ればこんなに解りやすい事なのかとあらためて驚いた。(もっともその中心的理論を深く知ろうと思ったらさぞ難しいだろうが)さめた頭であの時代を振り返りたい人向け。


竹田青嗣

タイトル 副題 出版社
ニーチェ入門   ちくま新書
プラトン入門   ちくま新書
はじめての現象学                   海鳥社

書評 『ニーチェ入門』

一時期、ニーチェにはまっていた時がある。ただその時ニーチェの思想を理解していたと言うわけではなく、ただ読むと元気になる本だった。なぜこの(ニーチェの哲学)本が僕に力を与えてくれたのか、そのわけをこの本『ニーチェ入門』は教えてくれた。

ニーチェの哲学の難しさは、竹田青嗣も言う通り、ニーチェの断言の根拠が分かりにくいところにあるのだろう。また、危なくて、絶妙なバランス感覚の上にたつこの思想は、読む人に多くの誤解を生んで来たようだ。アメリカには、ニーチェの『ツゥラトゥウストラ』を聖典とした宗教があるくらいだから。(それこそニーチェの思想を全く誤解したものだ)

だがこの本によってニーチェの思想をすべてわかる事は不可能だとしても、少なくとも読み間違える事によって生まれてくる、誤解や間違った批判をさける可能性は高くなる。

竹田青嗣の力かとても分かりやすく、難解な哲学をすんなり理解させてくれる。もちろん竹田青嗣自身の哲学もにじみ出ている。

もう一度ニーチェを読みなおしたいと思うようになった。


書評 『はじめての現象学』

 『はじめての現象学』を読んだ。
この本はすごい。目からうろこが落ちるとはこの本の事だ。

”真実”と言う言葉をめぐっての対立はつい最近まで続いていた。
”万人にとっての真実”と”個人にとっての真実”は一致すると思っていたからだ。
それが一致しないのは人間がまだ幼いからで、それを一致させるような認識の進化が”いずれ”人間に訪れると、楽観的な哲学者達は”信じていた”。
だが、”万人にとっての真実”と”個人にとっての真実”は全く違う法則で動いている事を解きあかしたのがフッサールという現象学者だ。

現象学が示す哲学の未来とは、”人間にとって意味や価値とはいったいなんなんだろう”という問題に答えることだ。
なぜ人間は”ほんとう”を感じるのだろうか。目の前にある物を”存在する”と思うのは何故なのだろうかという問題に。


竹田青嗣氏はこの現象学をエロス論として展開する。

ちょっと前に話題になった事だが、「なぜ人を殺してはいけないのか」という疑問を持つ高校生がいた。
昔の大人だったら、「だめだからだめなんだ」と一蹴したのだろうが、今時の大人達は腕組みして一緒に考える。

竹田青嗣氏のエロス論はこの問題に対して一つの解答をだしていると僕は思う。
個人の真実には実存の構造として明瞭の根拠がある。
なぜならその”本当”がなければ人間はおそらく生活を営んでいく事は出来ないからだ。
”万人にとっての真実”と”個人にとっての真実”は一致する事もあれば、一致しない事もある。
(かつての哲学者と、現代ではモラリスト達がそれを一致するものだと信じている)
たとえ社会的に人を殺す事、物を盗む事を禁じたとしても、餓える者にとってそれがなんの意味があるか、 ということだ。(だがこれは”万人にとっての真実”と”個人にとっての真実”が一致しない極端な例だ)

人間をエロスを追求するものとして考えた場合、いま憎らしい人間を殺す事によって得られる一時的エロスよりも、人間関係を良好にして得られる関係のエロスの方が、その人間にとってより良いと言う事は”体験”しない限り理解する事はないと竹田青嗣は言う。

つまり「だめだからだめなんだ」、「大人になれば解る」には哲学的にも根拠のある言葉に思える。 子供の育て方についてもあまり論理的な根拠を持ち出す事(理知的に育てる事)が、有害になる事もこの本は解りやすく説明しているように思う。


岸田 秀

タイトル 副題 出版社
対話 起源論 歴史・国家・近代 新書館
ものぐさ人間論   青土社
性的唯幻論序説   文春新書


最近は、岸田秀にはまっている。
『人間は本能が壊れた動物だ』がこの人の持論。
この言葉は、人間と言う動物をうまく説明している。

もし人間の本能が壊れて”いない”ならば、言葉も文化も必要はない。
個人と社会の対立も生まれてこない。
芸術だってもちろん必要がない。

本能とは、もともと生命を維持するためのプログラムのようなものだ。
お腹が空いたら、獲物を捕って食べる。
消化したら排泄する。
時期がきたら子供を作る。

言葉の正確さはなくても、大体このような事をして過ごすだけで良いはずだ。
文化はそこには必要がない。

だが人間の本能は壊れてしまっている。
壊れてしまった本能を補うために、言葉、そして文化を生み出した、と言う事だ。
動物には、個体と集団といった分け方や、対立と言うものはない。
個体はそれぞれの欲求を満たすだけで、それが結果として集団(種族)のためになっている。
だが人間は、個人がその欲求をそのまま満たしてしまうと、それは集団(社会)の為に必ずしもならない。
人間は、壊れてしまった本能の断片を”言葉”によって補う事で集団としての整合性を保っている。
これが、私の岸田秀氏の持論『人間は本能が壊れた動物だ』に対する理解だ。

人間は、壊れた本能を補うために、言葉、文化(芸術)を生み出した。

岸田秀の人間に対するイメージは、とても多くの事を私に教えてくれる。
(もちろん彼の考えを誤解している可能性は多々ある)

芸術とは個人から発生した価値観(美)を社会に対して突き付けていく仕事であると私は考えている。
だから人間がもし正常な本能を取り戻した時、芸術は必要が無くなるのかもしれない。


『対話 起源論』について。
この本で特に面白かったのは、岡田秀弘氏との対話だった。
岡田氏によれば国史とは、どの国のものであっても嘘で塗り固められたものだ、 という点だ。もし歴史認識を共有しようとすると、日本人としてのアイデンティティは失われてしまう。
国史は常に対立し合う運命にあると言う事。
だがすべての国の国史を相対化して、世界史を作り上げる事は可能だということだ。

私は国史は嘘で良いと思う。(また嘘でなくてはならないと思う)
正直、学校は苦痛の連続だった。
日本人の客観性の中に真実があるという幻想に嫌気がさしているからだ。
客観性とは純粋な主観にすぎない。
事実、客観的な自己なんてものを追求すると、私だったら気が狂いそうになる。

日本の歴史は日本人が作れば良い。
その上で、すべての歴史を相対化し、世界史を他の国と協力しあって作れば良いのだ。
その方が建設的ではないか?


『ものぐさ人間論』について
面白かったのは、山折哲雄との対話。

「日本人の科学技術の受容の仕方の中に、独特の自然意識、自然観というものがあったんです。あるいは襲いかかってくる自然をどうコントロールするかという問題意識が、絶えず眼前にあったということです。これは、ヨーロッパのデカルトとか、ニュートンとかああいう科学思想とは考え方がそもそも異なっている。 原理原則を常に前に持っていくるというのと、ちょっと違うと思うんです」

私は、ヨーゼフ・ボイスの思想をずっと追っているが、その時常に突き当たるのは、ボイスの原理原則を作ることを大切にする姿勢だ。
日本人の常に追い立てられながら物を作っていく姿勢とは、とても違う。
ただ、残るものを作るためには、この原理原則はとても大切な物だと思う。