若杉弘氏を偲んで 〜陽ちゃんとピノさんの交流(2)〜

若杉弘氏から福永陽一郎氏へのメッセージ


『福永陽一郎還暦記念コンサート「陽ちゃんといっしょ」』への寄稿
≪福の永きを (ことほ) ぐ≫

 ぼくが指揮者になりたいと云ったとき、ひとりの先輩が猛反対しました。誰よりも熱心に、理路整然と。いかに"指揮者"は不幸で幸福かを!その先輩の眼は澄んで美しく、"音楽"を見つめていました。
 そのひとの名を"福永陽一郎"といいます。なんとすばらしい名前でしょう。どうか一字一字たどって下さい。ここには幸と明るさ、秀でたものと男らしさ、そして永遠がすべてそなわっています。
 この名をもつ人に還暦とはなんでしょう。それは人生の岐路、ひとつの標高石として (めで) たいことですが、この名前には鶴や亀よりもすばらしい生きざまが保証されています。現に福永さんがして来た仕事には"いのち"があるではありませんか。それはこの世に人間が生き芸術を、音楽を愛するかぎり生きつづけるでしょう。演奏を通じて、音楽論・演奏論を通して、そしてぼくら師事を受けた多勢の仲間とその後輩を通して!
 それにつけても同時代人として、喜寿・米寿どころか、久寿句・白寿を詠む福永さんと共にありたいと願っています。
 かくいうぼくは、若がって直行・なんでもやりたがり屋。福永さんの指揮のもとでもなんでも屋でした。「リゴレット」の練習ピアニスト、「蝶々夫人」渡米公演の領事代役、そして日本初演「ホフマン物語」の折には有名な舟歌の舞台裏指揮者でした。
 いや、もっと正しくいえば、福永さんのタクトに合わせて懸命に声を張りあげていたコーラス・ボーイです。
 ぼくが指揮者になりたいと云ったとき、真剣に相談にのってくれましたね。いま身にしみて有難うをいいます。
勿論一番いいたいのは<陽ちゃん、おめでとう!>。


『福永陽一郎追悼コンサート「陽ちゃんといっしょ」』への寄稿
≪福は永く継がれて≫

 ぼくが指揮者になりたいと云ったとき、ひとりの先輩が猛反対しました。誰よりも熱心に、理路整然と。いかに"指揮者"は不幸で幸福かを!その先輩の眼は澄んで美しく、"音楽"を見つめていました。
 そのひとの名を"福永陽一郎"といいます。なんとすばらしい名前でしょう。どうか一字一字たどって下さい。ここには幸と明るさ、秀でたものと男らしさ、そして永遠がすべてそなわっています。
 この名をもつ人には鶴や亀よりもすばらしい生きざまが保証されています。現に福永さんがして来た仕事には"いのち"があるではありませんか。その"いのち"はこの世に人間が生き芸術を、音楽を愛するかぎり生きつづけるでしょう。演奏を通じて、音楽論・演奏論を通して、そしてぼくら師事を受けた多勢の仲間とその後輩を通して!
 かくいうぼくは、若がって直行・なんでもやりたがり屋。福永さんの指揮のもとでもなんでも屋でした。「リゴレット」の練習ピアニスト、「蝶々夫人」渡米公演の領事代役、そして日本初演「ホフマン物語」の折には有名な舟歌の舞台裏指揮者でした。
 いや、もっと正しくいえば、福永さんのタクトに合わせて懸命に声を張りあげていたコーラス・ボーイです。
 ぼくが指揮者になりたいと云ったとき、真剣に相談にのってくれましたね。いま身にしみて有難うをいいます。
 そして今、ぼくたちは陽ちゃんの使徒でありたいと願っています。福永さんからリレーされたバトンをしっかりと握って各々がその"いのち"を伝道し、その福を永く継いで行こうとしています。どうか度々この使徒たちに現われて、ぼくらをはげまし音楽のこころの伝道に勇気を与えて下さい。


『1991年12月 藤沢市民交響楽団「第九」特別演奏会』について
≪今こそ"熱い第九"を!≫
畑中良輔氏のコメント

 「瓢箪から駒が出る」ということわざの語源はさておいて、瓢箪を振ったら本当に駒が出た。若杉弘氏が、藤沢を挙げての大合唱と藤沢市民交響楽団を振っての「第九」が実現するというのである。若杉氏は現在ヨーロッパ最高といわれるドレスデン国立歌劇場の音楽総監督、ドレスデン・シュターツカペレ常任指揮者の地位にある世界的指揮者である。世界の主要オーケストラの殆どを振って来た大マエストロが、これまでの藤沢市の音楽文化に対する姿勢を高く評価し、今や東京での年末「第九」が、消費音楽になり下がってしまった現状へのアンチテーゼを、藤沢の地から全国へ発信するために、一人一人手づくりの「第九」を実現させようというのである。その根底には、藤沢市民交響楽団、藤沢市民オペラをここまで育て上げた、故福永陽一郎氏への畏敬と友情の絆があることは云うまでもない。本年2月に行なわれた『合唱指揮者の系譜その1・福永陽一郎/人と音楽』に際し、チューリッヒより心あふるるメッセージが送られ、超満員の聴衆に深い感動を与えたのは、若杉氏のやさしさと福永氏の仕事に対する尊敬のあらわれでもあった。
 ベートーヴェンは、「歓喜のテーマ」を探すのに十何回となく書き直しを重ね、苦しんだ。それを第4楽章で、何度も出て来ては迷う例の主題の扱い方でわかる筈だ。模索の果てに「友よ、この音ではまだ駄目なのか」と全世界の同胞に問いかけるこの感動を、われわれは絶対に商品化してはならない。特設舞台を組み、この日の「藤沢第九」は、これまでの日本に聴聴けなかったような"熱い第九"のひびきに充たされるだろう。


『1993年11月 藤沢市民オペラ「トゥーランドット」指揮に寄せて』
≪指揮者からのメッセージ≫

 恩師・福永陽一郎先生が藤沢で始められた「藤沢市民オペラ」の成果をかねがね尊敬の眼をもって辿ってまいりましたが、残念なことに、盛り上がった「藤沢市民オペラ」が指導者を失う時が来てしまいました。この立派な業績を何とか先生の息のかかった弟子達の力で引き継いで欲しいという福永夫人の強い意志に感動し、先輩・北村協一さんを頭に私どもが力を合わせ声をかけ合って福永先生のお仕事を継いでいこうと誓い合いました。
 先回の北村さん指揮によるグノー作曲「ファウスト」に続き、この度は福永先生が是非とも「藤沢市民オペラ」の手でと、かねがね熱望しておられたプッチーニ作曲「トゥーランドット」が制作されるにあたり、北村協一さんを音楽監督に仰ぎ、不肖、私が指揮を執らせていただくことになりました。
 初夏の頃からひたむきに続けられてきた練習を通じて、公演参加者の皆様の誠意と情熱に感動しています。
 これまで力を合わせて築いてきた「市民オペラ」の成果を温かい拍手でお迎えいただければ幸いです。
 この度のプッチーニ最後の傑作の上演を、故福永陽一郎氏の霊に捧げたく存じます。


『2000年5月26日 東京フィルハーモニー交響楽団 第417回定期演奏会
「マンフレッド・グルリットの遺産−日本オペラ界の大恩人」』
プログラムへの寄稿≪オペラの師・生誕110年に想う≫より文末箇所

 ………こうして客席でなく、現場で出会ったグルリット先生は放送局でのオペラ録音の度に「君に合唱指揮者をあずけるからね」といって、個々のテンポはこう、ここはこの速さでと彼自身ピアノを弾いてたたきこんでくださった。放送録音オペラ(まだテレビはありませんでした)の折には、「きみが合唱指揮者なんだから指揮しなさい、テンポは教えてあるだろう、きみが振れば伴奏してあげるから。」とモーツアルト、ワーグナー、R.シュトラウスから、チャイコフスキーまで指揮していただいたものだ。こうして先生から戴いたバトンを「オペラ」というフィールドで、大切にリレーしてゆかなければならない。福永陽一郎先生を第1走者とすれば、ぼくが第2走者。そして東京フィルハーモニー交響楽団の大野和士さんが第3走者を走ってくださり、アンカーの沼尻竜典さんにリレーしてこの立派なバトンを確実にゴールに運んでほしいと思う。何等賞でもいい。ゴールまでどのように走ったかがぼくたちのテーマなのだから。


 福永陽一郎Memorial