福永陽一郎さんの想い出


 1990年2月10日、福永陽一郎さんが亡くなられた。知らせを受けて、翌日、ご自宅に向かったが、車の運転も不能になるぐらいの豪雨と突風であった。悲しみを堪え、藤沢のご自宅へ。納棺の儀が終わった直後だった。ご遺族や畑中良輔氏たちが傍らに座っておられた。棺に納められた福永さんの遺体の胸には指揮棒が置かれていた。非常に安らかな表情で、寝ているようにしか見えなかった。いつ目を覚まし、起き上がってもおかしくないような、そんな死に顔であった。棺が小さいのか、福永先生の身長が高すぎたのか、窮屈そうに見えた。私の目からは止めどもなく涙が零れた。出棺の時が来た。リビングルームから玄関までの間にある廊下を通る際、私も棺に触れ、出棺を手伝った。先生のご遺体が寝台車に乗せられた頃には、雨も風も止んでいた。近所の方々も大勢見送りに出て来られていた。藤沢市の音楽活動を先頭に立って推進してきた先生が今、ご自宅から永遠の旅へ立たれると思うと、一層悲しみが深く感じられた。お孫さん(小久保大輔君)が近所の方に丁寧にお礼を言われている姿も印象に残っている。
 前夜式や告別式のことは、夢の中のようにしか覚えていないが、讃美歌「やすかれわがこころよ」と聖歌「うたいつつあゆまん」が悲しく歌われたこと、工藤博氏と畑中良輔先生の弔辞、福永先生のお姉様の感動的なご挨拶、そして、最後のお別れと出棺の際の光景は忘れることができない。参列者が多く、会場に入れない人たちが、斎場の敷地内に何百人と出棺を待っている。出棺の際に、どこかのグループが告別を意味する歌を見事なコーラスで歌い、それをBGMに、先生を乗せた霊柩車が火葬場へ向かったことが印象深い。
 福永先生は、最後の入院をする直前の1月下旬、仕事で音楽之友社へ行った帰り、六本木のWAVE(今はない)で大量にCDを購入していた。これが、小さい頃から何百、何千回と通ったであろうレコード屋さんでの最後の買い物であった。何を買ったのか?出棺の際、ご自宅の階段の5段目あたりに40センチぐらいの高さに積まれていたCD群がソレだと私は思っているが・・・・。
 藤沢駅の程近く、「ステーキルーム松坂」というステーキ店があり、福永先生は贔屓していた。コンサートの終演後は必ずこの店でステーキの刺し身を食べておられた。私も何度かご一緒させていただいたが、お肉の味の美味しさよりも、先生の口から話される音楽の話に夢中で、夢のような音楽談義のひととき(楽興の時?)を経験したものだった。記憶に残っている貴重な話がいくつもあるが、先ずは、フルトヴェングラーとバーンスタインの素晴らしさ、偉大さを熱心に語られていた様子が印象深い。ご自宅へ寄らせていただいた時などは、膨大なレコード・CD棚を案内して下さり、ミュンシュやストコフスキー、セルなどを熱く語って下さった。帰りがけには、ご自分がライナーノートを書かれていたレコードやCDを何枚かお土産に持たせてくれた。今でも、私の大切な宝物である。当時、私が実演で聴いて大変感動したマルケヴィッチについて夢中で話すのにも熱心に耳を傾けて下さった。先生は即座に、マルケヴィッチの名盤は「春の祭典」「兵士の物語」「幻想交響曲」「ファウストの劫罰」「ケルビーニのレクイエム」「ラ・ペリコール」あたりかな、と言われた。
 1983年6月、若杉弘が当時の手兵・ケルン放送交響楽団を率いて来日公演を行なった際、藤沢でもマーラー「第九交響曲」を演奏したが、客席で福永さんと並んで聴いた後も、「ステーキハウス松坂」で、暫しの間、マーラーの「第九」の演奏について語り合ったものだ。私が、若杉の演奏の「第1と第4楽章が素晴らしかったですね」と感想を述べると、「いや、中間の第2、第3楽章が素晴らしかった!」と言われ、さすがに素人と専門家の耳は違うんだな、と思ったものだ。この日は、演奏終了後、「若杉に会わせてあげよう」と言われ、福永先生の後ろにくっついて楽屋を訪問。若杉氏にサインを頂き、一緒に写真を撮って頂き、お話しもさせて頂いたという嬉しい思い出である。福永さんと若杉さんは藤原歌劇団時代に子弟の関係にあったということで、"ピノ""陽ちゃん"と呼び合う、気心知れた間柄であったことが判った。(福永さんの死後、若杉氏は藤沢市民交響楽団でベートーヴェンの「第九」を、藤沢市民オペラでプッチーニの「トゥーランドット」やワーグナーの「リエンツェ」日本初演などを指揮し、陽ちゃんの恩に報いている。)
 "陽ちゃん"の不朽の名著「私のレコード棚から」を読んだ感想を手紙に認めたことがあったが、「私のトスカニーニ論を見事に理解してくれていますね。」と褒めていただいたことがあった。(私の好きだったカール・ベームはあまり評価していなかったな〜。)
 "陽ちゃん"の好きな曲には、「悲愴」「シベリウス第二SYM」「フィンランディア」などがあり、何度か演奏会でも取り上げたが、いずれも福永節を存分に味わえる名演だったと思う。「悲愴」は最初のコントラバスのピッチが不揃いで、本番で困った顔で指揮を止め、苦笑いしながらやり直したこともあった。「フィンランディア」はご自身の作詞による合唱付き版を好んで取り上げておられた。「陽ちゃんといっしょ-還暦コンサート-」でも演奏した。
 "陽ちゃん"は師匠でもあった近衛秀麿校訂版によるベートーヴェン交響曲シリーズを指揮されたことがある。その高弟として、師の功績を世に問う使命感もあったと思うが、オーケストラを派手に鳴らしまくる演奏を結構気に入っていたようだ。その反面、晩年には、なかにし礼訳詞、マルケヴィッチ校訂版によるベートーヴェンの「第九」も取り上げるなど、進取の精神は相変わらずであった。
 "陽ちゃん"が、藤沢市民交響楽団定期演奏会で、「未完成交響曲」と「ブラームス第四交響曲」等を演奏した際、滅多に自分の演奏には満足しない陽ちゃんが、「"ブラよん"聴いてくれた?フルトヴェングラーの48年盤に匹敵する空前絶後の名演だったと思わない?」と興奮気味に楽屋で語っておられました。確かに、椅子に腰掛けての指揮でしたが、壮絶なブラームスでした。フルトヴェングラーの48年盤を髣髴とさせた超名演でした。
 "陽ちゃん"が亡くなった年(1990年)のクリスマスの日、私は1日中、福永宅の陽ちゃんの仕事部屋に居た。陽ちゃんの臭いがプンプンする部屋で、陽ちゃんの遺影に見られながら、聴きたいCDやレコードをステレオでかけて、レコード棚やCD棚、本棚、楽譜棚等を眺めながら過ごした。尊敬する福永陽一郎の日常を辿ったわけだ。レコード、CD、音楽関係の書籍、楽譜の数々は勘定不能。とにかく、膨大な数だった。福永批評の裏付けともなる資料の数々に圧倒された。本当に勉強家であり、音楽のための人生だったことを再認識した。今思えば、福永陽一郎指揮の記録用のレコードやカセットテープがたくさんあった。時間が許す限り聴きまくったし、カセットへダビングなどもしたが、それはごく限られたものでしかなかった。奥様の話では、その整理が大変で、引っ越しなどもされ、今はどこかの学校に寄付し、保管されているという。自分が学生で時間があったなら、泊り込みで整理に行ったものを・・・・。残念である。せめて、陽ちゃん自身が指揮した音の記録だけでも全部カセットにコピーしたかった!と思う。本当に残念だ。今や指揮者として活躍されているお孫さん(小久保大輔氏)も同じ気持ちではないか。この時にカセットにダビングしたものの中に、上記の「ブラよん」や近衛秀麿版の「エロイカ」、終戦30周年記念公演のヴェルディ「レクイエム」などがあるが、さすがに聴き過ぎたせいもあってか、鑑賞に堪えられない音になってしまっている。(陽ちゃん宅にはいくつもステレオがあったが、その1つ、CDプレーヤーのターンテーブルの中に、マルケヴィッチ指揮日本フィルハーモニー交響楽団よる「幻想交響曲」が入っていた。)
 1991年8月、陽ちゃんのお墓参りに行った。神戸市須磨区にある山の中腹。須磨の美しい海を一望できる場所に、陽ちゃんはご両親と妹さんと眠っておられる。陽ちゃんが存命であれば今年で77歳。音楽界の重鎮として、「演奏ひとすじの道」を歩まれているか?それとも評論家業に専念され、音楽界のみならず、社会に向けて警鐘を鳴らしいるか? いや、欲張りで自己主張の強い陽ちゃんのことだから、相変わらず両方をやって、忙しく飛び回っていることだろう!

2003年 秋、大山 隆(41歳 会社員)

 福永陽一郎Memorial