福永陽一郎さんの死

<『音楽現代』1990年9月号「はだかの広場」掲載>


 1990年2月10日午後8時6分、音楽家の福永陽一郎さんが亡くなられた。 本誌3月号<今月の1枚>の結びに「ほんとうに生きててよかった。」と書かれた福永さん。63歳で天に召されてから今日までの間に、福永さんを追悼する多くの言葉が語られ、文章が書かれてきたと思います。オペラ指揮者として、合唱指揮者として、また音楽評論家として、幅広く意義のある活躍をされてきた福永さんは、"陽ちゃん"の愛称で誰からも慕われ、親しまれ、愛され、尊敬されていた。オペラと合唱、レコードと若者を愛された陽ちゃん。周囲の人達に実によく気を配り、熱心に丁寧に音楽を教えてきた陽ちゃん。 みずみずしい感性と高い芸術性、深い造詣で、音楽(演奏)の本質を鋭く捉え、それを豊富なヴォキャブラリーと独特のユニークな表現、明快で解り易い、快刀乱麻の音楽批評を展開されていた陽ちゃん。大変な勉強家であり、努力家であり、読書家でもあった陽ちゃん。音楽家としては孤高の才能と感性、技術、知識を有しておられた陽ちゃん。アマチュアにとても理解があり、学生や市民と共に音楽活動を歩み続けて来られた陽ちゃん。藤沢市の市民オーケストラを設立以来、亡くなるまで情熱を賭けて指導され、また全国的に有名になった市民オペラの推進役としても大活躍をされていた陽ちゃん。晩年は週3回の人工透析の治療を受けながらも東奔西走の音楽活動を続けておられた陽ちゃん。多くの人々に夢と希望と深い感動を与えて来られた陽ちゃん。ひたすら音楽に生きて来られた福永陽一郎さんが死んだ・・・・。
 10年程前、私は大の福永評論のファンであった。指揮者というより、批評家福永陽一郎にぞっこん惚れ込んでいた。そんなある日、偶然にも、私の父と福永夫人とが、旧満州の大連市にあった大連嶺前小学校の同級生であるということを知り、また福永氏が藤沢市で大変素晴らしい音楽(指揮)活動をされていることを知って以来、私の藤沢通いと、福永陽一郎の追っかけが始まったのだった。それまで、オーケストラ音楽ばかり聴いていた私に、オペラの面白さと合唱音楽の素晴らしさを教えてくれたのは福永さんである。 藤沢以外にも、早稲田大学グリークラブ、法政大学アカデミー合唱団、東京六大学連合、東西四大学連合、JAC(ジャパン・アカデミー・コーラス)等の、福永指揮のコンサートに数多く足を運んだ。晩年の10年間程、私は福永指揮の熱心な聴き手だったと思う。特に感動的だったのは、1983年秋に、藤沢市民オペラで上演されたロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」の日本初演だった。この年の夏、同志社大学グリークラブを率いてヨーロッパ演奏旅行に行かれた福永さんは帰国直後に腎臓病で倒れ、一時は生死の境をさ迷い、奇跡の生還をされたという経緯があったからかもしれないが、その舞台は本当に素晴らしく、オペラという総合芸術が藤沢を舞台に、市民文化の総決算として理想の姿を展開していたように思う。面会の謝絶の日が何日も続いたが、少し元気になられてからお見舞いに伺った。その時、ベッドの上のテーブルには「ウィリアム・テル」の分厚い総譜(スコア)があり、それを丹念に読み、細かい書き込みをされていた。枕元にはカセットテープやCDプレーヤーも並んでおり、「ウィリアム・テル」日本初演に賭ける凄まじいまでの芸術家魂と並々ならぬ情熱を見せ付けられたような気がしたものだった。演出の素晴らしさも手伝ってか、人間愛と祖国愛を謳い上げた、その壮大なフィナーレでは涙が止まらなかったことを思い出します。舞台裏には、福永さんには内緒で担架も用意されていたとのこと。まさに、生命を賭けた舞台でした。「藤沢市民オペラ」の成功は、市民会館という容れ物、全国唯一といえる市・行政当局の強力なバックアップ、市民オーケストラと質の高い地元合唱団の存在、すぐれた音楽指導者といった諸要素が、"福永陽一郎"という音楽家のリーダーシップにより有機的に結び付き、偶然が必然に、不可能が可能に転じた結果だったと、私は確信しています。
 近衛秀麿、マンフレッド・グルリット両氏に師事し、藤原歌劇団のコレペティトーワや常任指揮者を長く務められ、NHK主催のイタリア歌劇団の来日公演に際して日本側代表指揮者として参加され、副指揮者や合唱指揮者を務められるなど、我が国でこれほどのオペラ経験や見識のある人材は他に居ないのではないか。福永さんほどの実力者が-いろいろな事情(特に、健康問題)があったと思うが-よく地方文化の推進役として、アマチュアを相手に、実に丁寧に熱心に情熱を賭けて音楽指導されてきたものだ、と驚きと尊敬の念でいっぱいになる。今秋には、藤沢市制50周年を記念して、グノー作曲の歌劇「ファウスト」が上演されるが、志半ばで急逝された福永さんに代わり、若い頃から苦楽を共にして来られた盟友の畑中良輔氏を音楽監督に、また福永氏を兄貴分とされておられる実力者の北村協一氏を指揮者に迎えて、予定通り上演される由。成功を祈りたい!
 福永陽一郎。1926年神戸市須磨区の生れ。父は牧師、母は教育者で、ともに熱心なクリスチャンであった。(母は、徳富蘇峰の遠縁にあたり、教育者として高名である。) 幼少の頃から、気が優しくて思い遣りある子どもであった。福永さんのお人柄を偲ぶ時、一番強く感じることは、相手の人格を尊重され、不愉快な思いをさせないように非常に細かい心配りをされ、音楽を愛する者は皆仲間、という態度で遇して頂いたことだ。それほど多く謦咳に接したわけではないが、私なりに福永さんから受けた音楽的影響は勿論、人生観にも強烈な刺激を与えて下さったと思う。文字通り、薫陶を受けたということか! 小さな声で大きなことを言い、切っ先鋭い筆力で物議を醸し、常に音楽界に新風を送り、インパクトを与えておられた、「演奏する論客家」でもあった。
 人間的にも大変魅力のある方で、幅広い教養と博学ぶり、そして進取精神、いつも若々しいダンディズムも持ち合わせた、無邪気な少年のような笑顔を持つ、万年青年でもあった。両親から受け継いだクリスチャンの血が、福永さんのキリスト的な人間愛や神に仕える音楽伝道師的役割、そして、もっと大きい意味での人間や社会、大自然に対する深い愛情を会得させたように思う。毎年頂戴していた年賀状にも、神への感謝と自分を支えてくれるすべての人への感謝が記されていた。今年の賀状には、「わたしほど、めぐまれた人生を過ごしてきた人間は、他にいないのではないか。わたくしに与えられる、天からのおおいなる恩寵は、まことに、格別に稀有のものではないか。」とも書かれていた。こういった言葉は、死の数ヵ月前から語られていたそうだ。本誌3月号の<今月の1枚>にも意味深い言葉が書かれていた。もしかしたら、敬虔なクリスチャンでもあった福永さんは自分の「死」を悟っておられたのではないだろうか、という気がしてならないのである。
 福永さんの前夜式(通夜)と告別式は、2月11日、12日に藤沢市の大庭斎場で執り行なわれたが、福永さんのお人柄や業績を偲ぶ2000人近くもの方々が全国から、感謝と惜別の祈りのために献花に駆けつけた。福永さんのタクトを知る合唱団が故人の冥福を祈りながら歌った讃美歌第298番「やすかれわがこころよ」や聖歌第498番「うたいつつあゆまん」は福永さんが好きだった曲だったこともあり、涙を禁じ得なかったし、自らの68歳の誕生日に友人代表として弔辞を述べられた畑中良輔氏の別れの言葉、先立つ弟のために愛情溢れる挨拶をされた故人のお姉様、最後まで棺から離れなかった聡明な奥様・・・・(棺が長身の福永さんには窮屈に見えたが)。福永さんの波瀾に満ちた音楽活動を二人三脚でずっと支えて来られた奥様・・・・。
 「多くの人に支えられながら、音楽を愛し、人間を愛し、生きること、働くことに喜びを、常に昂揚させながら、この世を全力疾走で走り抜きました。それができましたのも、共に生き、共に歌い、演奏し、また裏方の苦労も厭わずに尽くして下さいました方々」(4月15日、復活節の遺族ご挨拶より)に感謝しながら逝った福永陽一郎さん。
 今でも、あの細身の身体と長い腕を伸ばして大きくタクト振る指揮姿と子どもっぽい笑顔が思い出されます。"陽ちゃん"の音楽性、人間性、生きざまが、音楽を愛する多くの人々に勇気と希望と喜びと幸福を与えて来られたことに感謝いたします。心からご冥福をお祈り申しあげます。アーメン。

大山 隆(28歳 会社員)

 福永陽一郎Memorial