《ブルさんから亡き友・陽ちゃんへのメッセージ4》

【福永陽一郎生誕70年コンサート 陽ちゃんといっしょ in 藤沢】
〔1996年4月21日(日) 紀尾井ホール〕
このコンサートのプログラム掲載のMessageから

『いつまでも陽ちゃんといっしょ』

畑中良輔

陽ちゃんが天に召された二月十日、暁子さんに電話すると、それが直接陽ちゃんのところにつながるような気がして、毎年「元気?」とダイヤルしていたのだが、今年はどうもタイミングが悪かったらしく、うまくかからなかった。留守らしいので、明日のばしにしようと思っているうちに日はどんどん経ってしまった。
 ところが−その日のこと、探しものと片づけものでダンボール箱のあれこれと引っくりかえしているうちに、昔の古いアルバムが出て来た。何の写真かなと一枚一枚みていると、なんと、陽ちゃんと私がピアノ連弾しているではないか。東京コラリアーズの全国ツアーで、一ステージ"陽ちゃんといっしょ"で私はピアニストとして、ブラームスの「ハンガリー舞曲」を弾いていたのだ。No.1・4・5・6の四曲だった。東コラ、フルステージでは団員が足りないので、こうして一ステージ分、変化を持たせていたのである。
 大阪のフェスティヴァルが皮切りで、小生ピアニストとしてのデビューだった。そして、これももっと昔の、法政大学合唱団(現在のアカデミーの前身)のペナントの掲げられた下のステージで、陽ちゃんのピアノ伴奏による小生の独唱の写真も出てきたのである。
 こんな写真のあることすら忘れていた私に、この日、陽ちゃんは天国から私に心の電話をかけて来たに違いない。この写真は早速陽ちゃんの本「演奏ひとすじの道」をまとめている鎌田雅子さんの眼にとまり、「この出版のチラシに使いましょう」ということになって、はからずもピアニスト・デビューの私の雄姿が(?)が「陽ちゃんといっしょ」に皆さんの眼に触れることとなった。
 陽ちゃんが還暦の時の楽しかった会も忘れ難い。全部真っ赤ッカーで身を固め(靴下なども!)颯爽と現れた陽ちゃんの笑顔。そして、東コラ回想の座談で、東コラのバックでよく私が歌っていたシャンソンの「小雨の降る小径」を何の打合せもなく、陽ちゃんがピアノの前に座って即興で見事なイントロを弾き始めた。こうなると歌わざるを得ない。これはビデオになつかしく収められている。
 陽ちゃんのライフ・ワークともいうべき「藤沢市民オペラ」は、そのあとを受けて「ファウスト」「トゥーランドット」そしてつい先頃の「ウィンザーの陽気な女房」と、陽ちゃんの相棒だった北村協一君と共に何れも成功させ、"藤沢オペラ"としてその名を全国にひびかせるまでになったのも、天国からの陽ちゃんの熱烈なエールのおかげだと思っている。


《ブルさんから亡き友・陽ちゃんへのメッセージ5》

【福永陽一郎「演奏ひとすじの道」の序】
〔1996年4月〕

『序 遠くなった青春は再び近く……』

畑中良輔

私の誕生日の二日前、二月十日、陽ちゃんは天に還っていった。
 そのしらせが届いた瞬間、陽ちゃんとはじめてゆっくり言葉を交わした日の時のことが私の頭の中をよぎっていった。この本の中にも、私との出逢いの一章が収められているが、秋のやわらかな日射しを浴びながら、旧帝劇(それはほんとうに美しい白亜の、まさにオペラ劇場と呼ぶにふさわしい建物だった)の四階の稽古場の南側ヴェランダで休憩時、福永陽一郎なるピアニストの話が始まった。
 既に彼は稽古ピアニストとして、「ドン・ジョヴァンニ」でグルリット先生の下棒についていた関係で稽古場での「おはよう」の挨拶ぐらいはいつもしていたが、この時陽ちゃんのほうから「いつも畑中さんの書かれたものを読んでいます」という言葉から始まって、何と、私が音楽学校本科在学中に書いていたエッセイまで読んでいるのにおどろかされたものである。「福永陽一郎」と名乗られて、「えっ?君があの?……」と絶句してまじまじとみつめた私に、「あのって?」とききかえされ、「ほら、卒業間際に、担任のピアノ科主任教授のI先生と解釈の意見が合わず、退学届けを教務に叩きつけてさっさと上野をやめたという、フクナガ……?」というと、彼は度の強そうな眼鏡の奥の眼を細めて、ケ、ケ、ケというような笑い声を喉の奥で鳴らした。そのふくんだような笑い声は、今も鮮やかに私の耳に残っている。
 当時、先生の絶対権力の前に反対の許されない時代、敢然と音楽上の意見の対立の中に、自説を曲げず、妥協の演奏を拒否した生徒がいたという話は耳にしていた。確かにその名はフクナガと言ったが……と、その瞬間、名前が記憶の中からうかび上がったのだった。
 それからというもの、休憩の毎に、二人の音楽談義は尽きることがなかった。戦中の抑圧された音楽的情熱が、この時とばかり噴き出したのである。
 そして或る日、やはり旧帝劇の南側ヴェランダで、「こんど日本で最初のプロ合唱団を作ろうと思うんだけど、一緒にやらない?」という話が出た。私は、戦前に創設された上野の声楽出の人達を集めての「東京交声楽団」の戦後の運営を任されていたが、このグループはプロではなく、研究団体といってよかった。新構想の合唱団は約二十人の男声合唱で、既に藤原オペラの「アイーダ」などに参加して来ているメンバーには話はしてあるということだった。
 我が国最初のプロ合唱団「東京コラリアーズ」についても、第10章に記されてあるが、この「東コラ」の演奏旅行は、一回は一か月ほどなので、私は学校の関係で、その全部に参加出来なかったが、旅に出ると、演奏のあと宿舎に帰って大部屋で食事のあと、毎晩のように音楽論を戦わせ、深夜に及ぶことがしばしばだった。
 私達の青春後半時代(?)は、東コラと陽ちゃんと、今考えてもワクワクするような音楽への情景のこころが、それこそ今日はじめて音楽を始めた少年のような純粋さで燃えていた。
 この"初心"さながらのこころは、陽ちゃんの一生を貫いていた。芸大を敢然と出ていったその純粋さもそのせいである。その後、藤原歌劇団を一人で背負って企画に指揮に大活躍していた時も、この"初心"が陽ちゃんを支えていた。私を大学合唱に引張り込んだのも陽ちゃんだった。
 「こんど東京のすぐれた六団体が連盟を作って定期的な演奏会をやるプランがあって、明日その第一日目があるからいかない?」と言われ、大学合唱の世界にまったくうとかった私は何のことやら、ただただ陽ちゃんのあとにくっついて行くこととなった。中大の講堂だったのだろうか、明大かもしれない。とにかくお茶の水の坂を降りたあたりからもう学生の波、波。会場は立錐の余地もなく、人をかきわけて前に進もうとするだけで、汗が噴き出る。音楽は遥か向こうの彼方から何やらコーラスらしきものが聴こえてはくるが、もう私はほうほうの態で逃げ出した。
 しかし、これが私の学生コーラスとのかかわりあいのきっかけの日だったのである。その時の混雑と、陽ちゃんを見失うまいとして、懸命にそのあとを追った(彼は背が高いので見失うことがあり得ないのだが)あの日のことも、私の頭の中に蘇った。
 一瞬のうちに、何コマものこうした陽ちゃんとの日々が思い浮かぶ。その陽ちゃんがいなくなったとは――。
 藤沢の病院に見舞いに行かなくては……と思いながら、その日その日が仕事に追われ、心ならずも一日延び二日延びになっていた時、「退院した」と聴いた直後のことだっただけに、信じられぬ思いだった。
 私の誕生日は、陽ちゃんの告別式の日ともなった。
 陽ちゃんがライフ・ワークと決めていた「藤沢市民オペラ」の、その年の秋は「ファウスト」だった。これは陽ちゃんの以前からの企画であり、追悼のためにも「ファウスト」公演は中止してはならない、という意見は当然だった。
 私はその総責任者として、「ファウスト」上演を引受け、陽ちゃんの上演プランを出来得る限り完全に生かさねば、と陽ちゃんのメモすべてに眼を通しておどろいた。何という緻密なプラン作りであろう。藤沢市民オペラがこの公演をとり上げる意味とその必然性について、市民とどうかかわり合うか。合唱編成、オケ編成。稽古に要する日どりの設定。使用するエディションの比較。通常のカットの問題。バレエの場面の問題……。実にすみずみまで、キチンと区分けされ、整理され、稽古日程のあらましまで、それこそヨーロッパの大歌劇場のたてるスケジュールそのもののようなデータが、この時点で揃っていたのである。この頃、これほどこまやかなプランを一年も前に作るオペラ団体など日本にはまだなかった時代だ。陽ちゃんは先の先まで藤沢市民オペラの行くべき道を見極めていたように思う。
 陽ちゃんが一生を賭けたオペラと合唱の世界は、まさに福永システムの許に、大きな花を開こうとしていたのだ。「ファウスト」に続く「トゥーランドット」も、日本のオペラ団体がおそろしくこれまで単独上演しないで来た演目だった。陽ちゃんはこれを一つの頂点に持って来る考えだった。その何れも、陽ちゃんの天からの力を得て大成城理に終える事が出来たが、開演の幕が上がるたびに、「陽ちゃん、みててよね」と私はつぶやいて来た。

陽ちゃんの書き遺した文章は厖大な量に上るだろう。編曲も多いが、文章は各ジャンルに亘り、整理だけでも何年もかかろう。こんな中、陽ちゃんのこれらの遺稿をまとめ、今度も編集担当をして下さる鎌田雅子さんのたゆまざるその情熱に心からの感謝と尊敬をここに記さないわけにはいかない。
 陽ちゃんは仕合わせなひとだ。陽ちゃんの残した仕事のひとつひとつを検証し、まとめ、全く自力でこれまでも各方面に陽ちゃんの文章を再生し送り続けてくれたのである。鎌田さんのような稀有な存在を、どれだけわれわれは頼もしく思っていることだろう。
 ともあれ、この一冊は何より陽ちゃんのための一冊、誰よりも喜んでいるのは天の陽ちゃんに違いない。


《ブルさんから亡き友・陽ちゃんへのメッセージ6》

【福永陽一郎メモリアルコンサート 陽ちゃんといっしょ in 藤沢】
〔2001年10月14日(日) 藤沢市民会館大ホール〕
このコンサート開催にあわせて発売されたCD『福永陽一郎合唱名演集』のライナーノーツから

『福永陽一郎と合唱』

畑中良輔

福永陽一郎なくして、現在の日本の合唱は語れない。
 日本の合唱水準が、今や世界の平均レヴェルを遥に超え、新しい合唱世界の地平を切り開き、未知なる創造の世界へ進み得たのは、その原動力、底辺を支えるエネルギーの発信者としての福永陽一郎の仕事が、大きく日本の合唱界の形態を変容させ、進歩させ、世界的視野の中にあって、確乎たる演奏分野としての合唱を人々に認識させたと言える。
 福永陽一郎の合唱における仕事の成果が広く認識され、評価される以前は、「合唱は素人の集まりで、他の演奏と同一評価は出来ない。」といった状況であったのは確かだ。
 福永は我が国で最初の職業合唱団としての《東京コラリアーズ》を1952年に早くも創立。この頃の彼は藤原歌劇団の仕事を一手に引き受け、コレペティトール(オペラ歌手たちのコーチ役)という職業がまだ全く認められていなかった時代に、早くもこの分野の確立と職能をオペラ界に認識させたのである。
 初めて、福永陽一郎に連れられてオペラの稽古場を覗いた時、私は仰天したものである。
「あっ!そこ先生違う。音が取れていない。あっ!一拍早いったら!」
何と木下保先生をまだ20代の青年が叱り飛ばしているのである。木下保先生と言えば、戦前、戦後を通じて声楽家界の大御所である。また木下先生のレッスンの厳しさは定評のあるところで、この時代のアカデミズムの頂点にあった大先生を叱りつけているのだ。その気迫に押されてか、大先生も「や、すまんすまん、もう一度お願いします。」と、信じられぬような低姿勢。あとで「へぇー、陽ちゃんってエライんだね。」とすっかり感心し切った私に、「音楽はエライもクソもない。出来るか出来ないかだけヨ。」と、いとも涼しい顔で、藤原義江御大にも「あ、パパ、またそこ違った。何度やりゃ出来るの?」と、コワイこと。こちらが慄え上がったものだ。
 陽ちゃんはコト音楽となると妥協出来ない人間である。信じた事には責任を持ち、その言い分を絶対に通そうとする。それが出来なければサッサと引き揚げてしまう。それは彼が上野の音楽学校(芸大)のピアノ科の卒業試験の直前、曲の解釈があまりに類型的で個性がなく、ただ紋切り型の演奏を要求されて、「先生は誰にでも同じ解釈を教えていますが、私の個性はどうなるんですか?」と反論した事からI教授の激怒を買った時、その場で退学願いを生徒科に出して、上野の山を下りてしまった事でも判る。これが普通だったら、多少自分の考えや感じた事と違っても、教授が言ったことはハイッと一応聞いて、指示通りに弾いて試験で良い点を貰うのが殆どである。彼にはそれが我慢出来なかった。「音楽をやる」という主体性は守られねばならぬ。演奏するのは生徒であって先生ではない。22歳の若造には違いないが、ひたすら音楽への道を見据えた福永陽一郎の眼は余人の及ぶところではなかった。この妥協のなさと、自己を偽らぬ音楽のその説得性の勁さは、既にこの藤原歌劇団にあっても先輩諸氏の大声楽家たちを叱咤出来るだけの"力"を彼は具えていたのである。
 こうして創設した《東京コラリアーズ》は、日本で最初の職業合唱団として1953年頃から本格的な活動を開始し、丁度《労音》が隆盛期にさしかかっていた時期と相俟って、全国的なステージが展開される事となった。
 福永陽一郎と話していていつも"一本とられた"という感じを持つのは、音楽に対して常にグローバルな視点に立ち、オペラ、合唱に関しての世界の最新情報を蒐集し、出版物、特に新刊楽譜による様々なエディションの分析、新録音の演奏についてあらゆるジャンルのものに通暁していた事である。
 これらの基盤の上に立って、彼が我々に遺した最大の贈り物は『合唱曲の編曲』である。男声、女声、混声、その全ての部門にあって、それは見事な編曲の数々を彼は残してくれた。その頃の合唱界ではロジェ・ワーグナー、ロバート・ショウ、ノーマン・ルボフなどが世界の合唱界で最も高い評価を得ていたが、彼はこれらの編曲法をこまかく分析し、その配音法の秘密を解いていった。これらの優れた部分を福永流に消化しながら、彼は「福永エディション」を次々と生み出していったのである。それと同時に、新しい合唱曲が出たと聞くや否やすぐにその楽譜を手に入れ、福永陽一郎エディションとして再創造を行い、積極的にステージにかけた。その行動力と新しい作品に対する情熱の焔は、彼の編曲のどの一曲にも、その"炎"を歌い人のみならず聴く人に燃え上がらせずにはおかなかった。
 また、新作にあっても、古典的名作であっても、自分が納得行かない箇所は作曲者がいる限り、その作曲者に直接議論を吹っかけていた。その一例として私は「月光とピエロ」の"かなしからずや身はピエロ"の楽章で、必要以上にロング・トーンを用いていると、清水脩氏を困らせているところに居合わせたことがある。あの頑固で怒りやすい清水脩氏が、陽ちゃんのあの烈しい口調、それも詰問調の力強いイントネーションに押されてたじたじとなり、「ぢゃ陽ちゃんの振る時は、気の済むように1小節伸ばすのをカットしてもいいよ。」と一歩退いたのであった。
 「音楽に一番純粋なのは学生合唱だよ。」と口癖のように言っていただけに、各大学の合唱団に積極的にかかわった。またその合唱団のための編曲にも加えて、前述の《東京コラリアーズ》の全国演奏ツアーのための各地の民謡など、新しい総意の中にそれまで考えられなかったような手法を用いたりして、もうそれらは編曲というより創作と言うべきものであった。彼の遺したレコードも50枚は下るまい。主として東芝が多かったようだ。私も彼の棒のもと、大中恩君の「月と良寛」の良寛を日本アカデミー合唱団と東芝で録音、発売したが、この名曲も復元したいものだ。
 今回、陽ちゃんの没後十年を経て、なおこれらの福永録音を求める声がしきりである。「水のいのち」や多田武彦作品など、他の指揮者によるものも今は多い時代となった。しかし、ここには他の指揮者に見られない福永独特の"ひたむきさ"と"いちず"な心が溢れていて、聴くものの心を一杯にせずにはおかない。その"いちず"さは、彼がその昔に音楽学校卒業を目前にして、音楽に妥協することなく退学届けを投げつけて退学した時そのままの、純粋な"音楽する心"の勁さが、今回の福永エッセンスともいえる一枚に凝縮されているように思える。その《熱い炎》に火傷を負わないように、じっくりと福永音楽に耳を傾けて欲しい。


《ブルさんから亡き友・陽ちゃんへのメッセージ7》

【「CONDUCTOR 福永陽一郎」鎌田雅子 編】
巻頭言から〔2010年1月12日〕)

『陽ちゃんの呪縛力』

畑中良輔

陽ちゃんの文章のキレの鋭さは、今なおその鮮度を失わない。その切り口から迸り出る潜血のパワーは時と共に風化しない。その陽ちゃんパワーに巻き込まれた人は、その文章はいつまでも自分の"力"として再生していくはずである。
 この"陽ちゃんパワー"に巻き込まれた一人、鎌田雅子さんが陽ちゃんの書いたものを可能な限り調べ、集めて、むしろ"執念"と呼んでもいいほどの忍耐と持続の果て、世に問うたのが何年前だったろう。よくもここまでと、私は、どんなこまかい文章の端々に至るまでも蒐集を果たした彼女の持続力に驚嘆したものだった。それをさせているのは他ならぬ"陽ちゃん"の音楽に対する妥協のない純粋さであることは、今更言うまでもあるまい。あれから長い月日が経ち、陽ちゃんの新しい文章が出て来たりして、ここに充実の一冊が編まれた。

あらゆる権威と闘い、飽くまでも自分の信念を貫いて、"陽ちゃんの音楽"を示し続けた数々の名演も録音を通して今なお我々の耳の中に生きているが、彼が東京音楽学校ピアノ科の卒業試験直前、担当教授の音楽に同意し難く、退学届を出して二度と母校(現・芸大)の門をくぐらなかったその信念の動きを、これらの文章の中から読者は読みとるであろう。
 美しい装丁のこの一冊は、また"新しい陽ちゃんの世界"を展(ひら)く。同じ文章もそれまで見過ごして来たようないろいろな事象を新しく伝えてくれる。未発表の文章も嬉しい。
 まさに陽ちゃんは不滅。陽ちゃんの呪縛力は永遠なのだ、と羨ましく思う。再読、熟読の果て、この一冊で陽ちゃんの魔力を現代の生きる力にして欲しい。最も陽ちゃんに近かった友人として、陽ちゃんの"よろこび"をここに伝えておきたい。


福永陽一郎Memorial