エリーが見つけ出した記事には、私達の事件に符合する記述が多く含まれていた。例えば被害者が意識不明のまま回復しない点など、グランド・モータースの警備員、サトウの場合によく似ていた。
いや、何よりもまずこれは、私達の調査対象たるロマノーソフ氏が関わっていた企業秘密なのである。発表された雑誌まで発行を阻止する必要があるほど、機密性が高かったわけである。依頼人の未亡人の言にあった如く産業スパイが関わっている可能性も、まんざら一笑に付せなくなってきた。
スパイではないまでも、私達の調査活動を快く思っていないどなたかがいらっしゃる事は確実である。その誰かが哀れなサトウ氏を使って我々を排除しようとした、という可能性も極めて高い。
サトウ氏の症状は確かにウィルスのそれに似ていた。しかし、エリーの老婆心による注釈を待つまでもなく、コンピュータ・ウィルスはオンラインか、少なくとも何らかの情報媒体がなければ感染する事ができない。記事にあった外科手術を施したならいざ知らず、普通一般の人間であるサトウに感染する事などあり得ないのである。彼がそのウィルスに冒されたとするなら、うちのセミスウィートとて、インフルエンザでくしゃみの一つくらいしようと言うものである。
しかしそれはそれとして、この過去のウィルス事件を調査しておけば、私達の依頼人を満足させるための良い材料となるには違いなかった。たとえそこから何も出てこなくても。出てきたのならなおのことだ。
早く帰宅して寝たがるエリーを引き留めて、記事の筆者であるグラボウスキー氏の連絡先をプレイヤーに調べさせ、会う約束を取りつける。私は事務所の机に向かって電話をかけた。エリーは私の横合いでソファの背にあごを乗せ、欠伸をしながらスクリーンを眺めていた。
この仕事用の電話は、ローズ・ウッドの壁にかかった探偵業の許可証が、私と一緒に相手のスクリーンに映り込むようになっていた。こちらの身分を疑う者に対して、証明する手間が省けるわけである。
まもなく電話に出た相手は、黒々とした顎髭と頬髭が印象的な、四十がらみの男性だった。ロシア式の名前による先入観もあろうが、どことなくシベリアの熊を思わせる人相だった。
「誰だい。あんた」
「私はクリスティーン・シルバースタインと申します。初めまして」
「シルバースタイン……ああそうか、あのシルバースタイン氏の面影がありますね、そう言やあ」
全く面識のない人間から電話を受けて、彼は当惑した表情を見せていた。大概の人間の、それが普通の反応である。しかし私が探偵だと名乗ると、今度は通例とは逆に楽しそうな気色が窺えた。富豪の娘が探偵なぞやっている事を意外に思った、というだけではなさそうだった。まるでセブン・カード・スタッドの七枚目で、ストレート・フラッシュを完成させた三流博徒のような表情だった。
それにしてもなぜ父の名が出て来るのか。私自身が無名なためと言えばそれまでだが、逐一『あのシルバースタイン』で語られるのは迷惑である。
「グレゴリー・ロマノーソフさんの事で少々お伺いしたい事がございまして」
私の言葉に、彼はいよいよ嬉しそうな太い声で答えた。
「ああ、あの人自殺したってねえ、気の毒に。私としては話したっていいんだけど、奥さんのバーバラがどう思うかだねえ」
「それでしたらご心配なく。私共はそちらの依頼で調査をしておりますの」
「おお、それなら話しましょう、何でも訊いてやって下さい。電話で済ましちまうのかい」
「なるべくなら直接お会いして伺いたいのですが、よろしゅうございますかしら」
「もちろん大歓迎だ。会社を馘首になって以来、来客も少ないし。あんたみたいな美人が来てくれるってんなら、近所にも幅がきくってもんだ」と相好を崩した。蜂蜜を見つけた熊のプーさんと言ったところか。
「あら、解雇されたんですの。やはりウィルス事件が原因で」
「そうそう、さすが探偵、よく知ってるね。あの一件じゃこっちは被害者だから、会社から少しばかりの年金を勝ち取ったんだが、その代わりにこんな侘び住いで、なす事もなし。体のいい口止め料ってわけでさあ」
彼は両手を広げて、背後に見える室内を指し示した。あまり視界は広くないので判断はしかねたが、やや色あせた壁紙からしてあまり贅沢な造りではなさそうだった。
「その年金を獲得なさるために、ウィークリー・コズミックに署名記事をお書きになられたわけですか」
「はあん、そこから私を嗅ぎ付けたってんですね。やっぱりうかつな事はできんな。あんた方、その裁判の話が聞きたいのかい」
「ええ、そうですわ。それ以外にも何かお心当たりでもございましたら、お話し戴きたいと思います」
「そんならなおの事、電話じゃだめだね。なんにしても、そうだな、明日にでも家に来てもらって、それからどっかに繰り出すなり何なり考えよう」と彼は両手でワルツの姿勢をとって体を揺らし「ダンスはどうですね。近所にちょっとしたホールがあるんだが、そこだったら少しぐらい密談したところで周りは聞いちゃいないし、そもそも昼間は客も少ないしね」
横で聞いていたエリーが、小さく「えっ」と言った。
「結構ですわ。では明日お伺いしてよろしゅうございますね」と私。
「ええ。それじゃ、楽しみに待ってますよ。お嬢さん」
彼は自分の方から電話を切った。
グラボウスキー氏は、記事の内容から想像していたよりも、気さくな感じの人物だった。言葉の品位に多少の問題はあるが、それをとやかく言っても始まらない。電話では話せないと言うのは、善意に解釈すれば盗聴を警戒しての事だろう。相手をおびき寄せる口実としては、余りにも古典的である。あのサトウ氏も使ったくらいだ。
「明日か」とエリーは首をかしげ「今夜は忙しいのかしら」
「そのようね。まあ、明日はせいぜい着飾って行きましょう」
「ダンスって、あのポーズからしてソーシャル・ダンスでしょうね。なんだか言葉使いにそぐわないけど、あの人の趣味なのかな」
「ディスコとは言わなかったわ」
「うう、あんたに合わせたのね、きっと。それにしても、大学の卒業パーティ以来だわ。困っちゃった」とエリーは愁眉もあらわに言った。
「それなら壁の花でもおやりなさい。だいたい、ダンス・パーティにジョージなんか引っ張り出したのが間違いの元よ」
「ああ、もうその話やめて」
エリーは両手で耳を塞ぎ、顔をソファに埋めた。
「なかなか上手に踊っているなと思ったら、いきなり動きが止まって。後で聞くと、お互い同時に左足で相手の右足を踏んでいたのね」
「そこへあんたとビルがぶつかって来るんだもん。よけてくれりゃいいのにさ」とエリーはむくれた。
「それより、明日はどうやって出かけましょうか。代わりの車はきちんと届くんでしょうね」と私は言った。
「来るでしょ。もし間に合わなかったらレンタカーでも何でもいいし。それともあたしの単車で行く?」
「いやよ。この寒いのに」
「ふふん。代車って言っても、どっちみち大した車じゃないだろけどさ。もし気に入ったらあのクリッパー売っちゃって、そっちの方に乗り替えようか」
「多分お釣りが来るわ」
「そうね。それからあの車のエンジンね、水素エンジンにとっかえてくれるって言ってたから。今時ヒドラジンなんか流行んないもんね。窒素酸化物はやたらに出るし」
ヒドラジンはこの星の開拓初期によく使われていた燃料だった。アウロラは石油に類する化石燃料をほとんど産出しない。道路の舗装も全てコンクリートで施されているほどである。そこで、この惑星原産のキノコ(に似た植物)に含まれるヒドラジンを精製して、燃料として使っていたのだった。それは現在でも充分に手に入るのだが、都市化と工業化が進むにつれ、世の中の主流は水素の吸蔵カートリッジに移りつつあった。
「でも、エンジンなんてそれほど簡単に替えられる物なの。しかも他社の製品なのに」と私は訊いた。
「あっちは専門家よ、なんとかするでしょ」
不安である。
翌朝、グランド・モータースから届けられた自動車は、新品の『レインボウ・スティール』だった。4ドアのスポーツ・モデルで、この会社の製品としては高級車の範疇に入る。なんとした事か、塗装は前のクリッパーと同じマルーンであった。その色を評して、エリーは言った。
「なるほど、さすがに向こうも気を遣って、あんたんちのファミリー・カラーに合わせてきたじゃない。大したもんだわ」
私は答えなかった。彼らが気を遣った対象が私ではない事が、はっきりと判ったからであった。
この自動車のナヴィゲーション・ユニットは、当然の事ながらハーフビターではない。ハーフビターはミサイルの攻撃にもどうにか耐え、現在は車体と共に修理中だった。
エリーの話では、ナヴィゲーターを他の車体に載せ替える事は不可能ではないが、再調整が必要になるので、車体の修理よりかえって時間がかかるとの事だった。つまり教育し直さねばならないのである。それと同様に、このレインボウ・スティールは彼女や私の癖も知らないわけであり、緊急時の反応もいくらか鈍い事だろう。そんな事態が来ない事を切に祈るしかなかった。
ドアを開けると、そこにはハンドルがあった。以前のクリッパーは、元々シルバースタイン運輸の英国本社で使われていた物を、シルバースタイン・アウロラ向けとしてヒドラジン燃料用に調整し、散々使い古されてから私達の手に移ったものだった。こうした経緯があったため、ハンドルは右側に付いていたのである。左が助手席と思いこんだ私の不覚だった。
エリーは「せっかくだから、時にはあんたが運転すればいいじゃない」と、早々に助手席に座り込んでしまった。
私はグラボウスキー家に向けて、レインボウ・スティールを走らせた。エリーは傍らでのんきに『ムーン・リヴァー』を歌っていた。私は竜巻に吸い上げられた気分だった。
九 J・シュトラウス
「加速度円舞曲」
グラボウスキー氏の住まいはサンテレジアのダウン・タウンのすぐ東、イートンブラウズにあるアパートメントだった。赤煉瓦造りの細長い二階家に三つの世帯が入るタウン・ハウスで、その向かって右端、A・I・グラボウスキーと刻まれた真鍮の表札を付けた扉が、彼の言う侘び住いだった。なかなかどうして、あたし達の安アパートメントなんかより、ずっと立派な構えじゃないの。
クリスが家の前の通りに車を停めた。車内にこもる彼女のディオールの匂いは、いつもより濃い。ついでに彼女のスカートは、普段はいてるやつより派手だ。おまけに靴下は絹で、靴は白いエナメルのハイヒール。明らかにダンスに誘われたのが嬉しいのである。彼女は家柄を引き合いに出すと怒るくせに、御嬢様扱いされる事自体は決して嫌いじゃないのだった。
あたし達は歩道から階段を三段登って、玄関のアルコーヴでノッカーを鳴らした。それは百合の紋章を象ってて、真ん中にピープ・ホールがあった。セキュリティ・システムが玄関先を見張るためのカメラである。あたし達にフォーカスするかすかな動きが見えたけど、これは機械の自動的な反応だろう。
五分くらい待ったけど、ドアの向こうからはなんの応答もなかった。ノッカーの音が聞こえなかったのかしら。せっかくのセキュリティ・システムだって、肝心の人間がうっかりしてればあんまり意味をなさない。
「お留守かな?」あたしはクリスに言った。
「さあ……昨日グラボウスキーさんは、楽しみにお待ちになる、とおっしゃっていらしたわよね」
クリスは本人宅を前にして、変に丁寧な言葉を使う。表の歩道を犬を連れた婦人が、あたし達にちらっと目をくれて通り過ぎた。世の中は全般的に土曜の朝で、この辺の住宅地には、散歩してる人や歩道で遊んでる子供なんかがわりに多かった。こんな玄関先に長い事ぼんやり突っ立ってるってのは、いかにもみっともよくない。
天気は良く、アルコーヴは暖かい日溜りだった。仕事がなけりゃ、こう言う場所に安楽椅子でも出して、のんびりお昼寝してたい陽気だった。あたしは欠伸した。クリスは扉を再度叩いた。
「何か、すぐに出ていらっしゃれない事情がおありなのかしら。緊急の事態が」彼女としては珍しく、ちょっと下卑たニュアンスを含めて言った。
「例えば御手洗いとか? それにしちゃ長いじゃない。あたし達が来てからでも、もう十分は経ってるわよ。なんかよそに急用でもできて、出かけちゃったのかな」
彼女はドアに耳をあてて、中の物音を聞いた。こんな様子を誰かが見てたら、みっともよくないどこじゃない。まるでドロボーさんである。あたしはちょっと隣の家に行って、様子を訊いて来ようかと思い始めた。こうした構造の家の場合、隣人の行動くらい、知るともなく知っているかもしれない。
あたしが道路の方に体を向けた時、背後から壊れた霧笛みたいな男の叫び声が聞こえた。あたしはも一度回れ右して、結局その場で一回転した。クリスはびっくりして耳を離し、一歩後ろに跳びすさった。
あたしはちょっと下がって、肩からドアに体当りした。開かない。クリスの台詞じゃないけど、緊急用の斧が欲しいとこだわ。もう一遍やろうとした時、彼女がノブを回して扉を手前に開けた。かっ賢い。
中には入ったものの、声がした場所はどこだか判んない。目の前は廊下が奥に続いてて、右手に二階への階段がある。あたしは一階、クリスは二階に駆け上がる。
彼女はいつの間にやらハンド・バッグから、・二二口径のポケット・オートを出してた。愛用のシークレット・サーヴィスは水に浸かったんでバラしてあるのだ。あたしもつられてガバメントを抜いた。
あたしは一番手前のドアをあけ、銃口を向けて中を窺う。このリビングに人は居ない。階段でクリスがこける音がした。次のドアは食堂で、その奥がキッチンだった。やっぱり誰も居ない。リビングの向いの部屋にも、バス・ルームにも人影はない。一階の部屋はこれで全部だ。
二階からクリスの呼び声が聞こえ、あたしは後を追って階段を登る。最後の一段であたしも転んだ。痛い。
二階は書斎風の一部屋だけで、キッチンの上のあたりは広いバルコニーになってた。窓は全部閉まってる。室内中央にはグラボウスキーが仰向けに倒れ、両手を天井に向けて突き出してた。クリスがその脇に座って彼のシャツの襟を開いていた。
あたしは銃をしまって側に寄り、彼のまぶたを上げてみた。瞳孔が丸く収縮する。でも自発呼吸がない。脈も不整で、じきに止まった。
「クリス、人工呼吸してっ。あたし心臓マッサージするから。鼻つまむの忘れないでね。ちょっとっ、自分の鼻つまんでどうするの、相手の鼻よ」
「口が臭いの」
あたしは彼女を押し退けて人工呼吸した。ほんとに臭いし、髭が邪魔だ。下唇を噛んだらしくて、血が少し、微かに震える髭を伝ってる。うまいことに舌は噛まなかったみたいだ。
クリスが胸を押してるけど、体重も勢いもないから効果があるかどうか判らない。それでもグラボウスキー氏は、なんとか蘇生してくれた。ただし意識はまだ戻ってない。
ふと誰かに見られてるような気配がして、あたしは周りを見回した。あたしとクリスとグラボウスキーの他には誰も居ない。ただ小さな机の上の電話の回線がどこかに繋がってて、そのカメラがななめにあたしの方を向いてた。スクリーンは真っ暗だ。
その電話はすぐ横に道具箱くらいの黒い装置が置いてあり、フラット・ケーブルで机に載ったデスクトップ型のネットワーク端末と結ばれていた。端末は接続先とのプロトコルの交換をしたところで表示が止まってた。黒い箱からはもう一本、細いワイヤーが延びてて、それを辿ると、机に足を向けて倒れているグラボウスキーの体の下に消えていた。
あたしはやな予感がして、彼の後頭部を見た。思った通り、彼のおつむにはプラスティックのジャックが取り付けられていて、ワイヤーはそこに接続されてるのだった。これが『外科的手法を用いたインターフェイス』の実例ってわけだ。
今の事態の原因としては、このワイヤーが一番怪しい。抜いていいものかどうか、あたしは迷った。彼が頭を打ってるとしたら下手に動かさない方がいい。でも、床は毛足の長い絨毯で衝撃は大したことなさそうだし、端末のスクリーンも何の変化も見せないし、思い切って抜いてみた。彼はその瞬間ちょっと痙攣した。まずかったのかな。でもまだ生きてるから、取り合えずだいじょぶだった事にしよう。
クリスが端末に向かって、救急隊を呼ぶように命じた。彼とは声が違うせいか、応答してくれない。そのうち、端末の方で勝手に電話回線を一度閉じて、その後に改めて彼女の指示に従った。
なぜだか肩の荷が降りたような気がした。
救急隊を待つ間、あたし達は部屋の中を見て歩いた。彼の頭と端末機との間に入ってた黒い機械には『ランチ・ボックス』と書いてあった。確かに形は似てるけど、その用途とは無関係の、たぶん愛称なんだろう。彼はあたし達を玄関で待たせといて、これを使ってどっかのホスト・コンピュータにアクセスしてたに違いなかった。こんな形で脳とやり取りできるホストなんて、そうざらにあるもんじゃない。彼自身の書いた物によるなら、グランド・モータースの所有になる一台しかないはずだった。もしかしてこれこそ例のウィルスかな?
ロマノーソフさんについての昔話を聞くのは、当分おあずけになりそうだった。当分で済めばいいんだけど、もしこれがあのウィルスだとすると、はたして回復してくれるかどうか。
「クリス。あんたが入って来た時、この人の様子はどんなだった?」とあたしは訊いた。
彼女は気味悪そうに視線をグラボウスキーの上に落とした。
「もう既に倒れて、手を突き出して震えていたわ。今と同様に白目をむいて。あなたが来た時とほとんど変わらなかったわよ」
てことはやっぱりあのウィルスにやられたのね。症状が癲癇に似てるし、コンピュータには繋がってたし。あの記事にあった通りだ。確かウィルスは不活性化してあるって、やられた本人のこの人が書いてたのに。
部屋の外(きっと階段)で、誰かがつまずく音がした。救急隊にしちゃおとなしすぎる。あたし達は銃を入り口に向けて身構えた。二本の弾道の交点に現われたのはアンソニー・ベネットだった。あたし達は拳銃を収めた。何でこんな所に来たのかしら。グラボウスキーさんが呼んだのかな。
「な、ななんだ、一体。なぜ君らが、こここに……」と彼はちょっとうろたえ気味に言った。
「私の方も、同じ事をお訊ねしたいところですわね。私達はこちらのグラボウスキーさんに、お話を聞かせて戴くために参りましたの」
クリスが指を揃えて示した先を見て、彼は舌打ちした。
「くっ、やはりこう言う事か。君達がやらせたのか」
「やらせたって、何を?」とあたし。
「うちの会社のコンピュータにアクセスさせた事だ」
「どうしてそれがグラボウスキーさんだと?」
「あるファイルのプロテクションを解除した者がある、とOIから報告があった。その方法を知っているのは、今となっては私とこのアレックスしか居ない」
ベネット氏は、倒れている男のそばにひざまずいてひじをつき、その頭を値打物の茶碗のように、そっと持ち上げて調べた。次に先端から青い光が漏れてるワイヤーを床からつまみ上げ、あたし達に訊いた。
「これを抜いたのは君らかね」
「ええ、そうですわ。いけませんでしたか」とクリス。
「いや、なんとも言えない」
「今あなたのおっしゃったファイルとは、ウィルス・プログラムの事ですの。人の脳に作用すると言う」
「そうだ。彼から聞いたのか」
「いいえ」
「じゃあどこから知った」
「情報源は明かさないのがうちの業界の鉄則です」とあたし。
「あのウィルスは非常に危険なんだ。それを持ち出させるなんて、君達はとんでもない事をしてくれたな。感染の可能性がある人間は彼で最後なのが、せめてもの救いだが。いや、ついに救いようがない所まで行き着いたと言うべきか」
「あたし達がやらせたわけじゃないわ。あたし達がこの家の前まで来た時に、中から悲鳴が聞こえて、それで飛び込んだのよ。この部屋に入った時は、この人もうこんな状態だったわ」
「回復の見込みはございまして」
「以前の七人のうち、三人は死んだ。残りも脳幹だけで生きている状態で、もう後は時間の問題だな」
「この人の前に、最近そのウィルスを持ち出した人って、誰かいるの」
「いない。なぜそんな事を訊く?」
ベネットが立ち上がって、さらに何か言おうとした時、救急隊が到着して部屋になだれ込んで来た。彼は一旦口を閉じ「なんて事だ、いやに手回しがいいな」と言った。クリスは駆けつけた隊員に、事情を説明しに行った。
救急隊に続いて、一人の女性が部屋に入って来た。お客の多い日だ。
その人は、ベネットさんがサンテレジア警察署でやった暴走戦車の記者会見の時、最後の質問に立って場を白けさせた女だった。その姿を認めると、ベネット氏は「シンシア」と叫んで顔をしかめ、ちらっとあたしを横目で見た。彼女、シンシア・フォーチュンの名を知らしめた事を後悔してるらしい。つまり彼女は、あの会見ではサクラをやってたのだ。
ベネット氏はあたし達に話すよりどこか優しい声で、彼女に話した。
「なぜ来たんだ。君が来ても何もできないのに」
「来なければ何もできないわ。私、アレックスを殺しに来たんだから」
シンシアの声はその言葉の内容に比してすごく静かで冷淡だった。我々三人は言葉に詰まった。幸い、救急隊員には聞こえなかったらしい。
「アレックスもあのウィルスにやられたの? そうらしいわ」
シンシアは、四足歩行ベッドで運ばれて行くグラボウスキーを眠たげな目で眺めて言った。やせぎすの彼女はなんとなくやつれて見える。もう少し顔が丸ければそこそこの美女で通る容貌で、黒く長い髪が鈍く光っていた。ベッドが部屋を出て行くと彼女は振り返り、あたし達に気付いた。
「ああ、あなた方なのね。この前会社に来た探偵さんて言うのは。グレッグの事を調べてるって聞いたわ」
彼女の立居振舞いはまるで夢中遊行みたいな感じで、どこかしら白痴的な雰囲気さえ漂ってた。ロマノーソフ氏の自殺でかなりのショックを受けたらしいってリーさんも言ってたけど、そのせいかしらね。
「あの、ミス・フォーチュン……」とクリスが言いかけた。
「その呼び方はやめて戴けない? 幸せが逃げて行きそうな気がするの」と彼女はクリスを遮った。
あたし達は、三人とも声をかけあぐねて立ちすくんでしまった。この場の主役たるシンシアもそれっきり黙ってしまって、あたし達は台本を忘れた素人役者みたいに舞台を持て余した。
表で救急車の扉を閉める音が聞こえ、それをきっかけに、ベネットさんが彼女の両肩に手を置いた。
「もう行こう。ここに居てもできる事は何もないよ」
彼女はスウィッチを入れられたおもちゃみたいに、いきなり泣き出した。
「私が悪いのよ。みんな。何もかも。私のせいでこんな事に……」
彼女は泣き喚きながらベネットの手を振りほどき、部屋から走り出て行った。階段は無事クリアしたのね、と思ったとたん、滑り落ちるものすごい音が響いた。すぐに玄関が開いたから、きっと大した怪我はなかったんだろう。それにしても、この階段は危ない。無意識のうちに足元から注意がそれる構造になってるに違いない。
あっけにとられてたベネットさんが、あわてて彼女の後を追った。
「いかん。あの様子じゃ何をするか判らんぞ。君達はここの後始末を頼む」
勝手に後を頼まれちゃったけど、ここ、よその家なのよね。あたしはクリスと顔を見合わせ、そのまま何もしないで黙って部屋を出た。これと言ってする事もないし、もし後でお巡りさんが調べに来る事でもあって、現場をいじくり回した形跡があれば不愉快でしょ。
階段を降りて、一階の様子を念のためざっと確認する。玄関以外のドアや窓はきちんと施錠されてたけど、家のセキュリティ・システムがなぜかダウンしてた。あたし達がこの家に来たときは動いてたみたいなのに、これもウィルスの副作用なのかな。あたしはシステムをリセットして立ち上げなおし、玄関の戸締まりはそっちに任せた。
外に出たら、ちょうどベネットさんがシンシアを捕まえたとこだった。彼女は彼を振り切ろうとして、道端でちょっと踊るような仕草でもみ合った。それを眺めてるうちに、さっき救急隊に連絡がついた時になぜあたしがほっとしたのか、その理由に気が付いた。もちろん通報できて安心したってのが最大だったけど、とにかくダンスの恥はかかずに済んだのだ。
十 メシアン
「世の終わりのための四重奏曲」から
七つのラッパのための狂乱の踊り
北風になびくシンシアの長い髪が、彼女の自動車らしいグランド・モータースのシーホースを撫でていた。開け放たれた扉から判断すると、彼女が乗り込もうとしたその時に、ベネットが追いすがったのであろう。彼は彼女の両肩を車体に押しつけながら話していた。
「病院はどこなの」と彼女は言った。
「アレックスの連れて行かれた病院かね」
「他にどの病院があるの」
「恐らくアーモンド・ブールヴァードのパペッツ病院だろう。あそこは救急患者がよく運ばれるからね」
「私、行かなくちゃ。彼、本当にもうだめなのね」
彼女には、再び惚けたような虚脱状態が戻りつつあった。視線もほとんど動かず、顔に感情が現われていなかった。抑揚に乏しい話し方は一種不気味な印象を聞く者に与え、通行人は一様に多少とも彼女を注視して行った。
「奇跡でも起きない限り、回復は望めないだろうね。君は会いに行かない方がいい」
「どうしてそんな事言うの。責任があるのは私なのに」
「君のせいじゃない。それに会っても何もできないよ。話す事もできないだろう。帰ってゆっくり休みたまえ。不眠はまだ続いてるのかね」
「ええ。でも、それでも私、行かなくちゃいけないの。今度の事はみんな私が原因ですもの。あのグレッグを殺したのも私なのよ。知ってるでしょ」
ベネットは私達二人を素早く一瞥した。彼が何を思ったのか、その瞬間に窺う術はなかった。
「よく知ってる。君は疲れてるんだってことを。つまらない想像をしてはいけない。病院に行くのなら、彼に会うよりもまず君がカウンセリングを受けるといい」
「いいえ、グレッグと私の仲はみんなが知ってたわ。あなただって……」
「何を言うんだ」
「隠す事はないわ。そこに居る探偵さんを気にしてるんでしょ。でも隠しだてしたりするから、グレッグもあんな事になったの。もうはっきり言うわ。お二人さん、よく聞いて、彼の奥さんに報告するといいわ」
「やめないか、こんな場所で」とベネットは彼女の肩を揺すった。彼女はかえって声を張り上げた。
「私はグレゴリー・ロマノーソフの愛人でした。妾でした。正妻に隠れてこそこそ浮気する汚い女だったのよ。彼もきっとそれを気に病んでたんだわ」
向いの家の窓でカーテンが動いた。先程も通りかかった夫人とその連れの犬が、彼女の顔をのぞき込んだ。私とエリーは息を呑んだ。言葉の内容よりも、彼女の振る舞いに驚いたのだった。
「静かにしなさい。今更そんな事を言い出してどうなるんだ。亡くなった人を悪しざまに言うもんじゃない。もう済んだ事だ」
「済んでないわ。ううん、済んでなかったわ。あのグラボウスキーがそれを嗅ぎつけてグレッグと私を脅してたのよ。ねえベネットさん、御存知かしら。あの人、馘首になった後でも、会社の中の事情よく知ってたのよ。会社中の端末機が彼の目と耳だったの」
「何だと」とベネット氏は目を丸くした。彼にも何か、やましい所があるのかも知れなかった。
「そうよ、私の他にもきっと、彼に脅されてた人は居るわよ。会社の秘密もチェックした方がいいわね。彼、そんな情報なんか興味ないって言ってたけど、どうだか判ったもんじゃないわ」
「シンシアさん。なぜ警察に相談なさらなかったんですの。この州では、たとえ情報の悪用を伴わなくとも、盗聴だけで最低三年の実刑が課されますわ。あなたの側の事情を明かさずとも、告訴は可能でしたのに」と私は言った。
「もう遅いわ。それに、脅迫されてる人にそれだけの分別があると思って。私にはとてもそんな余裕はなかったわ」
彼女は眠たげに半ば伏せた眼差しを私に向けた。
「とにかく何もかも、みんな私の罪が原因なのよ。だから私一人が、脅されていれば、良かったのに、グレッグまで……。私が、私が殺したのよ。もっと早く、終わりにす、るべき、だったん、だわ。そうすれ、ば誰も、死なな、かった……」
彼女はまた髪を振り乱して興奮し始め、時折鳴咽を交えながら叫んだ。ベネット氏はなんとか彼女を鎮めようと穏やかな笑みをたたえ、キリストが腕だけ残して落ちてしまった古い十字架のように慈愛に満ちた口調で、彼女を諭した。
「安心しなさい。もう全て済んだ事だ。これ以上君を苦しめる者は居ない。大丈夫、私は誰にもこの事は話さないし、あちらの二人も黙っていてくれるよ」
私達としては、沈黙をもって同意せざるを得なかった。それでも彼女は首を振り、ベネット氏の胸を両手で押し返して体を離した。
「私自首するの。警察に行くのよ」
彼女はだだをこねるような仕草で身をよじった。ベネット氏は、次第に子供をあやす調子になった。
「何を自首するんだ。君は何も悪い事をしていないじゃないか。しばらく一人になって、よく考えてごらん」
「あんまり一人っきりにはしない方がいいと思うけど……」と私の傍らで、エリーが呟いた。
確かにこうした欝状態での孤独がよい結果を生む事はあるまい。ベネット氏はそれを聞きつけ、反駁しようと振り向いた。しかし、短い逡巡の後に彼は答えた。
「まあ、そうだな」
彼が目を離した隙にフォーチュン嬢は車に乗り込み、ドアもきちんと閉めぬままタイヤを絶叫させて走り去った。
「しまった」と彼は、彼女とは逆の方角に向かって駆け出した。どこか離れた場所に車を駐車していたらしい。
私達も自分の車に走り寄った。今回はエリーが運転席である。灰色のシーホースは既に前方の辻を右折した。
あの車には何の細工もする機会がなかったので、肉眼で見失えばそれまでである。さらに悪い事にこちらの車は借り物で、ナヴィゲーターは私達の職業の特殊性を全く理解しておらず、徹底して安全運転を励行した。そのため最初の赤信号での停止中に、私達は彼女を取り逃がしてしまった。
ベネットが左から追い抜いて行く。目の前はネズミ一匹横切らない。
エリーは車の操作可能なあらゆる部分を見境なく切り替え、青信号を待たずにナヴィゲーターを沈黙させる方法を発見した。彼女は車輪をきしませて急発進した。
機を失したとは言え、シンシアの行く先は判っている。自首するとの言葉を信ずるならば、警察署か近くの交番に向かっているはずだった。どちらにも居なければパペッツ病院だろう。
彼女が警察であの話を繰り返したとして、いかなる応対をされるだろうか。お気持ちはお察し致します、誠にお気の毒でした。それだけ聞かせてもらえれば上出来であろう。相手の警官にもよるが、もう少し言葉は修飾されるかも知れない。その後は、せいぜい雑件のファイル・キャビネットを調書一枚分だけ重くするのが関の山だ。そもそも彼女の『罪』は純粋に主観的なもので、法的には意味がない。
彼女の車は、予想の通りサンテレジア署前の路上に停められていた。私達はその進路を塞ぐ格好に駐車した。彼女は既に乗っていなかった。
私は受付でシンシアの行方を訊ねた。「今しがた現れた女性なら、法律相談室に向かった」そうだ。警察に取るに足りない訴えが持ち込まれた場合に、まず事情を聞くための部署である。彼女の自首の希望はかなり低く見積もられたのだった。いわばこの部屋は近代人のための告解室である。教会と異なるのは、正直に話せば逮捕してくれる事だけだ。
相談室の担当者は私達とは顔見知りのリックマン巡査部長だった。シンシアという女性を知らないか、との私の質問に、彼は医務室に連れて行ったと答えた。彼女はかなり気が立っていて、まともに話ができないと判断したと言う。
一階の奥にある医務室は広く、昼間から酔い潰れたアルコール中毒者や喧嘩の怪我を手当してもらう男などが、間欠的に出入りしていた。彼女はその一角にあるベッドで、鎮静剤を与えられたところだった。傍らにはベネット氏が立ち会っていた。さすがにお早い御到着である。
「具合いはどうなの」とエリー。
「しばらく寝かせた方がいいですね。根本的な解決にはならないが、とにかく少しは落ち着くでしょう」とベネットさんは言った。付き添ってる看護婦がうなずいて、専門医による診察を勧めた。どのみちここは長居させてくれる場所ではない。
先程の相談室担当のリックマンが心配して、様子を見にやって来た。ベネットさんは、もう大丈夫だから後で精神科の医師の元へ連れて行く、と言った。リックマンは彼女が訴えようとした内容を彼に質したが、彼は警官よりむしろ医師に聞かせた方がいいと主張した。私達もそれに同意したので、リックマンは不審げな表情を残しながらも戻って行った。
「こんな事に巻き込んで申し訳ありませんね」とベネット氏は私達に言った。グラボウスキー宅に居た時と比べて、言葉に礼譲を取り戻していた。
「いいえ、とんでもございません。とても参考になりましたわ」
「奥さんに報告なさるんでしょうね。なるべく社内の事は内聞に願いたいが。特にグラボウスキーのくだりは」
「なるべく御希望に添う、と言うことでよろしゅうございまして」
「あなた方の判断を信用します。もはや完全に隠し通そうというのも無理な話ですしね。その代わりと言うわけではありませんが、シンシアが気が付いたら、どこかの病院に連れて行ってくれませんか。私は一度、社に戻らねばなりません」
私は承諾した。
「パペッツ病院じゃない方がいいわね」とエリーが言った。
「そうですね。どこに決まったか、後ほど私宛に連絡を下されば、それからはこちらで引き受けます」
彼は帰社する理由を私達に伝えなかった。大方、フォーチュン嬢の話にあった盗聴云々について、なにがしかの調査なり対策なりのために行くのであろう。彼女の話によって、スパイの実在が表面化したわけだ。
「クリス、彼のあとつけて」とエリーが言った。
「私より……」
彼女は私の言葉を遮り、両手を腰に当ててあごをしゃくった。
「あたしは付き添ってなきゃいけないの。早くしないと見失うわよ」
私は返事をせずにその場を離れた。警察署の出入口から外を伺い、ベネットの姿を探す。彼は道路の向こう側で自分の車に乗り込もうとしており、こちらには注意を払っていなかった。私は道の手前側に停めたレインボー・スティールに潜り込んだ。
彼は私の横を走り抜けた。この道路は転回禁止だったが、私は構わずにUターンして彼を追った。警察の正面にしては大胆にすぎる行動であった。私は他の車を二台、彼との間にはさみ、尾行を開始した。
彼の進路はおおむねグランド・モータースの方角であるが、会社に戻る最短経路とは異なっていた。どうやら彼の目的地はグラボウスキーの家らしく、途中の十字路をイートンブラウズの方向に曲がった。そこからは彼と私の二台を除いて、走っている自動車はなくなった。
こちらは以前の車よりは目立たないものの、街の中心をはずれれば尾行は難しかった。この種の任務に完璧を期すのは、うちのような弱小探偵社には荷が重いのである。
ベネット氏は先程のグラボウスキー宅の前に車を駐車し、その中に入って行った。先程私達が立ち去る際に、その家のセキュリティ・システムに施錠を命じたはずだが、彼は全くフリー・パスだったようだ。私達が飛び込んだ時も同様に鍵はかかっていなかった。
私はアパートメントの前をゆっくり通過した。一つ先の交差点を右に折れてから、ブロックを一周してアパートメントの角まで引き返し、玄関の見える位置に車を停めた。私はハンド・バッグからカメラを出して、彼の出現を待った。彼が何かを持ち出しでもすれば、そこを捕らえた写真は何かの役に立つかも知れない。
彼を待つ間に、私はインフォメーション・サービスのプレイヤーを呼び出した。
「こんにちはプレイヤー。ちょっとお手伝いをお願いしたいんだけど、よろしくて」
「ええ、なんなりとどうぞ」
「今、私がいる場所は判るわね」
「ええと、イートンブラウズのどこかですね」
「私の右斜め前に駐車中の、ナンバーALS175の自動車を追跡できるかしら」
「あなたのメンバー・クラスならできますよ。ただし、その車のナヴィゲーション・ユニットが、路傍のターミナルとやりとりしている限りです。例えば今は停まっていますから、私には見えません。それから、費用が多少余計にかかります」
「判りました。お願いするわ。その分の請求書は、後で事務所に送っておいて下さいね」
「なるほど、金額は空欄にしておきますか」
「そんな事ができますの」
「いやなに。言ってみただけです」
「プレイ社との契約の時、あなたのパーソナリティーを選んだのは間違いだったかもしれないわね」
「そうですか。あなたとの約款には、たまにはジョークの一つも……」
「判ってます。でも大した事を言わない割には、その個性のプレミアムは高価じゃありませんこと」
「とんでもありません。ジョーク一つでも、それなりにメモリーを走査しますから、それだけ当インフォメーション・サーヴィスのシステムを御利用なさるわけです。人間に例えるなら『頭を使う』とでも申しましょうか。頭脳労働には、それ相当の報酬をいただきませんと」
「やっぱり間違いだったわ。口が減らないもの」
プレイヤーとの無駄話の間に、ベネット氏は玄関のポーチに姿を現した。家に入ってから十分と経っていない。彼は特に何も手にしていなかった。少なくとも遠目に判る大きさの物は持っていない。私は撮影を断念した。
彼はグラボウスキーの家を出て車に乗ると、前方に横たわる通りを走り過ぎた。
「走りだしたわ」と私はプレイヤーに伝え、再び彼の後を追った。
「残念ですがクリス。指定の車はナヴィゲーション・ターミナルと交信していません。追跡はきわめて困難です。いかが致しましょう」
「ありがとう。諦めます」
ベネット氏は、今度は間違いなく勤め先の会社へと向かっていた。私は、彼の車がグランド・モータース以外には行き場のない道に入って行くのを見届けて、再びイートンブラウズにとって返した。もう一度グラボウスキーのアパートメントを調べるためだった。
玄関のドアは、やはり鍵がかかっていなかった。セキュリティ・システムが故障しているのかも知れなかった。不用心ではあるが、こちらとしては都合がよい。
私はとりあえず地階を一回りした。しかし私は二階の書斎しか見ていないので、ベネットが何かしたとしても判らなかったが。
食堂には冷えたミート・ローフが皿に載っており、別の汚れた皿がキッチンの流しに置かれていた。この型の流しは皿洗いくらい自動でこなすはずだった。しかし水こそ掛けられているものの、洗われた形跡は見られなかった。
キッチンの片隅に、セキュリティ・システムのモニターの一つがあった。そこには玄関のカメラが捕らえた映像が映るスクリーンが付いている。だがそこには赤い文字で、通信系が過負荷であるとの警告が点滅しているだけだった。リセットしてもしばらくすると同じ表示が現れた。ドアの鍵がかからない原因もこれなのだろう。皿洗いの事も含め、この家は正常に機能しているとは言えなかった。空き巣にとっては絶好のカモである。
二階の部屋には、さしたる変化は見られなかった。机上の端末もその脇の『ランチ・ボックス』も、電源が落とされいるだけでそのまま置かれていた。恐らくベネットは、会社にとって都合の悪い情報を端末から消去する程度の事しかしていかなかったのだろう。
私は何を探すべきかの見当もつかないままに、半ば希望を失いながら室内の捜索を続けた。半時間程の間に目についた物といえば、片隅に置かれた書棚にあった『白夜の長い冬』くらいだった。二○七○年にアウロラで死んだ作家、ベリー・ストンウォールの著書である。
私はかつて耽読したその本を手に取って、読むともなくページを繰った。ふと目に留まったその中の一節が、アパートメントを後にしてからも、つけすぎた安物の頬紅の如く心から離れなかった。
人が銀河に満つるとも、その本質はギリシャ悲劇の域を出ぬ。
ストンウォールは軽い鬱病だったが、その死因は交通事故だった。アーケディア市からイーストコースト・ドライブを北上中、乗用車の運転を誤って、崖から転落したのだった。彼の血液にはアルコールや薬物の反応はなく、路面にブレーキの痕跡はなかった。
十一 シベリウス
劇付随音楽「クオレマ」から
悲しきワルツ
シンシア・フォーチュンは、それから三時間ばかりして目を覚ました。どんな薬を与えられたんだか知らないけど、まだその支配下にあるのは明らかだった。寝込む前には、神経衰弱様の朦朧状態と自罰的な妄想との間を行ったり来たりしてたのが、今はただぼんやりと薄馬鹿じみて見える。あたしはクリスの帰りを待って、彼女をサンテレジア署の医務室から連れ出す事にした。
やがてベネットさんの尾行を終えたクリスが戻ってきて、あたしにその首尾を話した。あたしの方も彼女にシンシアの容態(と言ってもほとんど寝てたけど)を教える。医務室の当直医から所見についての簡単なメモをもらって、相談室のリックマン巡査部長には黙ったまま、あたし達三人は警察署を後にした。メモにはノイローゼらしいって程度の所見と、当座の処置としてジアゼパムの投与くらいしか書いてなかった。
シンシアの面倒をベネットさんに頼まれて、クリスが引き受けちゃった以上、彼女をほっとくわけにはいかない。第一、放っておける状態じゃない。ひとまずどこかの病院に連れてかないと、後で薬が切れた時、何するか知れたもんじゃなかった。
一番近い病院は、ここからアーモンド・ブールヴァードを少しエルフ・ストリート寄りに歩いた所にある、パペッツ病院だった。あたし達の事務所は、一つ西のメイプル・ブールヴァードとエルフ・ストリートの角だから、その病院なら近くて便利……だけど、さっき問い合わせたら、やっぱりそこにはグラボウスキーが運び込まれていた。
彼女が興奮し始めたのは、自分がグラボウスキーに対して責任がある(むしろ逆なんだけど、彼女はそう思ってる)からで、そんなストレスの素材とは一緒にしとくわけにいかなかった。
あたしは彼女に、一度自宅に帰るかって訊いたけど、まともな返事は返って来なかった。薬のせいか彼女は足もふらついてて、自力歩行もできなった。しょうがないから二人であたし達の車の後部座席に押し込んで、クリスに横から支えとかせた。シンシアが後ろで「ねえ私どうしたの」って変な声出した。状況がよく判ってないらしい。
あたしは車のナヴィゲーターに、どこかパペッツ病院以外に精神科のある病院を探してくれと頼んだ。こいつにも名前付けとかないと呼びにくくてしょうがない。ハーフビターとセミスウィートの次って何かしら。ま、この車も長い事じゃないからいいか。
そんな事より、シンシアの車はほったらかしてあるけど、あそこからは早めに移動しとかないと違法駐車になっちゃう。後でグレイン警部にでも頼んで、地下の駐車場あたりに入れといてもらおうか。なにしろ警察署の真ん前だもんね。
車に従って着いた所は、ノース・プリースト街のハンチントン病院だった。ここはあたし達のオフィスより、どっちかって言うとアパートメントの方に近くて、グランド・モータースからはちょっと離れる。けどまあいいや。
あたしとクリスとで抱えるようにしてシンシアを降ろし、病院に文字通り担ぎ込んだ。急患と称して真っ先に診察してもらおうとしたけど、病名はノイローゼだと言ったら怒られた。確かにこんなボーッとした患者は、少しくらい遅れたところでどうって事はない。
順番を待つ間(と言ってもすぐだったけど)彼女を待合室のソファに寝かせ、あたしはベネットさんにここの場所を知らせた。彼はクリスの尾行情報通り勤め先に居た。
精神科のハーヴェスター医師は、額の禿げ上がった初老の(老人の?)男だった。彼はしゃがれ声でシンシアに一言、二言、質問した。彼女はまだ半分眠ったみたいな状態にあって、年齢を訊かれたのに「ううん」と言っただけで後が続かない。彼女の歳まではあたし達も知らないから、彼女の持ってた運転免許証から調べて教えた。ハーヴェスターはあたしが警察でもらってきたメモを見て、こんな状態じゃ診ても意味がないから薬が切れるまで寝かせとけと言って、入院の手続きをとった。
病室は普通の個室だった。そこは完璧に防音が行き届いてて、蝿のくしゃみでもうるさいくらい静かだった。こんな環境がシンシアみたいな患者にとって良いものかどうか、ちょっと判断に迷った。彼女はベッドの上で眠りこそしなかったけど、長いこと夢みるような目つきで寝たり座ったりしてた。
十五時頃、ベネットさんがやって来た。それからは三人が交替で番をする事になり、あたしはようやく一息吐いた。
彼女がなんとかまともに話せるようになったのは、やっと夕方になってからだった。ちょうどあたしが脇に付き添ってた時で、先に口を開いたのは彼女の方だった。ベッドで横になったままあたしの方を見て、彼女は静かに言った。
「探偵さん、ごめんなさい、迷惑かけてしまって」
彼女は向いの病棟から照り返す西日を浴びて、初めてあたしに冷静な瞳を向けていた。少なくとも、自我のちゃんとしている者の持つ目だった。あたしはなるべく彼女の負担にならないように、言葉を選んで言った。
「あたしの名はスウィートです。エレン・沢渡・スウィート。もう少し休んだ方がいいんじゃないですか。もし一人になりたいんでしたら、あたし達は引き上げます。ベネットさんにもそう伝えますけど」
憐れむでもなく、事務的でもなく。気遣いは忘れず、でも相手には悟らせず。しくじれば彼女はまたおかしくなりかねない、難しい場面である。あたしの演技は自分でもあんまり上手とは言えなかった。クリスならその辺はもっとうまい(でもちょっと冷たい)んだけどね。
「ええ、よろしかったらもうしばらくここに居て下さい。ベネットも居るなら、呼んで下さらない?」
あたしは彼女の言葉の通りにした。廊下に出ると、ベネット氏はドアの脇で壁によりかかって立っていた。クリスはロビーでシアーズのカタログなんか眺めてた。シアーズなんて、シルバースタイン運輸にとっては通信販売部門での商売敵だ。
二人を病室に呼び集め、あたしも一緒に枕元に立つ。彼女は全員を見回して、のろのろと話し始めた。なんだか臨終の床に遺言を聞こうと家族が集まったみたいな光景だった。
「もう何もかも話すわ。いいえ、止めてもだめ。今朝みたいな醜態もさらしたりしないつもりよ」
ベネット氏は、それをあんまり歓迎してない様子だった。それでも、彼女をなだめようとして一遍失敗してるだけに、今度は黙って聞いていた。シンシアが先を越して釘を刺した事もあるんだろう。
「私とグレッグが愛し合うようになったのは、イカラスのプロジェクトが始まってまもなくだったわ。もうその時には、グレッグはあの奥さんと結婚していたの。そう、ベネットさんは御存知よね」
「判ってる。話し給え」
彼女の声は冷めた憂いを含んでいた。ベネット氏は相槌を打ちながら、病室の隅からさっきまであたしが座ってた小さな腰掛けを持ってきた。椅子と言えばそれだけしかなかった。
「あの人、確かにつまらない冗談や辛辣な皮肉ばっかり並べていたけど、あれで優しいところもあったの。まだプロジェクトの始めの頃、イカラスが手の付けられないくらい暴れた事があったわ。イカラスに悪影響があるといけないから、ディダラスの記憶からは消してしまったけど。グレッグは身を挺して私をかばってくれたの。彼の頬の傷はそのときのものよ」
この話は明らかにあたし達に向けたものだった。上司であるベネット氏は当然知ってるはずだからだ。
「考えてみればそれがきっかけだったわ。それから私と彼が、そう、いわゆる不倫の愛に走るまではすぐだったもの。怪我そのものは大したことはなかったし、いわばイカラスが私達のキューピッドだったわけね。私、今でも彼のことを愛しているわ。彼も私を愛してくれたのよ。あんな奥さんなんかよりもずっと。自信を持って言える」
彼女は確実に自己を取り戻していた。しかし、この告白はあんまり長く続けさせない方がよさそうだ。依然として心理的にかなり追い詰められている事には変わりはなかった。彼女自身も無意識にそれに気付いているのか、しばらく目を伏せて黙った。
病室に看護婦が姿を見せた。シンシア以外の視線がそっちに集中する。
「どうなさいました?」と看護婦が訊ねた。
「へ? いえ、別に……」とあたし。
「困ります。ナース・コールをおもちゃにしないで下さいね。こちらから話しかけても応答なさらないから、何事かと思うじゃないですか」
看護婦は、ベッドサイドの壁にあるインターホン型の装置を叩いた。
「あら、壊れてるのかしら。ランプがつきっぱなしね」
はあ、この緑のランプってついてちゃいけなかったのね。最初から点灯してたから、それでいいもんだと思いこんでたけど。でもそれならなんで今頃になって看護婦が来るのかな。
看護婦も機械の故障なんかは判らないらしい。ボタンを何回か押してるうちにランプが消えたんで、首をかしげながらも帰って行った。
しばらくして、看護婦襲来にも我関せず焉としてたシンシアがまた口を開いた。
「私、あの奥さんにグレッグとの情事を知られるのが恐かったの、ものすごく恐ろしかった。なぜかしら、どんな風に恐かったのかも今となっては憶えてないわ。今はもう誰に知られてもいいの。彼女にばれたって……それは多少は恥ずかしいとか申し訳ないとかはあるにしても、恐くはないわ」
ベネット氏はちょっと思案して、おもむろに口を開いた。
「そこをグラボウスキーにつけ込まれたわけか。一体何を要求されたんだね」
「ベネットさん、まだあんまりその種の質問はしない方が……」とあたしは止めたけど、彼女は別に気にする様子もなく、嘲るように答えた。
「男が女に要求するような事よ。詳しく説明してあげましょうか」
「いや」
「それに時々はお金も。強請の相手は私だけだと思ってたのに、きっとグレッグにも手を出したのね。それでグレッグは死んだんだわ。私が殺したも同然よ」
なるほど、さっき彼女が殺した殺したと言ってたのは、そう言う意味だったわけか。
「私、ついでにグラボウスキーも殺してやるつもりであそこに行ったのよ。そして自首するつもりだったの。何もかも清算して、罪を償いたかったのかも知れないわ」とシンシアは他人事みたいに言った。
「確か君は、他にも脅されている者が居るだろうと言ったね。他にも何か心当たりがあるのかな」
「いいえ、単なる憶測。証拠はないんです。そんな事実なんてなかったのかも知れないし……」
「ロマノーソフさんは、産業スパイに命を狙われている、と言っていた様子なのですが、それも彼の事でしょうか」とクリス。
「ああ、あなた方、グレッグの自殺を調べてたのよね。グラボウスキーはそんなに馬鹿じゃないわよ。会社の機密に手をつけたりすれば、自分の楽しみを嗅ぎつけられるくらいの事、判ってたでしょう」
「スパイと言っても、産業スパイではないわけだ」
ベネット氏は安心の溜息をもらした。彼としては、それが最も気がかりな点だったんでしょ。
「ロマノーソフさんが亡くなられる前に、何か変わった様子は見られませんでしたか」
シンシアは大きな深呼吸を一つして、ゆっくりと考えながら答えた。
「そう……前兆はあったわ、今から考えると。あの日の……十日くらい前からかしら、猿のイカラスの世話をしなくなったの。世話って言っても、餌やなんかはロボットの仕事だったんだけど、彼、毎日声をかけに行ってたのよ。それで、どうかしたのって訊いたら『自分で蒔いた種だ』っておびえたみたいに呟いて……私、返す言葉がなかった。きっとその頃からあいつに強請られてたのね」
これでロマノーソフ事件は一応片付いたわけだ。当面、最大の問題は浮気の事を奥さんに告げられるかどうかで、もちろん告げなきゃいけないに決まってる。彼女がどう思おうと、あたし達の仕事はこれを調べる事だったんだから。
あたしらを襲ったミサイル事件の黒幕もグラボウスキーだったのかしら。会社の事情を良く知ってたなら、あたし達がグランド・モータースを訪ねた時点で、身の危険を感じたとしてもおかしくない。
ただ、はたしてあの守衛を操れるほど後催眠が上手だったかどうか。それも面と向かって催眠かけたんじゃないだろうし。今となっちゃ知る術もないわね。もし今後もまたああいう事が続いたら、彼は犯人じゃないんだろう。そんな方法で確認したくはないけど。
シンシアはまた深く息をして、部屋に四つの角がある事を確かめるように、天井を目だけで見回した。外はもう薄暗くなってきた。天井の照明パネルが出し抜けに点灯して、彼女は眩しそうに目を細めた。二、三分の間、誰も口をきかなかった。シンシアはさっきよりずっと小さな声で話し始めた。
「この頃、会社の人達がみんな少し変ね。ドロシーはわけもなく突然会社を辞めるし、マクァンドルーさんは夫婦喧嘩のせいで家に帰ってないらしいし、チャーリーは野球の試合で全敗してるし。全部アレックスの仕業なのかしら。でもアレックスだって、以前はそんな悪い事する人じゃなかったのに」
「チャールス・ブラウンの野球は昔から負けてたよ。君の気の回しすぎだろう。大陸の解放を控えて人口が激増しているし、犯罪や事故も増加して、物価と保険料は上がる一方だ。アウロラの社会全体が、少しばかり節操をなくしているんだ」とベネットが、もっともなような無責任なような答えを返す。
「アレックスは結局どうなったの? ベネットさん」と彼女は訊いた。
「ここに来る前に見て来たが、やはり回復は望めそうにない」
シンシアは目に涙を浮かべ、鼻をすすった。罪の意識は依然としてあるのだ。ただ、グラボウスキーのアパートメントで見せたみたいなおかしな泣き方は、さすがにしなかった。
そろそろこの面会も切り上げ時かも知れないわね。と思ったとたん、入口のドアが開いてさっき診察(しようと)したハーヴェスター医師が入って来た。さっきの看護婦の通報かも知れない。彼は部屋の状況を見るなり、あたしらを叱り飛ばした。
「あんた達、ノイローゼの患者を泣かしちゃいかん。目がさめたんなら、なぜ私を呼びに来んのだ。勝手に余計な手出しをするくらいなら、病院なんぞに連れて来るな」
あたしとクリスとベネットの三人は病室から叩き出された。あたし達が出てく時、ハーヴェスターがフォーチュンにミスで呼びかけるミスをやって、クリスの時と同じく彼女に怒られた。うふ、いい気味。
ベネットさんはあたし達に、後は引き受けたから帰っていい、という意味の言葉を簡単な礼と一緒に並べた。あたし達としても、これ以上長居しても得るところはなさそうだから、そのまま素直に事務所へ戻る事にする。
「クリス、さっきの話は録音した?」
「もちろん」と彼女は胸ポケットのレコーダーを見せ「でもあの奥さんには聞かせられそうもないわね」
だからって聞かせないわけにはいかない。ま、そつがなくて結構だわ。
駐車場で車に乗ろうとして、クリスが「あ」と言った。
「フォーチュンさんの自動車の始末を忘れていたわ。駐車違反にされていたらどうしましょう」
それはもう余計な心配だった。なぜかって言えば、あたし達が大急ぎで車を停めてあった警察署の前に行ってみると、それはとっくの昔に盗まれた後だったからだ。
十二 J・S・バッハ
無伴奏チェロ組曲第五番から
第三曲 クーラント
第四曲 サラバンド
朝とは気分のいいものである。なすべき仕事への軽い義務感を感じつつ目覚め、まだ午後の毒に侵されない日の光を浴びながら、紅茶に牛乳を注ぐ。古風なカノンの旋律に、未明の悪夢も流れ去る。フレンチ・トーストの玉子の匂い。触れ合う白磁の澄んだ響き。目覚し時計を張り倒すエレンの寝ぼけ眼さえ、幸福を証しするかに見える。
そうとでも考えねば、これから果たすべき気の重い仕事の待つ朝など、乗り切れるものではない。今朝は夢見も悪かった。私の父が私達の探偵事務所の所長におさまって、あれこれと命令を下していたのだ。
幸福であるためには、まず不幸ではない事が必要である。幸福を感じるためには、不幸の経験が必要である。他人の悲劇でも、ある程度は自分の不幸の代用になる。だがそれに過剰に接すると、やがて麻痺して自分の幸せを見失う事もある。我々にとって、それは一種の職業病だった。
私達は朝食を終え、ロマノーソフ家を訪れた。未亡人に対して、依頼された仕事の完了報告をするためだった。夕べ、セミスウィートを相手に二時間口述して仕上げた報告書は、やっと三頁半にしかならなかった。それすらも確定的な内容ではなく、大部分は昨日のシンシア・フォーチュンの告白に基づく推測でしかなかった。
この報告書がロマノーソフ夫人の気に入るかどうかは判らなかった。恐らく気に入りはすまい。いくら言葉を選んだとしても、その語る内容がやわらぐはずもなく、私はそうした努力の一切を抛擲していた。
報酬は既に支払われていたが、その全額を叩き返して夫人に背を向けるのも悪くない。だが、私にはそんな事ができないのは判っていた。自分をよく知っているのは、必ずしも気持ちのいいものではない。そして私は、ある意味では彼女に姿見を突きつけに行くのだ。
私は胸を張ってロマノーソフ家の戸を四回叩いた。
ロマノーソフ未亡人は期待に満ちた笑顔で私達を迎えた。私はなし得る限り、その期待を反映した微笑を保った。
いや、何を臆する事があろう、こちらはその任を果たしたのである。私の気分が優れないのは、彼女の癒えかかった傷に、ナイフを当てたくないが故だった。
「いかがでございまししたの。何かお判りになりましたかしら」と夫人は言った。気のせいだろうが、再び応接間で会う彼女は、一段と横幅を増して見えた。
「ええ、それなりの収穫はございましたわ。一応の解決を見た、と言えるのではないかと思います」
我ながら歯切れの悪い言い方だった。私とエリーとは、入れ替わり立ち替わりその後の捜査の経過を報告した。ブルーブラック・マーシュでの襲撃から始まって、過去の雑誌から彼女の夫が関わっていたコンピュータ・ウィルス事件を探り出した事。その当時の話を聞きにグラボウスキーを訪問した事。
そこまで、つまりシンシアの登場前まで話し、私は言葉に詰まった。夫人は、こちらが彼女に対してなんらかの反応を期待して中断したものと考え、社交的な意味からも無難な世辞を述べた。
「まあ、大変でございましたのねえ。でも御無事で何よりでございましたわ。さすがに私が見込んだ方々だけの事はございますわね」
「え、ええ、『かわいらしい探偵さん』の実力ですわ。自動車の修理費は御心配なく、グランド・モータースで負担して下さるそうですので」そしてさらに驚くべき事実もございましてよ。あなたの使用人の有能さを、とくと御覧遊ばせ。
「それで、話の続きなんですけど……」とエリーが言った。彼女も気が重いらしく、語尾を引きずったまま溜息を一つした。ほとんど嘆息に近かった。
「結局グラボウスキーさんのお話は聞けませんでした。彼自身が昔のウィルスに冒されて、意識不明になったからです。まあ、詳しい話はともかく、彼が会社のコンピュータにアクセスしたのが原因でした。あたし達が手当して救急隊を待ってると、そこへアンソニー・ベネットさんがやって来ました。ベネットさんは御存知ですよね。それに続いてもう一人、御主人とは……ああ、同僚にあたるシンシア・フォーチュンさんも、その部屋に入って来ました」
「その人達もあなた方がお呼びになったんでございますの」
「いいえ、ベネットさんはコンピュータのアクセスから事態を察知して来たようです。フォーチュンさんの方は、彼を、グラボウスキーを殺しに来た、と言ってました」
「まあ、なんて事でしょう。殺すなんて、一体どうして、それにどうやって」彼女はメロドラマのヒロインが死体を発見したような、わざとらしい身振りで驚いた。どこまで本気にしているのか判断が付かない。
「きっと手段なんて考えてなかったんでしょう。ひどく取り乱してましたし」
「でもそれが宅の主人と関係ございまして」
「ええ……シンシア自身の話では、彼女は御主人とですね、いわゆる不義と言うか、密通と言うか、そう言う仲だったそうです」
エリーは夫人に気を使う余り、古風な言葉で話したが、かえって相手に与える衝撃は大きかったのだろう。彼女は絶句してエリーを見つめていた。その後は私が続けたが、彼女の目は動かなかった。
「フォーチュンさんと御主人は、その事実をグラボウスキーに握られていたのです。その情報を種に、少なくとも彼女の方は、グラボウスキーに強請られていたのだそうです。それが彼女の殺意の源であり、御主人の自殺の原因でもあるのだろうと……」
夫人は立ち上がった。視線は正面を向いていたが、目の焦点は部屋の壁よりもはるか遠くにあった。
「まさか、あの人は絶対にそんな事は致しませんわ」と夫人は私を睥睨し、虚ろな声で言った。「何か証拠をお持ちでございますの」
「御主人に対する恐喝の証拠はございません。不倫の情事の証拠でしたら、一方の当事者であるシンシアの告白、あるいは証言と言うべきでしょうか、それを録音してありますわ」
「聞かせて戴けます。いえ、聞きたくありませんわ。そんな嘘の証言なんて。嘘に決まってます」
彼女の声音にトレモロがかかり始めた。良くない兆候だった。それが怒りによるのか、悲しみによるのかは判然としなかった。あるいはその両方かも知れなかった。
そのまましばらくの間、彼女は城壁のように私達の前に立っていた。次第に表情が歪んだと思うと、その卵型の頭をがっくりと落とした。彼女はそれを両手で受け止め、思いのほか静かにすすり泣きを始めた。王様の全ての馬も、王様の全ての家来も、彼女の心を繕う事はできない。
「そんな、嘘よ。なぜって、あの人は、私に、申しましてよ。俺は、浮気はしない、絶対にしない、病める時も、健やかなる時も、死が二人を分かっても」
既に死は二人を分かったが、未亡人は確かに貞淑だったのだ。
彼女の態度はやや支離滅裂になりつつあり、座ろうと腰を落とす途中の姿勢のまま、私達には何も言わずに部屋を出て行った。開け放たれたままの扉の向こうを、追って行く二匹の猫が横切った。
私達は半時間ほど、ステンレス・スチールの器に盛られたマカルーンの山を見つめた。夫人が手ずから入れてくれた苺ジャム入りのお茶は、じきに湯気を立てるのをやめた。流れる雲の影が、応接間の明るさを幾度となく変えた。そろそろ暇乞いをすべき頃合と思い定めた時になって、夫人は部屋に戻って来た。
「その、録音を聞かせて、下さいな。そうすれば納得、できるかも知れません」彼女は涙に声を詰まらせながら言った。
エリーが持参したレコーダーを出して、昨日録音したチップを再生した。私は彼女の過剰な反応を恐れていたが、もう泣き疲れていたためか、ただローレライの歌に痺れたようにシンシアの声に耳を傾けるだけだった。
聞き終えて、機械が停止すると、彼女は弱々しい吐息とともに半ば独白のように呟いた。
「判りました、本当でございましたのね……。あの人が言っていた通りですこと」彼女は再び息を吐いて「『女房に隠れて浮気する奴の言葉は信用できない』って。その通りだわ」
私は録音チップに報告書を添えて、彼女に差し出した。
「調査報告書です。お収め下さい」
夫人は表紙を含めて五枚の紙を取り上げ、両手を揃えて長い方の一辺を持った。そのまま破り捨てるかと思われたが、彼女は私達二人に目を走らせ、何もせずにそっとテーブルに戻した。
私達はバーバラ・ロマノーソフに別れを告げ、その家から立ち去った。見送りは猫だけだった。玄関口で、二匹はブラック&ホワイトのラベルそっくりに並び、私達を見ていた。扉が閉まる間際、家の奥から号泣が微かに届き、猫達はそちらに走って行った。
入り口が閉ざされると、もはや何の音も聞こえなかった。
グラスヴィルは静かだった。都会の一角でありながら、都会の騒音に憧れ、やかましい流行歌に浮かれる田舎者には、向いていない街だった。静謐の美しさを知る者が住むべき土地だった。それとも喧噪に疲れた者のたどり着く街か。
私達はメイプル・ブールヴァードのオフィスに帰った。後味が悪い仕事は、なにもこれに限った事ではなかった。冷静に考えれば、今回の仕事はむしろましな方だったが、しばらくは、今日の残りの時間くらいは、何もせずに居たかった。私は仕事の依頼が来ていない事を祈った。
地下の駐車場に車を入れ、建物の三階に登る。スウィート&シルバースタイン探偵事務所と書かれたドアを開くと、そこは待合室になっている。ここに客が待っていた事は今だかつてなく、今日もまた誰も居なかった。それは良い知らせに思われた。
事務所の中に入って、セミスウィートに電話番の報告を求める。仕事の依頼はなく、グランド・モータースからクリッパーの修理を完了した、との連絡だけがあった。ずいぶん速くできたものだが、何はともあれますます良い兆候である。
帰って来た時はちょうど真昼の十一時だった。すぐに食事に出ても、どこも混んでいる事だろう。ここのキチネットにも、サンドウィッチ程度の材料なら用意してあった。私は発酵バターを塗ったライ麦パンにハムを挟んで、パール・オニオンをピンで留め、プライヴェートに持って行った。
エリーはオフィスのサイドボードから、飾りに置いてあるサニーヒルズ・デューを持ち出して、生のままタンブラーに半分注いだところだった。彼女の故郷、グリーン・メドウのバーボンだった。エリーは百プルーフの酒を口に含むとたちまちむせて、水が欲しいと言った。私は汲みには行かなかった。
私は事務室の電話を居留守の状態にして、かかってきても逐一報告しないよう、セミスウィートに命じた。こうしておけば客がついてもセミスウィートが丁重にお断りしてくれる。
プライヴェートのベッドでうたた寝を始めたエリーの足元で、私は本を片手に、だがそれを読むでもなく、ただ漫然と時間を過ごしていた。HVの番組もこの時刻は大部分が安手のドラマで、そのうちの一つでは痴情のもつれから人が殺され、拳銃を乱射する私立探偵が活躍してさえいた。俳優は美形だったが、私はその種の物語には食傷していた。
何もせず、昼下がりの倦怠をまともに味わうのも、こんな気分の時には悪くない。私は事務所ではなく、アパートメントに帰るべきだったと思い始めた。ここに来たのは、多少とも残っていた職業意識に支配されていたためかも知れなかった。
退屈を楽しむのにも飽きてきた頃、セミスウィートが電話がかかってきた旨を告げた。仕事用にではなく、プライヴェートの回線にであった。
「やあ、元気かね」
ジョージ・フィリップスだった。
「そちらこそ大変お元気そうで何よりですわ。この電話にかけると、またエレンに怒られますよ」と私は答えた。
「出たのが君で助かったよ。君らが居留守を使うから、しかたなくこっちにかけたのさ」
「どうして居留守だとお判りになったの」
「セミスウィートの応答の仕方が、本当に留守の時とは違ったからね。それはそうと、だいぶ機嫌が悪そうだね」
「大きにお世話様。エリーに用事なら、今は寝ていますわ。起こしましょうか」
「いや、あの娘の寝起きは恐いからね。特に仕事をしくじった後となると」と彼は薄い笑いを見せた。
「仕事は首尾よく済みました。首尾よく一人の犯罪者と一人の植物人間と一人の裏切られた未亡人を作り上げて、首尾よく日々の糧を得ましたわ」
「まあそう卑下したものでもない。そう言うときに悪かったのは君じゃない、運さ。この職業は、君にはあまり向かないんじゃないのか」
「どこかに向いている人が居るのかしら」
彼の声を聞きつけて、エリーが目を覚ました。電話のスクリーンを睨んで、彼女は低く唸った。
「あんた、一体何の用があんのよ」
「いやなに、君達二人を食事に御招待したいと思ってね」
「あんたの手料理ならお断りよ。クリスのハムエッグの方がはるかに美味しいわ」
「それで前菜はスコッチ・エッグで、デザートがポーチド・エッグかい」
「乾杯はエッグフリップにしましょうか」と私。
「最高の晩餐だね。栄養士が泣いて喜ぶだろう。そんな鶏に怨まれそうなメニューじゃなく、いつぞやのJ・S・バッハだ」
「あんたじゃ入れてくんないわよ」
「だから、そちらのお嬢様を同伴して行くわけだ」
「クリス、あんな事言ってるけど、あんたどうする」とエリーが訊いた。
彼女は、私がシルバースタインの名を利用される事を嫌うので、わざわざ訊ねたのであった。J・S・バッハは一見の客はまず迎えないし、二度目以降でも店主とボーイの眼鏡にかなわねば、いかなる名士と言えど慇懃に排除される。平生はさして品の悪くないエリーでさえ、私の共同経営者たればこそ入れるのであった。
「御一緒しましょう」と私は言った。「偽名のクレジット・カードで支払うようなまねをしないのなら」
「その点は大丈夫だ」と彼は澄まし顔で「経費で落ちる」
「仕事の話なのね。道理で気前がいいわ」
「はは。それでは、これからお迎えに参じましょう。しばしのお別れ、御機嫌麗しゅう」
彼は片腕を胸の前に曲げ、恭しく一礼した。御者つきの四頭立て馬車でも仕立てて来そうな様子だった。
「ちょっと、予約はしてあるの」とエリー。
「ああ、済んでるさ。フィリップスの名でね」
「となると、あんたのクライアントは相当の人物ってわけね」
約十分後、ジョージのコンヴァーティブルがメイプル・ブールヴァードに停まった。私達の前に現れた彼の服は残念ながら正装ではなく、電話に映った深い緑の上着のままだった。もっともあの店の品位を損なわない限り、服装は問題ではないのだが。
私はひとまず彼をオフィスに迎え、紅茶をたてて、ミルクの壷を片手に彼に訊ねた。
「ミルクは先に入れます。それとも後から」
「同時に入れて、後でミルクだけ抜いてくれ」
「相変わらず素直じゃありませんのね」
「誰に似たんだろうな」
「それにしても早く着いたわね。さっきはいったいどこに居たの」とエリーが訊いた。彼のオフィスはエンジェルロストの片隅、ウリエル湾岸のレイモンド・プレイスにある。十分間で到着する距離ではなかった。
「サンテレジアに来てたんだ」
彼は花柄のウェッジウッドを持ち上げ、それ以上の事は語らなかった。
彼の自動車の幌はたたまれていた。雨の心配はなさそうだが、夕暮れの接近を知らせる大気が膚に冷たかった。彼の弁によれば、どこかの不心得者にキャンヴァスを破られたため、拡げられないのだそうだ。
「昔はよかった」と彼は運転しながら言った。「ついこの間まで、アウロラの住人は移民審査を通過したエリートのはずだった。少なくとも、他人のキャンヴァスを切り裂く輩は居なかった。今じゃ馬鹿どもが天使でさえ迷子になる場所に殺到して来やがる」
「あなたから人生訓を聞かせて戴けるとは、思いもよりませんでしたわ」
「暇な時にもっと考えておくよ。昔から哲学者って奴は暇人だからね。哲学だけしていれば済む、いい身分だ。それとも、暇だからつまらん事ばかり思い付くのかな」
「暇になっても哲学を必要としない人が、最も幸せなのでしょうね」
「そう、アダムとイヴのように。奴らはリンゴをかじったが、芯だけは残したんだ」
「きっと苦かったんでしょう」
彼は運転中に話す場合も、エリーのようによそ見はしない。そのかわり、彼は句読点ごとにハンドルから手を離した。それでも、私達の車は無事約束の地に到着した。
十三 サティ
円舞曲「金の粉」
J・S・バッハのバッハ(BACH)はドイツ語で小川を意味する。この店はエンジェルロストの灯を見下ろす高台の縁に建ってて、トゥオネラ川の急流の上に迫り出したテラスを持っていた。全てが地球産の材木で組み立てられてるから、山小屋風のたたずまいに似合わず、大変な費用をかけた建物なのだ。
ジョージは食事の後、秋の夕日のさすテラスにあたし達を誘った。
「アメリカン・ビューティ」と彼はボーイに言った。
「この季節に外でカクテル?」あたしは顔をしかめた。
「美人の二人に合わせたんだ」
「嘘ばっかり。あたしはコーヒーでいいわ」
そしてクリスはホット・バタード・ラム。年輩のボーイが引き上げると彼はそのまま席を立って、丸太の手摺から下の川面を覗き込んだ。
「君達の仕事はどうだったんだい。裏切られた未亡人がどうのと言ってたが、死人が出たのか」
「いいえ、始めから未亡人でした」とクリス。
「生まれた時から?」
「茶化さないで。夫の自殺の原因を調べてくれって頼まれたの。そしたら当の夫は、実は愛人を囲ってて、それをネタにある人から脅されてたってわけ」
「それを苦にして自殺したのか。なにもその程度で死ぬ必要はないだろう?」
「あたしに言わないでよ。それにもういいの。一応は片付いたんだから。依頼人のおばさんと話してると疲れちゃって。あの人、悲劇のヒロインになりきってて、カタルシスを自給自足してるの」
彼はエンジェルロストの街を見渡しながら、モス・グリーンの上着のポケットから煙草を出して火を着けた。銘柄は薄暗くてはっきり判んないけど、たぶんいつものジタンだろう。
「君だって、結婚して暇を持て余せばそうなるかもしれないぜ」
「結婚しても仕事を続ける女性は大勢いるわ」
「そうしなければ食べていけない女だって大勢いるし、やくざ者の旦那を養わなきゃならない女だっている」
「まあね。それでも結婚には夢を抱くものよ。大概の女性は」
「結婚するのは喜劇を一本書く事だ。子供を産むのは悲劇を一本書く事だ」
「クリスみたいな事言わないの。あたしはもうちょっと素直だわ」
「今のはどなたの言葉ですの」とクリスが訊ねた。いつか孫引きするつもりなんでしょ。
「俺の言葉だ」
「結婚相談員でもなさった方がよろしいんじゃありません」
「未婚のくせに?」とあたし。
「死んだ事もないくせに、天国がどうのとほざくのも居るよ」
飲物が届くと彼はテーブルに戻り、深く煙を吸い込んで煙草を置いた。そしてその排気と一緒に、今日のそもそもの用件について口を切った。
「君達に頼みたい仕事がある」
「どのようなお仕事ですの」とクリスが訊いた。
彼はグラスを手に、椅子の背に寄りかかって足を組んだ。沈みかけた太陽のカーマインの光に浮かび上がるエンジェルロストのビル群が背景だ。
「君達はグランド・モータースに聞き込みに行っただろう」
「行ったわ」
「あそこには実験用の猿が一匹居たはずだが、会って来たかい」
「会いました。それがどうか致しまして」
「もう一度会って来て欲しいんだ。もちろんそれは口実で、ある情報をあの会社から引き出して来てもらいたい。あの猿につながってるコンピュータから引っ張り出せるはずなんだ」
「何の情報なのよ。細かい事なにも言わないじゃない」とあたし。
「よろしい、背景から全て話そう。ただし、もし引き受けない場合には、一切を忘れてもらいたいんだが」
「今のうちに忘れときたくなってきたわ」
ジョージはあたしの言葉を相手にしなかった。この男は昔から、怪しげなとこから危ない仕事を受けるのが好きだった。これって一種の自殺性向なのかしらね。
「四日前にグランド・モータースの試作戦車が暴走して一騒動あったのは、君らも知ってるはずだ。記者会見を見物してたんだからね」
「あら、あんたもあそこに居たの?」とあたしは言った。彼はうなずいた。
「あの戦車の特徴について、何か憶えているかい」
「確か、生物の脳の思考を参考にした、と聞きましたわ」
「そう、だが実はそれは何も言ってないのと同じなんだ。今時のコンピュータの類は、みんな人間の思考をまねてるわけだから、その程度じゃ特徴とは言えない」
彼は辺りを見回した。この寒い中、テラスで暢気に話し込むバカなんか他には居ない。黄色い枯葉が二枚、樫のテーブルでフォックス・トロットを披露して、舞台の袖に消えた。あたしは湯気の立つカップを両手で包んだ。
「その戦車のASPSと呼ばれる制御装置には、本物の脳が使われていたんだ」と彼は平然として言った。
「まさか、実験中にウィルスにやられたって人の脳じゃ……」とあたしは言った。
「それならなかなかのスリラーだが、そっちの実験と直接の関係はない。今のところはね。使われたのは犬の脳だった」
彼はクリスを気遣わしげに見た。犬好きの彼女は見るからに不愉快そうな顔をしてる。
「そんな事、あの会社行った時も全然聞かなかったわよ。それに、犬の脳を使ったからって何が問題なの」
「実験段階では何も問題はないさ。どうとでも言い訳がつくからね。だがそれを量産しようとするなら話は別だ。そうした場合、その製品は生物利用兵器として、セレス軍縮条約に反する。おまけにクリスみたいな博愛主義者の怒りも買うだろう」
「そうですわね」とクリスが言った。「それにしても、グランド・モータースやインターナショナル・バトル・マシーンズは、大量生産用に犬の飼育をする当てがありますの」
「あったんだろう。あの会社は実にいろんな事業に手を染めてるからね。まあ、いずれ詳細は薮の中さ。君達にはその辺も含めてこの計画のアウトラインと、できれば設計図の類も持って来て欲しいんだ」
「設計図って、あの戦車は事故の直後、サンテレジア署の裏に置いてあったんでしょ。いくらでも調べられたじゃない。それにそんな条約違反の兵器に買い手が付くの?」
「一つめの質問については、もちろん俺も実物を見てみた。だが、肝心の部分は誰かが――どうせグランド・モータースの関係者だろうが――持ち去った後だった」
彼は煙草の火を消し、カクテルで喉をしめらせた。日は沈み、黒から紫を経て朱に至る空には星がいくつか光ってる。店内から漏れる光の中で、彼は話を続けた。
「で、次の質問だが、アウロラ駐留の合衆国宇宙軍は、違反も何も承知で買い付ける予定だった。今度の事故でそいつもかなり怪しくなってきたが、本来ならその契約の証拠も揃える必要があるんだ」
「あんたが自分でやんなさいよ。あんたの仕事でしょ」とあたし。
「ついさっき、あの会社に行って見学を申し込んで来たが、断固として断られたよ。どうやら面が割れてたらしくてね。人気者の辛いところさ」
「だぁれが」
「ミサイルで追っぱらわれるほどには嫌われなかったぜ」
「よく御存知ですこと」
「君らの事なら何でも知ってる」
「どうせニュースで流してたんでしょ。うちのいい宣伝になるわ」
「残念ながら、その事件は放送されてない。そんな事はどうでもいいが、とにかく俺は機械に近付けないんだ。操作要領は内部の人間をたぶらかして聞き出したが、そいつがやるわけにもいかない。今後支払われる予定の給料に、まだ未練があるそうでね」
「あの猿の所じゃなくちゃいけないの」
「ああ。それに君の場合、猿と気が合いそうだから」
「ほめてるの? それ」
「そうさ、コンピュータの操作は君しかできそうにないから、ほめておいた方がいいだろう?」
「判った、やったげるわ。クリスはどう?」
彼女はちょっと返事が遅れたけど、できるだけ即答に近いタイミングで答えた。なぜか声が少し怒ってた。
「引き受けましょう。その前に一つ伺ってもよろしくて」
「何だい」
「あなたの依頼者はどなたですの」
彼は真顔で答えた。
「動物愛護協会だ」
ジョージの真の依頼主が誰であれ、今回あたしらのお客様はとりあえずジョージっ
て事になる。
翌日の午前中、あたしはグランド・モータースに電話して、修理が済んだロールス・ロイスを受け取りに行くついでに、も一度ディダラスに会ってお話をしたいと伝えた。電話を受けたベネットさんは、怪訝そうな顔であたしを見つめ返したけど、特に理由を問い質したりはしなかった。ただし、十二時以降にしてくれって言われた。それはこっちとしても異存はなかった。
あたし達はまずジョージの家に行って、その会社の情報網に侵入するやり方を教わった。侵入の方法は、軍の機密情報まで扱ってる機械の割には簡単で、ロマノーソフ氏のパスワードをロマノーソフ氏の声で伝えればいいのだった。彼のユーザー登録は今月の末まで生きている。ジョージはコンピュータのメンテナンス要員を買収して、登録された彼の声紋データとパスワード『メタコグニション』を一緒に手に入れてあった。後はそれを合成してやれば、OIの監視を避けてアクセスできる。
「顔はどうなの。あたしにロマノーソフのマスクでもかぶれって言うんじゃないでしょうね。あたしそういう顔が痒くなりそうなの嫌よ」とあたしは言った。
「オフィスに置いてある端末だと、顔のチェックもしっかりするそうでね。それだから猿の所の機械からやれって言ったんだ」
「そっちにはカメラは付いてないのね」
「付いてない。そこの機械は、この戦車のプロジェクトに開いた蟻の一穴なんだ。本家宇宙軍のコンピュータなら、指紋なり眼底なり、もうちょっとましな識別をやってるはずだがね」
ひとたび侵入しさえすれば、後のファイル操作はコンソールで直接やるから、声色は使わなくていい。そのかわりクリスみたいに、OIを介した会話型インターフェイスしか知らない人には、とてもじゃないけど無理な仕事だった。あとは、恐らく膨大な量にのぼるだろうファイルの山から、目的のそれを探し出す時間が心配だ。
「ファイルをいじってる時、お猿さんが騒ぎ出さないかしら」
「そうだな。バナナか何か持って行くといいだろう」彼はまじめに答えてない。
「クロロホルムでも持ってこうか。クリスは麻酔銃持ってたっけ?」
「いいえ」と彼女は簡単に片付けた。
「心配ないさ。あの猿は大人しいそうだから。いや、君らは会ってたんだな。俺より良く知ってるはずだ」
ちょっと無責任だけど、ここで悩んでてもしょうがないから猿の話はやめにする。
彼は機械の操作やデータ構造を教えながら、事の背景をもう少し詳しく教えてくれた。あの戦車が試験中に暴走したってのは嘘っぱちで、ちゃんと動くかどうかもまだ判らない段階で、いきなり走り出したんだそうだ。それも彼の『動物愛護協会』が潜入させた人物が、不用意にASPSの現物を持ち逃げしようとして、しくじったのが原因だった。
ASPSのために脳を抜かれた犬が、どのくらい臆病だったのか判んないけど、戦車は逃げ回ってただけだ、とのベネットさんの言い分は、それはそれで正しいんだろう。
ちなみに、彼の前任のスパイは戦車にはねられて重態だそうだ。一応、グランド・モータースには正社員として潜ってたため、いまんとこ正体はばれてない。そのかわりコンタクトもろくに取れないそうな。
つまるところ、やっぱり産業スパイが居た事は居たわけだった。しかもそれがジョージで、あたしがその片棒担ぐ事になるとはね。
さて、そうこうしてるうちにおでかけの時間になった。おっといけない、肝心かなめのギャラの話がまだだった。
「料金はちゃんと払ってくれんの?」
「言い値で払うよ。後で俺の口座宛に請求してくれ。ただ水増し請求はやめろよ」
「あんたのお客さんは、よっぽど金離れがいいのね」とあたしは言った。「それはいいけど、ほんとにやばい筋の仕事じゃないんでしょうね。またミサイルが飛んで来るのは嫌よ。こないだだって危うく大怪我するとこだったんだから」
「負傷でもした日には、揺り椅子探偵に看板を変えないといけないな」
「車椅子の間違いだわ」
「まあ看板の心配は要らないさ。少なくとも動物愛護協会は武装していない」
今まで、技術的な話が続く間、ずっと黙ってたクリスが口を開いた。
「いつでしたか、動物愛護を旗印に、毛皮の販売店を爆破したテロ事件がありましたわね」
さっぱり気休めにならなかった。
十四 ファリャ
バレエ音楽「恋は魔術師」から
火祭りの踊り
目が覚めた時には軽い頭痛をおぼえていた。ただ何か嫌な夢を見ていたような漠然とした印象があった。どんな夢だったかも定かではない。夕べは酔うほどの酒も飲んでいないのだが。その頭痛もアパートメントを出発するとまもなく癒えた。
私達がグランド・モータースに到着したのは、約束の時間より三十分ほど早かった。別段、非礼に当たるほどの事ではなかった。待たされたとて苦情は言えないにせよ。
今日の入り口の警備は、ロボットが行っていた。R・ダニエルやR・サミュエルより頑丈な機種である、R・デイヴィッドだった。あのミサイル事件以来、警備の方針を変えたのか、単に人手が不足したのか。私としては、身の危険さえなければどうでもよい事である。
当然、人間の守衛もどこかに居るのだろう。監視のための大きなカメラが私達を追跡した。実際の監視の効果よりも、見張っているぞとの姿勢を誇示する目的のものである。恐らくモニター・スクリーンの前には、大きなあくびがあるのだ。そのあくびさえ自動化されているかも知れない。
まず、今回の訪問に際して口実に使った自動車の受け取りのため、指示された工場の一角におもむいた。クリッパーはきちんと修理され、整備されて、襲撃以前よりかえって綺麗になっていた。ハーフビターも健在で、きちんと私達を見分けてくれた。長らく姿をくらませていた愛犬に、久しぶりに再会した気持ちだった。
今まで乗っていたレインボー・スティールはそこで返却し、クリッパーで事務所棟に向かう。薄緑の建物はすぐ近くだったが、エリーがはしゃいで無闇に構内を乗り回したため、早く着いた分はあらかた帳消しになった。
ロビーには『ゴルトベルク変奏曲』が流れていた。不眠を慰めるために三世紀半の昔に書かれ、今もなお音楽療法に用いられる曲だった。
穏やかなアリアに乗って、リー氏が近付いてきた。彼は私達のお守り担当と決まったようだった。彼はにこやかに言った。
「また会えましたね、お目当てが私じゃなくイカラスだってところが残念ですが」
「あら、そう悲観したものでもございませんわ。あなたの方がはるかに人間的ですもの」と言ったそばから、私はそれを後悔していた。彼の機嫌をそこねる言動は、極力慎まねばならなかった。
「ありがとう。これほど人間に生まれてよかったと思った事はありませんよ。それはそうと、イカラスに何の用があるんですか」
「ロマノーソフさんの事について、ちょっと訊きたいんです。やっぱり関係者なわけですから」とエリー。
「なるほど。関係者と言えば、シンシアには会ったんですか、結局」
この質問が出たのならば、ベネット氏は彼女の入院を伏せているのであろう。私は嘘はつかずに答えた。
「ぜひ、お話したいと思いますわ」
彼の先導で、私達は再び猿の待つ小部屋へと向かった。猿のイカラスはコンピュータのディダラスがなければ話せない。あの部屋が彼の全宇宙なのだった。
前回の訪問の折にエリーがさまよい込んで連れ戻された廊下から、実験用の鼠が大量に運ばれてきた。かごに入った無毛の鼠はよく見えなかったが、動きが少なく死んでいるかの如く思えた。確かにここでは頻繁に動物を消費するのだ。
「イカラスの世話はどなたがなさっておいでですの」と私は訊いた。
「私がやってます」とリー氏。「シンシアが復帰するまでしかたなしです。もっとも餌や何かはR・ダニエルにやらせてますから、それほど手はかかりません。それに、なかなか話せる奴なんですよ。結構気晴らしにはなりますね」
「あたしもチェスの相手でもしてもらおうかな」
「相手じゃなくて指南でしょう」と私。
「はいはい、どうせ下手ですよだ」とエリーがおどけて言った。こちらの目的を気取られぬための所作だ。あまり度を過ごしてもいけない。
まもなく目的の部屋に着いたが、当然の事ながらリー氏は立ち去る気配を見せず、一緒に室内に入った。もちろん彼の目の前で企業秘密を引き出すのは不可能だった。
ジョージは内通しているオペレーターに対して、私達がアクセスし始めたらそれが他人に漏れぬように、約束を取り付けていた。つまりその人が我々の行動を『見落とす』わけである。室内には監視カメラの類は見当たらず、あとはなんとかしてこの場からリーさんを追い払えば事は足りた。
イカラスは部屋の片隅に居り、地獄門の上で思案する人のように、頬杖をついて本を読んでいた。いわゆる猿まねで無意味にページを繰っているのではなく、普通に人が読書している姿となんら変わる所はなかった。しかもその本は、あろう事かショウペンハウエルだった。およそ猿らしからぬ振る舞いであり、世の読書人を扱った風刺画を思わせた。
私達が部屋に入ると、彼はおもむろに書物から目を離した。私は夜空より深い瞳に見つめられた。
「いらっしゃい」と彼はコンピュータを通して言った。「またお会いできると思っていました」
「こんにちは」と私は笑顔を返した。
イカラスに愛想を良くしたところで、何の益があるわけでもないが、さりとて辛く当たる理由も全くなかった。むしろリー氏に対するジェスチュアとしての意味が大きかった。エリーはイカラスの前にしゃがみ込んで、その頭を撫で回した。猿の表情にはさしたる変化はない。
「申し訳ありませんが、席を外して戴けませんかしら。少々立ち入ったお話になると思いますので」と私はリー氏に言った。
「それは、グレッグとシンシアのおつきあいの話ですかね」彼はイカラスと私を見て言った。
「あら、そのお話も面白そうですわね。後ほどお聞かせ願えませんこと」
「いやあ、誰でも気付いてた事ですよ」と彼は口の端を歪め「誰でもね」
「それほど公然とした仲でしたの」
「さすがに職場でいちゃついたりはしてませんでしたがね。しかし、それを調べてどうするんです。それも奥さんの依頼の内なんですか」
「ええ、そうですわ」
「なるほど判りました。私は退散しましょう」
彼は存外すなおに出て行きそうだった。もしも彼に退去を渋る気配が見えれば、その時は私の腹痛が出番のはずだった。もっとも、常に二人一緒に移動させられたらそれまでだったが、その時はまたその時である。
彼は私達に背を向けてドアに向かった。そして部屋から出る間際に振り返り、いかにも忠告然とした言葉を私に与えた。
「ああ、そっちのディダラスは絶対にいじくり回さないで下さいよ。イカラスが失語症になりますから」
私は微笑をたたえて、彼に了解した旨を伝えた。彼は図星をさしたわけだが、私は、少なくとも意識的には、平静を装える自信があった。しかし無意識の領分となるといかんともし難く、エリーは彼の台詞を聞くや否や、猿の頭に置いた手がぴたりと止まった。彼女は私など及びも付かぬほど心理学の素養を持っているが、こうした場合に知識は重要ではないのだ。
静かにドアが閉まるとエリーはそちらを振り返り、数秒間耳を澄まして様子を窺った。私はバッグからレコーダーを取り出して、スティッキング・マイクを壁に張り付けた。廊下からはリー氏の遠ざかる足音しか響いてこなかった。私はエリーに親指を立てて合図を送った。彼女はうなずいてイカラスのもとから離れた。
私はマイクを剥し、彼女にレコーダーを渡した。それには、この会社のコンピュータに登録された声紋データを基に合成した『パスワードを読み上げるロマノーソフ氏の声』が収録されている。声紋のデータから、リアルタイムにエリーの言葉をロマノーソフ氏の声に変換する事も可能であったが、話し方の癖などまねのできない要素も多いので、録音されたパスワードに止めた方が賢明だった。
エリーは無言のままディダラスのコンソールに向かい、キーを一つ叩いてからロマノーソフの声を再生した。ジョージが言った通り、機械は素直に彼女の操作を受け入れた。どんなに厳重な錠であっても、誰かが解く事を前提としている限り、それ以外の者が解くのを完全に阻止する事はできない。
彼女は黙々と機械の操作を続けた。私は彼女の後ろからその指さばきを眺める。イカラスは再び読書に戻った。彼にしてみれば、今は脳髄を掻き回されているようなものだが、特に不快に感じてはいない風情だった。
私はイカラスに話しかけた。それを口実にリー氏を追い出した以上、多少とも会話をした形跡があった方がよいだろう。私は言葉遣いに悩んだ。動物園の猿ならば幼児語ですら高度に過ぎるが、この相手は哲学書を手にしているのである。
「難しい本を読んでいらっしゃるのね」
彼は目を上げて私に視線を向けた。彼は表情には乏しいのだが、不思議と穏やかな菩薩の笑みが漂っている。
「それほどでも。あなたもやはりこれをお読みになってますね」とイカラスは言った。
「あら、どうして御存知でしょう」
「いいえ、なんとなくそう思いまして」
確かに私はかつてその本を読んでいた。その昔、あの地球での日々。夢多く、悩み多く、希望もまた多く。どちらかと言えば、私に深窓の景色ばかりを見せたがった父。唐突に、彼は私を突き放し、このアウロラへと送り込んだ。彼一流の教育的配慮なのであろうが……。
私は突然の取り留めのない思考を押さえつけて、猿との対話に戻った。
「あなたはあのディダラスを通じて、会社のブレインに入れるのでしょう。わざわざ本の形で読まなくとも、データ・バンクから書物の内容は判りませんの」
「本というのもいい物です。そうは思いませんか」
「ええ、思いますわ」
彼の答には反問が目立ち、あまり素直とは言えなかった。私は少し不愉快に思いながらも、彼から聞き出す事になっている名目上の問題に話頭を転じた。
「ところで、先程のリーさんとの話を聞いて御存知でしょうが、私達が今日伺いましたのは、あなたの飼い主……と言ってよろしいかしら、そのロマノーソフさんとフォーチュンさんとのおつきあいの程度について、お訊ねするためですの」
「存知上げておりますとも。そちらこそ、私なぞに訊かずとも答を御存知でしょう」と彼は再び問い返した。可愛い気のない猿である。
「さあ、それも確かめたい所ですわ。あなたと私と、果たしてどちらが詳しいのか」
「御質問の内容については、私より一方の当事者であるシンシアに訊いた方がよろしいでしょう。病院の場所は説明するまでもありませんしね、あなた方には」
「ふええ」とエリーが吐息を漏らし「ね、クリス。ちょっとちょっとちょっとちょっと」とスクリーンを睨んだまま手招きをして私を呼んだ。反復がちょっと多い。
私がイカラスの相手を中断して彼女の横に行くと、彼女はディダラスの小さなスクリーンを指して言った。そこには登録されたファイルのメニューと思しき、数十件に及ぶ一連のタイトルが列挙されていた。
「ほらこれ見て。よくもまあこんだけ手を付けたもんだわ」と彼女。その指の先に並ぶ題名は、いずれも生物の軍事利用に関する内容であった。
『VB5δの貯留と散布及び事後の無毒化』
『猫の高知能化による隠密偵察の可能性』
『変調された超音波を用いた鼠の攻撃衝動制御』
『宇宙戦における微生物汚染とその除去』
『宇宙空間での金属腐食細菌の放射線耐性』
『戦闘を目的としたサイバネティックス・パーツ』
その他諸々である。
これでは条約も道徳もあった物ではない。これだけ揃えられると、イカラスや障害者向けの義手義足など、単なる隠れ蓑に過ぎないのがよく判る。
「この『VB5δ』と言うのは何かしら」
「きっと細菌かなんかのコード・ネームでしょ。タイトルからしてね」
エリーはそのレポートの梗概をタイプした。まさに彼女の推測通りであった。前回の訪問の際に、リー氏がその存在を漏らしたバイオ・ハザードや放射線の区域では、こうした研究が行われているのであろう。
「そのうちホムンクルスにも手を染めそうね」と私は言った。
「あったわよ、それに近いのが」と言うと、彼女はメニューをスクロールさせ、タイトルの一つを指した。
『霊長類の大量クローニングの研究』
これ単独では大した害はなさそうに見えるが、このリストに含まれているからには、内容の見当も付こうと言うものだ。兵士の大量生産でもしようというのだろう。私としてはかなり誇大な冗談のつもりだったが、グランド・モータースのパラケルスス達の方が上手だったわけである。
「どうです、面白いでしょう」
入り口の辺りから、私達に話しかける声が聞こえた。私は振り返った。戸口にはリー、ベネット、そして警備員が二人立っていた。私はほぞを噛んだ。廊下に対する注意を怠っていたのである。もっとも、警備員同伴で現れたところを見ると、たとえ警戒していたとしても無駄だったのかも知れない。
「本当に残念です。私はあなた達を信頼してたんですが、裏切られましたね」とリー氏が言った。こちらは一言もない。
「あなた方から今度の申し出があった時点で、我々はそちらの身元を洗い直しました。どうもあなた方は、同業者のフィリップス君と仲がよろしい御様子ですな。彼ならこちらに何度かいらした事があるので、よく存じ上げておりました」とベネット氏が皮肉混じりに後を継いで「本職であるあなた方には及ばないかも知れませんが、こちらにもそれなりの情報力はありまして、この程度ならわけなく調べがつくのです」
「バックに宇宙軍も居る事だしね」とエリーが答えた。
「これは心からの忠告ですが」とリー氏は哀れみに満ちた目付きになって「これ以上の詮索はやめた方がいいです」
「感謝いたしますわ。当然、告訴なさるおつもりなのでしょうね」
「そうなるでしょうな。御父様がさぞ落胆されるでしょう。ミス・シルバースタイン」
「父は私などとうにあきらめております」
「とんでもない。我々が恐れていたのは、他ならぬあなたの御父様の介入でした。だからこそ、こうして現場を押さえて、有無を言わせない必要があったのです」
彼は連れの守衛に、持ち場に戻るよう指示した。後々証人に使うつもりなのであろう。
「まるであたし達が来るのを始めから予定してたみたいな言い方ね」とエリーが言った。
「ええ、うちではしばらく前から情報漏れに悩んでましてね。シンシアのおかげで、あなた達も知ってるアレックスのルートが、とりあえずふさがりました」とリー氏。
「あの人、やっぱりスパイもやってたの」
「彼はシンシアが言った通り、専ら社員のプライヴァシーに興味があったようです。機密の漏洩には無関係でした。しかし、その調査の過程でもう一つ、フィリップスにつながる情報のリーク源を発見しました」とベネット氏が説明した。
「そこにおとりの情報として、ブレインへのアクセス方法を流したところ、それに忠実に従って、あなた方お二人がやって来られたわけです」
ベネット氏は、実験動物の死亡統計を見る製薬会社の経営者より冷ややかに言った。確かにこの程度の罠は、予期して然るべきであった。
「それによって、そのルートでの情報漏れの動かぬ証拠ができたってわけね」エリーは肩をすくめた。
「ええ、今日のあなた達の行動は、今に至るまで全て記録してあります。残念ですね。ディダラスには触るなと言ったのに。私個人としちゃ、女の子を犯罪者なんかにしたくなかったんですがね」
「その記録は裁判にも使うの? あんなタイトルのファイルがあるって知れたら、世の中大騒ぎになるんじゃない」
エリーの問いに、ベネットはこころもち胸を反らせて答えた。
「御心配なく。この種の国益に関わる事件では、対象となる情報の機密性いかんによって、非公開裁判とする事ができます。むしろあのリストは非公開にする根拠として役立つでしょう」
「国益って……そうか、軍が控えてたんだ。やれやれ、お先まっ暗か」とエリーは肩を落とし、深い溜息をついた。
リー氏が慰めるように、優しい声で彼女に言った。
「まあ、いくらなんでも死刑にはならんでしょうし。あなた達は、どちらかと言うと利用された側ですから、大した事にはなりませんよ。謙虚にしてれば、ですが」
彼の言う大した事ではなくとも、探偵業の資格剥奪といった程度は覚悟せずばなるまい。もちろんそれだけで済むとも思えない。
「今日の所は、こちらもこの場でどうこうしようとは思ってませんから、そろそろお引き取り願……」
その言葉が終わる前に、誰かの含み笑いが静かに、しかしはっきりと聞こえてきた。その場の一同は、互いに顔を代わる代わる見合わせた。笑っている者は一人も居ない。私は最後にイカラスの方を見た。猿は本から目を離し、まぎれもない冷笑をその口元に浮かべていた。笑い声はディダラスを通じて発している。彼は本を閉じて言った。
「ふふ、失礼。皆さんの活躍は存分に楽しませて戴きました。せっかくのお芝居を公開しないでのは、少々もったいないとは思いませんか」
彼は猿の目で我々を眺め渡した。無音の三秒間が過ぎて、ようやくベネット氏が一言、彼に言葉を返した。
「何だと」
「あなた方の大事な秘密のファイルは、たった今、私がアウロラ中の通信社、新聞社、HV、その他思い付く限りの報道機関に流しました」
「何だと」
同じ言葉を繰り返すベネット氏に代わって、リー氏が反論した。
「そんな得体の知れない情報なんて、どこも本気にはしないよ」
「私が信じさせます。クリスとエリーやジョージ・フィリップスに、会社が撒いたおとりを素直に信用させたように」
「信用させた、ですって」と私は思わず声を上げた。
「ええ、それに全ての報道機関に同時に同じ情報が送られれば、それはそれだけでニュースになります。大手の機関なら、あるいは軍にお伺いを立てるかも知れませんが、必ずどこかに勇み足を踏んで報道するところが出ます。私がこれ以上何もしなくとも」
イカラスは私に視線を転じて続けた。
「それから、クリス。あなた方お二人が起訴される心配はありませんよ。たとえされたとしても、証拠不充分で取り下げざるを得なくなるでしょう」
「そんな事は……」とベネット氏は絶句して「まさか」と言った。イカラスが話し始めて以来、彼の言葉は文の体をなしていない。
「そう、この二人の今日の行動記録は全て消去しました。物証と言えるものは、もうありません」
リー、ベネット両氏は顔を見合わせ、そろってディダラスに駆け寄った。事実確認のためであろう。コンピュータの前の二人は互いに相手が操作するのを待ち、自分から手を出そうとはしなかった。互いに相手の考えに気がつき、操作の手を伸ばしたのも同時だった。リー氏がややおどけた態度で、ベネット氏にコンソールを譲った。
「そもそも君は私のパスワードを知らないだろう」とベネット。
「プロムナード」とリー氏は言下に答えた。
「なぜ知ってる」
「さ、さあ。なぜだか判りませんが」
「たった今、私が教えました」
最後の台詞はイカラスのものだった。しかし声そのものはディダラスから出ているため、ベネット氏は反射的に自分の目前にある装置を睨んだ。やがて発言の主に思い当たると猿の方に向き直って、先程からこれで三度めになる問いを発した。
「何だと」
十五 チャイコフスキー
バレエ音楽「くるみ割り人形」から
第二幕グラン・パ・ド・ドゥ
イカラスがあたし達に罠を信じさせたと語った時から、クリスの顔色は真っ青になった。きっと、近頃の自分の情緒不安定がイカラスに起因してた事に感づいたんだろう。
ベネットさんはしばらくキーボードを叩いて、イカラスが言った通り、あたしが操作した記録が消えてるのを確認した。彼はすさまじい形相でイカラスを見据えた。
「確かに削除されているな。だが証拠がないわけではないぞ。さっき連れて来た守衛が証言できる」
「彼らを呼んでごらんなさい。かなり漠然とした答しか得られないはずです。完全には忘れていませんが、法廷での証言に耐えられる程の記憶はありませんよ。それよりもっと重要な証拠を、あなた自身が消してしまったのですが、お気付きになりませんね」
「私が?」
「ええ、そのキーボードにはエリーの指紋が残っていたのです」とイカラスが言った。エリーのって言い方は、ちょいとなれなれしすぎると思う。
「くそっ」
ベネットさんが舌打ちした。クリスはこう言う『下品な』言葉を聞くと、いつもなら露骨に顔をしかめるけど、今はなんだか呆然としててはっきりした反応がなかった。
「一体どうやったんだい。イカラス」とリーさんが言った。「さっき、グレッグのパスワードを、私に教えたって言ったね。私が聞き出したわけでもないのに」
彼としては、ベネットさんの手前、進んでパスワードを探り出したわけじゃないって事を、強調しとく必要があるんだろう。
「この生体工学研の過去の成果には、実に面白いものがあります。サンテレジアに移転する前、まだストロベリー・フィールドで、ロシア科学アカデミーの装置を借りていた時代の研究などにも」
「そうか、あれを持ち出したな」とベネットさんが言った。
「ええ、あれを使いました」
イカラスの返事はリーさんの質問には答えてない。でもこの三人の間では『あれ』で通じる何かがあって、ちゃんと答になってるみたいだった。
「あれっていったい何なの?」とあたし。
ベネットが口には出さないけどあたしを睨みつけて、おまえは黙ってろって意向を伝えた。でもあたしの質問にはイカラスが答えてくれた。
「その昔、大衆の操作を目的として、下意識への働きかけを研究していた時期がありました。それはごく普通の商業広告から、非常に高度な政治宣伝、集団洗脳をも含んだ、広範囲にわたる研究でした」
「その手法は効果が疑問視されて研究が中断されたぞ」
「効果のほどはいま体験なさった通りです。実を言いますと、今は亡きグレッグがそれを例のコンピュータ・ウィルスに応用しましてね。彼はマインド・ウィルスと呼んでいました。そちらは音や光による普通の催眠暗示によって与えられます。グラボウスキーの例のようにワイヤー経由で感染するウィルスとほぼ同様の効果を、誰に対しても及ぼす事ができます。手術の必要もありません」
「それって具体的にはどうやるの」
「例えば、安物でもいい、スピーカーが一つあれば用は足ります。そこから適切なキーワードを伴ったメッセージを、対象の意識に上らないほどの小さな音量で流せば、それだけでもそれなりの効果を上げる事ができます。もちろん対象の反応を観察してメッセージの内容や伝え方にフィードバックすれば、より効果的な暗示を与える事が可能になります」
「まるで『ビッグ・ブラザー』ね」
ベネットさんとリーさんの二人は、何もかも諦めたみたいにおとなしくなって、イカラスが話すに任せてた。よく考えると、彼をディダラスから切り放せば、すぐにでも黙りそうなもんだけど、そんなに簡単にはひっぺがせないものなのかしら。
「そのマインド・ウィルスの話も報道機関に流したのかい」とリーさんが訊いた。
「試しに流してみますか?」
彼は人を嘲るような表情で話していた。あたしは猿に嘲られた経験はないから、彼の嘲笑が本物かどうか判断の材料がなかった。でも彼としても無意味にそんな顔の演技をする理由はないから、やっぱり馬鹿にされてるんだろう。もともとこの相手はただのエテ公じゃない。ディダラスの情報処理能力を考えれば、ある意味で人間以上の存在でもあるのだ。
「もし仮に、何の権威もない一介の実験動物たる私が、直接これを放送なり出版なりしたとしても、信用する人が果たしてどれだけ居ると思いますか。グランド・モータースは当然とぼけるでしょうし、多くの人間にとってはこの問題に対する判断を要求する事自体、酷というものです。特に過剰な情報に溺れさせられている大衆においては」と彼は得意満面であたしを見た。
「そ、そりゃそうね」
あたし達にいろいろ『信じさせた』ってでかい事を言う割には、彼の今の発言は謙虚な気がする。
「エリーなら理解できるでしょう。事務所にコピーを一部送りましたから御覧下さい」
「ああ……ありがと」
彼の長広舌が終わると、それまで呆然と自失してたクリスが不意に自分を取り戻した。彼女は、その灰色がかった青い瞳をイカラスに向けて叫んだ。
「あなたなのね」
「そうです」
「警備員のサトウを操ったのも、コンピュータ・ウィルスを持ち出して、グラボウスキーにけしかけたのも」
「そうです」
「フォーチュンを半狂乱にしたのも、ロマノーソフを殺したのも、皆あなたの仕業だったのね」
あたしはクリスが人名を全部呼び捨てにするのを初めて聞いた。彼女は殺気立ってて、ちょっとおっかない。でもイカラスは相変わらず悠然と返事をした。
「正確には、私が殺したわけではないのですが。クリス」
「あなたに愛称で呼ばれるいわれはありません」
「エリーが初めてバーバラのもとに向かった時に渋滞に巻き込まれたのも、実を言うと私の差し金です。あの空挺戦車が転倒さえしなければ、エリーは自動車ごと粉砕されるはずでした」
「グレッグを殺しただと?」とベネットさんが目を剥いた。
「今も申し上げた通り、私は殺しておりません。ただ、自作のマインド・ウィルスに脳を犯された気分ははたしてどんなものか、味わって戴こうと思っただけでして」
「そのマインド・ウィルスはどこにある」とベネット。
「アレックスには昔のオリジナルのコンピュータ・ウィルスで充分でしたが、グレッグには改良版のマインド・ウィルスを適用したわけです。ところが、彼は初期の自覚症状である頭痛だけで、それと気付いてしまいました。さすがにウィルスを創り出し、改良した本人だけの事はありました」
「オリジナルもあいつだったのか」と言って、ベネットさんはリーさんと顔を見合わせ「我々は犯人探しを当の真犯人にやらせていたんだ」
リーさんは絶句したままだった。
「それじゃ彼は自殺したのには違いないのね」とあたしは言った。
「そうです。自分の改良版ウィルスが使用されているのを確認して、もはや逃れる術がないものと覚悟した時、彼は自らの手による死を選んだのです。私としては少々予定外だったのですがね。まあ、彼も自分の作品の手にかかったのですから本望でしょう」
クリスが本格的に怒り出した。彼女は感情の抑制が効いてるから、傍目にはそんなに変化はないんだけど、あたしには判る。低く抑えた声に怒りが現れてた。彼女はスカートの右のポケットに手を入れて言った。まずい。あたしはその右腕を押さえたけど、彼女は手を引っ込めようとしない。
「何が本望なものですか。まさか、最近の集団自殺事件までが、あなたの仕業だったのではないでしょうね」
「さあ、それは御想像にお任せしましょう。しかし、よくそこまで推理が及びましたね。さすがに優秀な探偵さんです」
彼は薄笑いを浮かべたまま、明らかにクリスを挑発していた。
「もっとも、あなたには真犯人が私であると教えてさしあげましたからね。あなたが集められた情報だけでは、私が一連の事件の中心だったとは、思いもよらなかったでしょう。何かのはずみでその考えが浮かんだとしても、あなたは否定なさったはずです」
「夫が猿に支配されて自殺に追い込まれたと知るよりも、単なる痴情のもつれで解釈した方が、未亡人にとっては救いでしょうからね」とクリス。
「いいえ、誇り高きあなたの自尊心にとっては、です」
イカラスがクリスを指さす。彼女の右腕に力がこもった。
「そうでしょう、クリス。御自分でもお判りのはずです。あなたは見かけより、ずっと複雑な精神構造をお持ちでいらっしゃるから。さすがに空挺戦車なんぞとは格が違います。あれに使われた犬の脳は簡単に操れましたが、あなたに踊って戴ける笛の音を探すのには、大変苦労しました。御自身で御存知の通り、あなたは基本的に虚無を見つめるニヒリストです。しかしその虚無から、イドの片隅にある夢の国を必死に守ろうともしていらっしゃる」
「お黙りなさい」とクリス。こ、恐い。
「あなたのファンタージェンなりネヴァーランドなりを見渡した時、ようやく私は鍵を見つけました」
抑えつけるあたしを振り切って、クリスが右手を抜いた。この娘のスカートの右ポケットは底抜けで、腿に結んだガーター・ホルスターに手が届くのだ。
「なにしろ、その王国の君主は、誰あろう……」
彼女は握りしめたデリンジャーを真直ぐにイカラスに向け、すぐに銃口をディダラスに転じて、二発撃った。
瞬時の沈黙の後に、イカラス本人(?)が「ぎいっ」と動物的な悲鳴を上げ、椅子から転げ落ちた。ディダラスからは真っ白な煙がものすごい勢いで噴き出して、右も左もわかんなくなった。
あたしはとっさに床に伏せた。そこまでの判断はよかったんだけど、ホワイト・アウトして右往左往するリーさんに鼻を蹴られた。涙が反射的に出てくる。彼はあわてて床に這い、あたしに謝った。
「や、こりゃ失礼。こいつは水蒸気ですね」
あたしは片手で顔を覆って言った。
「あの娘ったら、ディダラスの冷却系を撃ち抜いたのね」
機械から飛び散った冷媒の滴が、ライデンフロスト現象で床を走り回る。もっと小さい液滴は、瞬時に気化して白い蒸気の点滅する斑点を描いた。そのランダムな模様は思いのほか綺麗だった。
クリスはまだ同じとこに立ったままで、あたしには足しか見えない。今や立ってるのは彼女だけだ。
ベネットさんはイカラスの所に行って、その頭からディダラスへ繋がるコードを抜き、体を揺すった。イカラスは動かない。やっぱりもっと早く引っこ抜くべきだったわね。
蒸気の噴出はすぐに止まり、だんだんクリスの脚の上の方まで見えてきた。やがて頭上まで霧が晴れて見通しが利くようになると、彼女は猿とベネットを等分に見下ろして、昂然と言った。
「人生は、人形劇ではないわ」
他の全員の動きが止まって、そっちに視線が集まった。誰にも口を挟ませない、一種の威厳が漂ってた。父親譲りの帝王学の賜だ。でも今そんな事言うとあたしまで撃たれるかもしれない。デリンジャーは二発で弾切れだけど、きっと予備弾ぐらい持ってる。
リーさんがディダラスの状態を調べに行って、困り果てた様子で言った。
「だめだ。簡単には修理できませんよ、これは。旧型で部品もないし、中のデータも生きてるかどうか」
「イカラスは気を失ってる。ドクターに預けた方がいいな」とこれはベネットさんである。
「取引を致しませんこと」とクリスがいきなりとんでもない事を言い出した。二人の男が揃って彼女を見た。
「取引だと? いまさら何の取引だ」
「私共は、貴社における意識操作の研究と、今回発生した一連の自殺ないし殺人に関するイカラスの自白について、口外しない事をお約束致しますわ」
彼女は『イカラスの自白』と言いながらあたしを指し示した。あたしはあわてて、レコーダーを録音状態にしてから彼らに見せた。ロマノーソフのパスワード再生以来、あたしのポケットで止まってて、つまり録音すんの忘れてたわけだ。あはは。
「口外しない代わりに、産業スパイとしての告訴はやめてくれと言うわけか」とベネット氏。
「ええ。いかがですか、お互いに損にはならないと思いますが」
彼女はさっきまでの憤怒の表情が嘘みたいに、澄まして落ち着き払ってた。この変わり身の速さは、普段のクリスに戻ってる。いやそれ以上かもしれない。
「ふん、私の一存では決められませんね。まだイカラスが報道機関にばら撒いたファイルさえ、どれだけあるのか見当がつかない有様ですから。それより、そのレコーダーをちょっと再生してもらえませんか」
うっ。嘘がばれたかな。
「現在も録音中ですわ。中断するわけにはまいりません」
クリスはあたしの顔色を見て、上手に拒否した。さすがに運輸王と呼ばれた男の娘だけあって、駆け引き、と言うかごまかしがうまい。
「判りました。いずれまたゆっくりと話し合う必要がありますね。それまでは休戦としておきましょう。とにかく今日はこれでお帰り戴きます」
ベネットさんは、今やあたしらを邪魔者扱いしてた。そりゃそうだろう。なにしろ最大の機密漏洩源が身内(って言っていいのかな)に居たわけだから、後始末が大変だ。あたし達はあいさつもそこそこに、グランド・モータースを去った。
さあて、今夜のニュースが楽しみだわ。
帰りの車の中では、クリスはほとんど口をきかなかった。なんだかんだ言って、やっぱり傷ついてるのだ。あんな風に他人の前で、自分の内面をさらしもんにされるってのは、彼女にすれば裸に剥かれるより恥ずかしいだろう。それもたかが猿ごときに。
「クリス」
声をかけても返事がない。
「ねえクリスってば」
やっと返ってきた答は簡単だった。
「なに」
「ううん、何でもないけど」あたしは気まずい空気の反動で、思わず口が軽くなる。
「でもあの時よく頑張ったじゃない。あんたが録音の話を持ち出した時は冷や汗もんだったわ。あたし、すっかり忘れてたもん。うまくあしらってくれて助かったけどさ。なんとか示談に持ち込めるといいわね」
「ええ」
クリスは左の助手席で、窓を開けて外を眺めてた。涙こそ見せないものの、あたしには彼女が泣いているのが判った。今あたしにできる事といえば、ただほっとく事だけだった。
十六 モーツァルト
ドイツ舞曲 K五七一 から
第六曲 ニ長調
結局、裁判は避けられなかった。ロマノーソフ氏の未亡人バーバラがシンシア・フォーチュンを相手取り、夫の浮気と自殺による精神的苦痛を理由に、その賠償請求を目的とする民事訴訟を起こしたのである。調査に携わったエリーと私も、証人として法廷に立たされた。
私達が夫人に宛てた報告書は、概ねフォーチュン嬢の告白によった内容で、確たる物証は何もなかった。これが始めから離婚訴訟のための調査ならば、密会の現場写真でも撮っておくところだが、もちろん今回それは不可能だった。
病院でのシンシアの告白が法廷で再生され、本人によって確認された。バーバラの口吻から察するに、その録音中にある『あんな奥さんなんかより』ずっと愛してくれた、とのくだりが彼女の逆鱗に触れたらしい。しかしその当時のシンシアは入院中であったため、それは「心神耗弱状態における発言であって被告の真情を吐露したものではない」と判定された。
これによって、最大の論拠たるシンシアの告白の価値を否定された未亡人側は、結局のところ賠償請求を却下され、被告による謝罪と裁判費用の負担のみを勝ち取った。実質的には原告の敗訴である。
同時に『脳の改造手術を受けたグラボウスキーによる脅迫』の件も一種の妄想と解釈された。これはグランド・モータース側には好都合だった。
公判時、シンシアは既に退院していた。しかし心の傷はいまだ癒えておらず、いかにも陰欝とした彼女の言動は、ややもすると未亡人よりも深く故人を悼んでいるかの如く、一同の目に映った。その事もあずかって、陪審員の心証に好影響を及ぼしたのかも知れなかった。
裁判所関係者にはあずかり知らぬ事であるが、証言にあたって、私達はある意味で沈黙を余儀なくされた。ロマノーソフ氏の自殺に関して、猿のイカラスにまつわる真相を明かせば、シンシアにとっては有利だっただろう。しかし、私達とグランド・モータース側との示談交渉において、私達の責任を追求しない条件としてその問題の公表はさし控える旨の念書を交わしていたのであった。この間の事情については、シンシアも因果を含められていた。
グランド・モータースとの交渉の席で聞かされた話には、私が破壊したコンピュータであるディダラスの解析結果も含まれていた。その解析によって、イカラスが通信回線を介して、かなりの程度まで人間の行動を支配できた事、私達二人もまたその目標とされていた事が判明した。
その他、リー氏がそっと耳打ちしてくれたところでは、ロマノーソフ夫妻、シンシア、ジョージ、警備員のサトウ、そしてベネット氏とリー氏本人までも、猿に操られていた事が確認されたそうである。
そのリー氏も口を濁したが、どうやらその他にもイカラスの手は及んでいたらしい。少なくともこの事件の後、集団自殺は一件も発生しなくなった。この事件についてはイカラス自身も明言を避けていたが、やはり関与していたと見るべきであろう。
イカラスが報道機関に撒き散らした、生体工学研究所における兵器開発の情報は、悪質なデマとしてうやむやのうちに立ち消えになった。それでも一時は大変なスキャンダルとして世人の話題にのぼったため、グランド・モータースの経営陣は、そうした事実を否定しながらも騒動を起こしたこと自体は陳謝する、という妙な事態になった。
ジョージの動物愛護協会も、HVニュースその他から必要な情報は手に入れたはずだが、この顛末をどう思ったかは判らない。これだけ公然とした情報になってしまえば、その価値は大幅に減っているはずだからだ。
ディダラスに接続されていた当時のイカラスは、人間並の思考力と人間以上の情報力を持っていた。その知性はヒトを模していたが、彼にしてみればそうした能力は天与のものではなかった。むしろ、欲しくもないのに無理矢理口に押し込まれた毒リンゴだったはずである。
イカラスにとって、グレッグとシンシアは両親にも等しい存在だっただろう事は想像に難くない。男の子イカラスは母親シンシアに恋し、やがては父親グレッグを殺さねばならなかったのかもしれない。そしてシンシアが病院で亡きグレッグへの愛を告白した時、彼はそれを聞いていたに違いない。私は傷心のイカラスに自殺を手伝わされたのだ。
そうした彼の内面の動きは、今となっては確かめる術とてなかった。ディダラスの破壊に伴って、イカラスの脳もなんらかの損傷を被ったらしい。リー氏の話では、彼は実験前とは猿が変わったように凶暴になり、コンピュータとの再接続は不可能だったと聞いた。
イカラスは、バーバラの裁判にも証拠物件として提出された。ただ単に被告と故人との共同研究の対象として持ち出されただけで、裁判の帰趨には全く影響を及ぼさなかった。
檻の中の彼は手がつけられないほど暴れていて、かつてその瞳に宿していた理知の光など、その片鱗さえも窺えなかった。だが、シンシアにだけはよくなついており、彼女がそばにいる限りはおとなしくしていた。法廷から運び出す時には彼女が檻の横に付き添い、手に手を取って二人だけの寂しい路を辿って行った。
シンシア・フォーチュンは裁判の後、グランド・モータースを退職した。彼女の最後の業務は、イカラスの薬殺だったという。
(終)
最新科学論シリーズ3「最新脳科学」 学研
「脳の探検」上下 講談社ブルーバックス
フロイド・E・ブルーム他 著
久保田 競 監訳
「異常心理学」 岩波全書
村上 仁 著
「ゲーデル、エッシャー、バッハ」 白楊社
ダグラス・R・ホフスタッター 著
野崎昭弘 はやし・はじめ 柳瀬尚紀 訳
「地獄の季節」 岩波文庫
ジャン・N・A・ランボー 著
小林秀雄 訳
「失楽園」 岩波文庫
ジョン・ミルトン 著
平井正穂 訳
「四日間」 福武文庫(ガルシン短編集)
フセヴォロード・M・ガルシン 著
中村 融 訳
「不思議の国のアリス」 角川文庫
ルイス・キャロル(チャールズ・L・ドジスン)著
福島正実 訳
「MOTHER GOOSE」 講談社英語文庫
小林与志 挿絵
斎藤誠毅 解説
「ことわざの英語」 講談社現代新書
奥津文夫 著