山田耕筰
交響曲 『勝鬨と平和』


 前回のプロコフィエフが日本に立ち寄ったので、今回は日本の作曲家、山田耕筰ですにゃー。
 ここで「日本に居るときプロコフィエフは山田耕筰と会いました」となれば話がきれいに繋がるんですけど、たまたまこの時の山耕さんはアメリカで演奏旅行中で、二人はニューヨークで会うことになります。

 山田耕筰と言えば、まずは三木露風の作詞の『赤とんぼ』とかの童謡ですにゃ。他にも『からたちの花』とか北原白秋と組んだ作品が多くあります。
 そんな日本の歌をたくさん書いた一方で、日本洋楽の父と言うか、西洋式の音楽を日本に広めた功労者でもありますにゃ。
 今回はそんな西洋クラシックの流れをくむ作曲家としての側面と、戦争との関わりを追っかけてみますにゃ−。まずは年表にゃ。

 あと、元々の名前の字は「耕作」なんですけど、44歳になって頭髪に不自由しはじめた頃に、「作」の字の上に「ケ」を二つ生やして「耕筰」にしたそうですにゃ。面倒なのでここでは「耕筰」で統一しますにゃー。

●ドイツ留学まで
 山田耕筰の父の謙三は、後年になって耕筰が「ペールギュントのような人だ」と評したくらい、いろんな事に手を出して成功したり失敗したりしてたみたいですにゃ。生活に困ることも良くあって、幼い耕筰も植字工として働いたりしてました。
 そんな暮らしを見かねた姉の恒子が15歳の耕筰を引き取ります。この人は東洋趣味が高じて日本に定住した英国人のエドワード・ガントレットと結婚して、ガントレット恒子(後に岸燈恒)と名乗ってました。
 エドワードは英語教師をやってましたけど、父が牧師だった関係からエドワード自身も教会音楽家の免状を持っていて、オルガンも上手だったとか。耕筰はここで初めて音楽の手ほどきを受けることになりますにゃ。

 そんな環境のもとで音楽の道を志した山耕さん、学校も関西学院の本科から声楽科に進み、18歳の時に東京音楽学校に入学します。今の芸大の音楽学部ですにゃ。
 ここで教授をやっていたハインリヒ・ヴェルクマイスターが、三菱財閥の岩崎小弥太にチェロを教えていた縁で、耕筰は小弥太の資金援助を受けてドイツに留学することになります。
 高輪にある岩崎男爵の別邸は、今は三菱グループの迎賓館の開東閣(一般の人は入れませんにゃ)となってますけど、山耕さんはここへ挨拶に行くわけですにゃ。ところがここにはでっかい犬が居たので、たいそう困ったそうですにゃ。耕筰どんはワンコが怖かったのにゃ。
 面接の結果、見事小弥太の眼鏡にかなった耕筰は1910年2月24日、24歳でドイツに旅立ちますにゃー。

 ドイツではベルリンの王立アカデミー音楽院に入学して、ここで作曲を学びます。
 この頃のドイツでは疾風怒濤と訳されるシュトゥルム・ウント・ドランクの余韻がまだまだ残っていて、画家のカンディンスキーやココシュカらが、その名もシュトゥルムと言う同人(颶風社とか訳してますにゃ)として活動してました。山耕さんもそうした芸術革新運動に惹かれて、同人に巻き込まれたりしてたそうですにゃ。
 他にも、と言うか音楽留学だから当たり前ですけど、ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシアバレエ団)のドイツ公演を観たり、自作を指揮するリヒャルト・シュトラウスの演奏を聴いたりと、当時のヨーロッパの音楽状況にも直に接してます。

 余談になりますけど、ガントレット夫妻はもちろん、耕筰の母の久子もプロテスタントの信者だったので、子供時代の山耕さんは自然とキリスト教に帰依してましたにゃ。
 ところがドイツに来て、悪いことに(?)ニーチェにかぶれるんですにゃ。
 さらにドイツから帰ったあと、プロコと会ったアメリカ行きのとき、日本を立った船中で高熱を発して倒れたんですにゃ。そんな状態でハワイに着いてみると、御当地のYMCAのみなさんが「日本の有名な作曲家の先生が来た」とばかりに歓迎会を開き、まだ治りかけでふらふらの山耕さんを引っ張り出して挨拶だの自作の演奏だのやらしたってんで、山耕さんすっかりキリスト教徒に絶望してしまいますにゃ。
 そうして弱ってるところを西本願寺(ってこの頃ハワイにあったんですにゃ)に引き取られて、看病されつついろいろ吹き込まれたみたいで、それ以後はどちらかというと仏教の方に関心を持つようになったようですにゃー。
 葬式も築地本願寺で、戒名は「響流院釈耕筰」……って、もう死んじゃったにゃ。話が終わっちゃうにゃ。

●参考CD
 そんなドイツ時代の音楽院の卒業制作として書かれたのが、今回のお題である交響曲『勝鬨と平和』(1912年)ですにゃ。これが日本人の手によって書かれた最初の交響曲となりますにゃ。
 作品は卒業制作と言うこともあって、古典的なドイツ風の交響曲になってます。

 CDはナクソスの8.555350Jで、「日本作曲家選輯」として出ているうちの一枚です。
 一緒に収録されてるのは同時期の作品で、序曲ニ長調』と二曲の交響詩『暗い扉』と『曼陀羅の華』ですにゃ。序曲はこれが世界初録音になってます。
 演奏は序曲がニュージーランド交響楽団、あとはアルスター管弦楽団、指揮はすべて湯浅卓雄ですにゃー。

●作品解説
 第1楽章は型通りソナタ形式で、どことなくベートーヴェンを思わせる雄大な楽章ですにゃ。「ドイツで交響曲と言えばまずベートーヴェン」みたいな指導の下に書かれたんでしょうか。
 この楽章の第1主題の中には『君が代』の「やちよにさざ」の部分の音型が組み込まれています。でも、言われてみればそうか、て感じで、ぱっと聞いただけじゃわかりにくいです。

 第2楽章は緩徐楽章で、穏やかで牧歌的な雰囲気です。ここではベートーヴェンに少しワグナーが混入したようなところも出て来ますにゃ。

 第3楽章はちょっと憂いを含んだ3拍子のワルツ風のメロディによるスケルツォ楽章ですにゃ。二つのトリオを挟むロンド形式と言っていいのかにゃ。

 第4楽章はおどろおどろしい序奏に続いて、ファンファーレ風の動機を伴う第1主題と軽快な第2主題とが織りなす、晴れがましい「勝鬨」の音楽ですにゃ。コーダはとってつけたような「じゃじゃじゃじゃん」だけで、なんか唐突に終わった印象です。

 内容もさることながら、こういうタイトルを付けちゃうあたりは時代の空気てやつですかにゃー。

●ドイツでの活動と帰国
 音楽院は卒業制作したからもういいやと思ったのか、1913年1月に中退しちゃいますけど、山耕さんその後もしばらくドイツに留まります。
 どうも当分の間はドイツで創作活動を続けたいと思ってたみたいで、上のCDにも入ってる『暗い扉』『曼陀羅の華』を書いたり、坪内逍遙の『堕ちたる天女』をオペラ化したりしてますにゃ。
 この『堕ちたる天女』はさっそく翌年には初演の運びになって、やるからには妙ちきりんな東洋趣味に走らず、衣装道具もちゃんと日本から持ってきて本格的にやろう、てことになるわけですにゃ。
 そこで耕筰が資材調達のために日本に帰国する事になったのが1913年の12月。シベリア鉄道でモスクワ経由、下関に到着したのは暮れも押し詰まった頃ですにゃ。

 帰国後はオペラの準備の傍ら、ドイツで預かってきたシュトゥルムの絵画作品を紹介する展覧会を開いたりしていますけど、6月になると遠くサラエボでオーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子夫妻が撃たれて死んじゃいます。
 それをきっかけにヨーロッパ諸国がばたばたと将棋倒しの如く戦争に雪崩れ込んで行くなか、日本も日英同盟の手前、8月23日には対ドイツ宣戦布告。いわゆる第一次世界大戦の始まりで、山耕さん当面ドイツに戻れなくなりますにゃー。オペラの話もそれっきり流れてしまいます。

●戦争が終わって
 大戦後、てゆーか今で言う戦間期になると、山耕さんは米欧、ソ連とあちこちを巡って活躍を始めますにゃ。
 1917年からのアメリカ行きでは、ニューヨークでプロコを始め当代一流の作曲家と交流することになります。新しい音楽を目指すプロコフィエフがしきりに先輩作曲家(同時期にニューヨークに居たラフマニノフとか)を貶したり形式の打破とか過激な言動を繰り返すので、山耕さんが新しけりゃいいってもんでもないみたいな事を言って喧嘩になったりと、仲良く音楽論を戦わす間柄だったそうにゃ。
 後の1933年に訪ソの折りには、流浪の果てに帰国していたプロコフィエフと会って旧交を温めたりもしてます。

 この頃から、山耕さんは日本に本格的なオーケストラを作ろうといろいろ活動し始めます。
 
プロコフィエフの時にちょっと書きましたけど、当時の満州はロシアからの亡命音楽家が多くて、日本本土なんかよりよっぽど西洋音楽の演奏レベルは高かったんですにゃ。そこでハルピンの東支鉄道交響楽団を日本に呼んで演奏会を開き、本場仕込みのオーケストラ音楽を紹介しようとしたら……関東大震災でそれどこじゃなくなったりしてます。
 結局このイベントは山耕さんの執念で1年半後に「日露交歓交響管弦楽演奏会」として実現しますにゃー。

 やがて日本は満州事変とか大陸でのごたごたから、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を担ぎ上げて満州国を立ち上げます。
 山田耕筰と言えば、この頃には日本楽壇の第一人者でしたし、満州との関わりもあったしで、満州国の国歌を作曲してますにゃ。ただ、なんでもこの国歌はリズムやなんかがモダンすぎて歌うのが難しいとかで、じきに他のに差し替えられてしまいますにゃー。
 そんな御縁で、溥儀から乾隆の壺(青花釉裏紅群鹿図大壺)を賜ったりしてます。

 さらに日本は大陸でのごたごたから国際的にも孤立し始め、国際連盟を脱退。同じくナチスが政権を握って連盟を脱退したかつての敵国ドイツに接近していきます。でもドイツ側の一般国民レベルでは日本人なんてよく知らんわけですにゃ。
 そこで主に日本をドイツに紹介する目的で、1937年に日独共同制作の映画『新しき土』(題名は満州のことを指す)、ドイツ名『Die Tochter des Samurai』(侍の娘)が制作されて、耕筰が音楽を担当しますにゃ。山耕さんにしてみれば、かつての『堕ちたる天女』でやろうとしてたことの雪辱戦ですかにゃー。
 主演は小杉勇と原節子。早川雪舟も出てますにゃ。映画監督はドイツのアーノルド・ファンクと日本の伊丹万作。この人は伊丹十三のお父さんですにゃ。

 この映画は結局ドイツ版と日本版がまるで別物になったとか、ドイツ版では耕筰の曲がほとんど使われなかったりとか、円谷英二が担当した特撮シーン(火山が爆発して家が倒壊したりする)をドイツ側スタッフが絶賛して、円谷特製のマット合成の機材を欲しがったりとか、まあいろいろとあったみたいですにゃ。
 山耕さんはこの映画の関係で半年ほどドイツに行ってます。細かい行動はわかりませんけど、この時期の手帳にドイツ宣伝相のゲッベルスの住所が書いてあるとかで、用向きからしても総統はともかくゲッベルスには会ってたんでしょうにゃー。

 余談ですけど、山耕さんの訪独中には、満独交換放送て企画がありました。
 ドイツと満州のそれぞれの放送局が相手方に向けて国歌の演奏やエライ人の賀詞講話の類を電波で送り、受けた方はそれを自国内にラジオ放送する、てものだったんですにゃ。
 ところが満州側で国歌を演奏したのが満州国軍の軍楽隊で、現地の満州人で編成されたバンドだったんですにゃ。で、この演奏があまりにヘタクソだったもんで、結局満州側のプログラムはドイツでは放送されず、交換放送のはずが一方的な放送に終わった、てオチがついてます。

●また戦争が始まって
 ドイツから帰った山耕さん、陸軍省の報道部の嘱託になりますにゃ。いよいよ大陸のごたごたが日中戦争のどろどろになってきてるので、占領地に行って音楽を通じての宣撫工作とかやるわけです。
 山耕さん、陸軍省に少将相当官の辞令を出させて、自分でデザインした軍服モドキの出で立ちで公務についたそうですにゃ。将官待遇とは言っても文官なのでホントの軍服は着られないんですにゃ。
 やはり満州に縁のある指揮者朝比奈隆によると、カーキ色のシャツで折り襟にベタ金の少将の印がついて、腕に金の太いのを一つ。下は乗馬ズボンで長靴を履いて、剣を吊りたいけど武官じゃないから武器は持てなくて、代わりに乗馬の鞭を吊す。そこへ金筋入りの戦闘帽をかぶる。「どこの国の軍隊かわからないですけども、とにかくベタ金がついてますからね」だそうですにゃー。

 1940年になると、歌舞音曲の類の取り締まりも始まって、警視庁の管理下で演奏家協会が設立されます。西洋音楽に限らず、歌手とか音楽演奏を生業とする人は、警視総監に申請して技芸者之証を貰わないと営業できなくなったんですにゃ。
 1941年には徳川義親を会長にいただいて日本音楽文化協会が設立され、耕筰はその副会長になります。さらにその下部組織として音楽挺身隊を結成して、隊長に納まったんですにゃー。
 この音楽挺身隊てのは、農村漁村や工場労働者とか一般市民向けの慰安演奏会なんかの活動をやってました。要はドイツの歓喜力行団(Kraft durch Freude, KdF)の日本版ですにゃー。どうも山耕さん、ドイツに行くといろんなものにかぶれますにゃー。
 やがて演奏家協会も日本音楽文化協会に統合されて内閣情報局の管理となり、耕筰は1944年にその会長に上り詰めますにゃ。

 戦局の激化につれて音楽の統制も激化して、1943年1月27日の内閣情報局週報第328号や同年2月号の写真週報に敵性音楽の排除に関する通達が載ります。
 ただし、この辺からの話は必ずしも全てが山耕さんの仕業とは限らないので念のためにゃ。

 週報の内容はアジ歴でも読めますけど、アクセスが遅いし一部欠けたりしてるので、該当部分の全文はこちらにゃ。
 週報ではこの本文の後にレコードの番号だけが列挙してあります。写真週報の方には曲名入りのレコードのリストが載ってますにゃ。
 リストにあるレコードは、持ってたら供出せよてことになったのに、任意提出なので回収の実がなかなか上がらなかったんですにゃ。なので大阪市なんかでは1枚10銭で買い取るみたいなこともやってたとか。

 ここでの主な標的はアメリカのジャズで、それにハワイアンや流行歌、イギリスやフランスの諸作品が加わります。
 純音楽と書かれてる、いわゆるクラシックも例外じゃありません。有名どこではホルストの『惑星』とかグローフェ(だと思うけど?)の『大峡谷』なんかの名があがってますにゃ。スーザの行進曲やフォスターの歌曲もダメだし、『星条旗よ永遠なれ』だの『ルール・ブリタニア』なんてもってのほかにゃー。
 ただ、もともとクラシック音楽はドイツが本場と言うこともあって、米英の作品はなくなってもさほど困らないと言う事情もありますにゃ。
 実際この時期に映画館でかかってたニュースフィルムの日本ニュースとか読売ニュースでも、BGMは日本以外だとベートーヴェンやワグナー、ブルックナー、ブラームスと言ったドイツ作品ばかし。例外的にロッシーニやシベリウスなんかも出て来ますけど、これもイタリアとフィンランドなので枢軸側ですにゃ。

 情報局から通達が出たのは1943年ですけど、日本放送協会が出してたラジオ年鑑の昭和16年号(1942年出版)にはこんな記述が見えますにゃ。

 純軽音楽であるジャズは日支事変前迄は毎月二、三回番組に加へて居たのであるが、事変勃発後は漸次之を差し控へた為、徐々にマイクより消滅した。
 之に代ってタンゴバンドが相当に増加した。
 つまり、お上の取り締まりよりずっと前から業界の自主規制は始まってたわけですにゃー。
 逆に業界の自主規制をお上が追認し始めたら、もうかなりヤバイ状況てことですにゃー。

 週報ではイギリス民謡の『埴生の宿』や『庭の千草』をとりあげて、日本語で歌う分には差し支えない、としてますけど、危うきに近寄らず式に事実上禁止みたいな有様になってます。
 そのあおりを喰ったのが『蛍の光』で、これが学校の卒業式で歌えなくなったんですにゃ。その代わりに『修了の歌』とか『送別の歌』なんてのが作られたって話ですにゃ。どんなのか知りませんけど。

 そんなわけなので、竹山道雄の『ビルマの竪琴』の中に『埴生の宿』や『庭の千草』を日本の歌だと思って歌ったことがきっかけで英軍に円満に投降できた、みたいなエピソードがありますけど、これはフィクションとは言えちょっと不自然ではありますにゃ。
 ストーリーの根幹にかかわっちゃうので、無粋は承知ですけどにゃー。

 似たような敵性音楽の話はフランスのラヴェルのとこでも出て来ます。お楽しみににゃ。

 じゃあこれが軍歌とか戦時歌謡の類なら無事安泰かと言えばそうとも限らなくて、例えば『戦友』とか『雪の進軍』なんかは禁止の憂き目に遭ってますにゃ。
 日露戦争の一場面を描いた『戦友』は、そもそも厭戦的な雰囲気が濃厚なとこに持ってきて、四番の歌詞に「軍律厳しき中なれど、これが見捨てて置かりょうか」とあるのは、やぱし軍紀上まずいてことになって、歌っちゃいけないことになります。
『雪の進軍』の場合は四番の歌詞が(どうも四番は鬼門ですにゃー)こんな感じで、ちょっと恨みがましい感じなんですにゃ。

命捧げて出てきた身ゆえ
死ぬる覚悟で吶喊すれど
武運拙く討死にせねば
義理にからめた恤兵(じゅっぺい)真綿
そろりそろりと頚締めかかる
どうせ生かして還さぬ積り
 こちらは日清戦争が題材ですけど、日中戦争の時期に最後の一行を「どうせ生きては帰らぬ積り」に改訂されたりして、さらに太平洋戦争となってからは全面禁止になる運命にありますにゃ。

 ちなみに「恤兵」てのは、慰問袋みたいに前線で戦う兵隊さんに品物を送ってあげたり、そのためのお金を寄付したりすることですにゃ。
 ところがこれを貰った兵隊さんにしてみれば、「これをやるから死んでくれ」と言われてるように感じたり、「貰ったからには死なねばならぬ」と思えたりすることもあると。
 送る側としても世間体やらとんとんとからりと隣組の目もあるから、そう言うものを差し出さずにはいかないわけで、どちらも浮世の義理にがんじがらめになってるわけですにゃー。
 この「義理にからめた恤兵真綿」の一言、戦争に突入していく世相の雰囲気ていうか、社会構造みたいなものを良く表してますにゃ。だからこそ禁止されたんでしょうけど。

 さて戦局がさらにグダグダになってくると、それにつれて音楽の取り締まりもヒステリックになってきて、1944年4月に日本音楽文化協会からサキソフォン、スチールギター、バンジョー、ウクレレ、ジャズ専用打楽器禁止のお達しが出されますにゃ。曰く、ジャズが頽廃的なのはサキソフォンの音色のせいだからだとか。
 こうなってくると坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、と言うか袈裟の輪っかまで憎いて感じですにゃー。
 まあ楽器がいいの悪いのと言うより先に、決戦非常措置として「高級享楽の停止」が挙げられてて、劇場やら映画館はばたばたと休場になって、個人の演奏会も禁止されてますけどにゃー。
 東京は日比谷の日劇とか宝塚劇場なんかは軍に接収されて、風船爆弾の検査場になったりしてますしにゃ。

 レコード会社のカタカナ社名も自粛の対象になってて、1942年夏頃から、コロムビア→日蓄、ビクター→日本音響、キング→富士音響、ポリドール→大東亜蓄音器、みたいに名前が変わってます。
 過去に出したレコード(これも音盤と呼ぶことになってる)の都合もあるのか、週報なんかには昔の名前で出ていますけどにゃ。

 作曲家としての山田耕筰は、戦時中になると大量の軍歌や戦時歌謡を書き始めますにゃ。
 この分野では『燃ゆる大空』(同名映画の主題歌、音が出るので注意)あたりが有名どころでしょうかにゃ。リンク先のはアレンジとかされてるかも。
『なんだ空襲』なんてのも1941年8月に発表されてます。アメリカに喧嘩売る前に防空の大切さを歌ったあたりは先見の明がありそうにも見えますけど、実際に空襲されてみるとこんなもんじゃ済まなかったんですけどにゃー。

●そしてまた戦争が終わって
 戦時中に出された数々の禁止令は敗戦と同時に空文と化して、早くも1945年の9月には進駐軍向けにガーシュインの『ラプソディ・イン・ブルー』が演奏されてたそうですにゃ。

 負けた戦争中の活動は戦後になるといわゆる黒歴史となるわけです。
 山耕さんのそうした過去について、音楽評論家の山根銀二が東京新聞に批難する記事を書いたことから、「戦犯論争」と呼ばれる紙上での応酬が起こりますにゃ。
 この辺を見て貰うと大体の所が載ってますけど、簡単にまとめると山根が「あれだけ音楽で戦争を煽っておいて、戦争が終わるとたちまち占領軍に協力するのは戦争犯罪の隠蔽ではないか」と言う趣旨の文を書いたのに対して、山田が「そんなことあんたには言われたくない」と返したわけですにゃ。

 まあ、肩書き上、戦争を煽る立場にあったのは確かなので、山耕さんに全く責任がないとは言えませんけどにゃ。
 でも耕筰が一人で戦争始めたわけじゃないし、国際法的な犯罪てわけでもないしにゃ。戦時中の社会環境にしても、うかつに戦争反対なんか叫ぼうもんなら特高警察が飛んでくるし、戦争に協力しない程度の消極的な抵抗でも隣組からアカだアカだといじめられたりするわけですからにゃー。
 実際にまわりではいい若いモンが万歳の声に送られて、お国(その中には耕筰自身も含まれる)のためにと戦場に向かって、白木の箱で帰ってきたりしてるんですにゃ。そんななかで、山耕さんのような音楽家の立場でなにが出来るかと考えたら、やぱしああなるでしょうにゃー。

 晩年の山耕さん、1948年に脳溢血で半身不随になってしまい、公的な活動は大幅に減ることになりますにゃ。
 闘病生活でお金に困ることも多かったみたいで、溥儀からもらった乾隆の壺なんかも何度となく質屋の暖簾をくぐったとか言う話ですにゃー。

 山田耕筰は音楽史的には日本における国民楽派と言えないこともないわけで、ドイツへの留学経験とか、フィンランドのシベリウスと似たところがありますにゃ。
 でも英雄扱いで年金暮らしのシベやんと、文化勲章こそ貰ったとは言え、戦犯呼ばわりで質屋通いの山耕さんでは、なんかえらい違いですにゃー。

●紀元は二千六百年
 さて、少し話が戻って1940年。
 この年は日本では建国2600年てことになってて、記念行事がいろいろ行われてました。その一環として、世界6カ国に記念の祝典曲の作曲が依頼されましたにゃー。
 依頼先はアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス(ヴィシーフランス)、イタリア、ハンガリーですにゃ。
 ところがこれがアメリカにはハナから断られ、イギリスからはブリテンの『シンフォニア・ダ・レクイエム』が届いて「奉祝曲にレクイエムとは何事か」と(ブリテンにさほど悪気はなかったみたいですけどにゃ)問題になり、結局残る4カ国からの作品が揃いました。

 これらの作品は12月に東京と大阪で演奏会が開かれ、ラジオでも全国に放送されました。
 前出のラジオ年鑑の昭和17年号によると、放送は二日に分けて行われ、一日目のイベールのやつを山耕さんが指揮してますにゃ。

紀元二千六百年奉祝演奏会プログラム(紀元二千六百年奉祝交響楽団)
 12月18日
ジャック・イベール(仏)『祝典序曲』 指揮:山田耕筰
ヴェレッシュ・ジャンドール(ハンガリー)『交響曲』 指揮:橋本国彦
 12月19日
インデルブランド・ピツエツデイ(伊)『交響曲イ長調』 指揮:ガエタノ・コメリ
リヒアルト・シュトラウス(独)『祝典音楽』 指揮:ヘルムート・フェルマー

 次からはこの紀元二千六百年奉祝曲を軸に、ブリテンとリヒャルト・シュトラウスを見てみましょうかにゃー。

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