504−2.仮想現実と現実の区別



現実性ローンダリング                     得丸久文
 ジャーナリズム批判を再考してみました。 
*** 現実性ローンダリング − 新聞やテレビの報道は仮想現
実か *** 

1 アナウンサーによる現実性ローンダリング 
現実と仮想現実の定義は、 
現実:そこにあるもの、自分が見たこと、自分が聞いたこと、自分
がしたこと 
(アゴタ・クリストフ「悪童日記」の定義する真実の定義を援用) 
仮想現実: 現実ではないのだが、脳が現実だと受け取るもの 
とする。 

朝、テレビをつけると、「おはよう日本」の三宅アナウンサーがま
ことしやかにニュース原稿を読み上げる。これは現実。 

ところが、三宅アナウンサーは機械的に目の前に置かれた放送原稿
を読み上げているだけなのである。国内政治であろうと、国際政治
であろうと、各地の話題であろうと、彼の口から出てくる言葉は、
すべて彼個人が直接的に体験したことではなく、誰かが書いて彼の
前においた原稿の内容なのである。 
ここで現実性は失われる。話す内容が現実であるという保証がなく
なる。

マフィアがブラックマーケットで手に入れたお金を、銀行のオペレ
ーションによってマネーローンダリングするのと似ている。現実か
どうかわからないことがらであっても、報道機関が報道すると、
それがあたかも現実であるかのように感じられるようになる。 

自分の直接体験ではないことを、あたかも現実のように語るアナウ
ンサーという職業によって、現実性ローンダリングが行われるのだ。 

アナウンサーというのは、まるでロボットのように、機械的に指示
された通りに口を開く。この仕事では、自分の目の前に置かれた原
稿が現実なのかどうかに疑問を持ってはいけないのである。 

私は三宅アナウンサーが嘘をついている、虚構を報道しているなど
と言いたいわけではない。三宅アナウンサーの話している内容は、
現実のことなのか、仮想現実でしかないのか、わからない。彼のま
じめそうな顔を見ても、さっぱり本当のことなのか、そうでないの
かわからないということなのだ。 

2 脳には現実と仮想現実の区別はできない 
ひるがえって、ほかのテレビ局の報道番組や、あるいは新聞紙面を
見てみよう。実際に記者が自分で取材を行って、それにもとづいて
書いている記事と、共同通信やAP/AFP/Reuterなどの外電記事を翻訳
しただけの記事と、見分けがつくであろうか。記者クラブで発表さ
れたものを丸写しにした記事の見分けがつくであろうか。 

これを見分けるのは、実は結構大変なのだ。記者が、見てきたよう
なうそを書く技術を身に付けているからだ。記者発表で配布される
資料には、記者が自分で書いても、ここまで書けるかというくらい
に完成度の高い記事も含まれている。記事の内容だけでは見分けが
つかないことが多いのだ。 

毎日新聞の「記者の目」や、あるいはどこの新聞でも特集記事の場
合には、取材が行われていることが多い。記者が等身大で動き回っ
て、人に会って、現場に行って取材したものを、多く読むことで、
それ以外の記事にはかけている何かを感じ取る訓練をしなければな
らない。 

仮想現実の定義を、「現実ではないのだけど、脳が現実として受け
取るもの」とすると、要するに脳には現実と仮想現実の区別がつか
ないということなのだ。 

だから、いくら丁寧に記事を読んでも、無駄。記事の内容が本当か
嘘かを見破ることは脳にはできないのだ。 
じゃあ、どうすればいいのか、、、 

少し悩んでみましょう。 
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「般若心経」の意味づけ                   得丸久文
 コスモスさん、 

>仮想現実とか現実とか、そういう区別なんてどうでもいいんじゃ
>ないですか? 人間の限界ある五感は、これはどうしようもないも
>のだし、どうにかしようと思えばオカルトに走るしかない。 

仮想現実と現実の区別をすることはとても大切です。 

なんのために仮想現実と現実を論ずる必要があるかというと、人間
の脳にはそれらを区別できないということをまず肝に銘ずるためで
す。 
脳が正しいと感じたこと(現実感をもつ対象)が、必ずしも現実で
あるかどうかわからないということを、きちんと理解しておかねば
なりません。 
そうしないと、現実でないものを、現実だと取り違えることになり
、判断を誤ったり、余計な行動をします。 

>五感というのはブラックボックスと同じで、パソコンの仕組みな
>んて知らなくてもインターネットは出来るし、自動販売機の作り
>を知らなくてもお金を入れてボタンを押せば欲しい物は手に入る。 

荒川修作の「意味のメカニズム」、あるいは田中茂徳の「コトバの
意味づけ論」は、ブラックボックスの中を明かにしようとする試み
なのかもしれませんね。 
今まで、当たり前なことだと思っていたことが、実は当たり前に起
きない場合がある。 

ブラックボックスの問題は、それを100%信頼することができな
い、その修理やメンテナンスをすることができないことです。 
ブラックボックスは、自律的には使えません。誰かに依存すること
になります。 
問題ないときは、お金を入れればモノが出てきますが、出てこない
ときもあるのです。出てこないときに、ブラックボックスでなけれ
ば、自分で箱を開けて、どこがおかしいのか、何が問題なのかを調
べて、対処や処置をすることができますが、ブラックボックスだと
お手上げです。 
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コスモス
 ○『現実と仮想現実』論の私なりの展開 
 まず、私達の認識の外にある外界を現実世界とするなら、私達の
認識器官である五感は実に不完全なものであり、得られる現実世界
の情報は九割引のものでしかない。 
 そこで私達は得られた情報を、経験から得た情報で味付けして、
より現実に近くしようとする。そこに経験の有無、あるいは個性に
よる、『現実感覚の優劣』が生じる。 
 その格差をいかにするかがそもそもの「仮想・・・」の主題であ
った。格差を生める手段があるならば、万民に叡智を与えることも
、難しくはあれども不可能ではないといえる。 

 その追求をさておいて、ある時、表の掲示板にその不完全な理論
でもって表の掲示板の住人を「批判」し始めたとき、問題が勃発し
た。私がこの掲示板に戻ってくるきっかけにもなったのだ。 
 「仮想・・・」を模索する人々は、「人類の情報処理能力の格差
」を埋める手法を探さなければならない。それは使命である。そし
て私達は、この掲示板の投稿から、その有力な手がかりを得ること
が出来る。 

 つまり大衆に情報を処理するアダプターが欠けているなら、何ら
かの教義、哲学、信仰によってそれを補佐するアダプターを与える
ことが出来るのではないか? 

 キリスト教からは、万民への愛と大いなるものへの感謝を。 
 儒学からは高潔な精神を。 
 そして密教からは、宇宙の叡智を。 

 だからこそこの「心のBBS」は、全世界の宗教・哲学を、善意
の投稿者の方々によって収集し、表の掲示板の情報を理解するため
の貴重な学び舎としての役割を果たすべきなのだ。 

 大衆の無知は、これは仕方の無いものであって、そうした人の弱
さを認めるとき、真の意味での助け合いの精神、菩提心が生じる。
人はそれぞれ自分に出来ることを懸命にやれば良いのであって、誰
かが助けてくれる、という安らかな世界のブラックボックス化を
認識すれば良い。 

 もともと私は仏教徒であって、「諦観とは、理解してもらうこと
を諦める事」だと私なりに考えている。ですが、分かってもらえる
努力はしなければ。私に批判すべき点がございましたら、どうか
遠慮無く御指摘ください。これからもROMっておりますから。
では。 
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現実と仮想現実の定義           得丸久文
 念のために、私の定義は、 
現実:実在するもの。言葉があってもなくても存在するもの。 
仮想現実:実在しないが、脳が実在(あるいは現実)だと受け取る
もの。 

したがって、脳にとっては、現実と仮想現実は等価になります。 
ここに仮想現実の取り扱いの難しさがあります。 
定義のところをしっかり揃えておかないと、議論が空回りしたり、
かみ合わなくなります。 
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まっちょん
大衆ってなんでしょう? 
自分があって他人があるのはわかるのです。 
自分があって他に大衆があると考えていたら、少し怖いです。 
大衆は無知と定義することは、自分が大衆の一員ではなくより上位
の存在であるということになります。 

僕がこちらの掲示板に足を運ぶのは、自分が理論武装することによ
って他者との優劣/差異をつけていこうとするわけではなく、すべ
ての物事に対して疑問を抱き、考える力を養うためです。他人の役
に立ちたいとは思いますが、上から見おろすようなことは決してし
たくありません。 

持論を展開なされるのは結構ですが、もし自分が大衆を導いていか
なければならないと考えているのなら、それは僕の目にはただの
傲慢にしか映りません。 

また言葉は相手に自分の意志を伝えるものなのですから、難しい単語
や文法をただ羅列するのは良くないと思います。わかりやすくそれ
でいて深い含蓄がこもっている文章を書ける人が真に賢い者である
と思います。 

コスモスさんの書き込みに対する感想になってしまいましたが、 
これらは誰に対しても言えることです。 
どんな場合でも自分を語る際にはそれが相手にしっかりと伝わるか
どうか考え、平易な言葉を使われることを願います。 

一番良いのは偉そうに見えないようにすることですよね(笑 
能ある鷹は爪を隠す。。。 
誰の言葉かは知りませんが、それは良い人間関係を築く上で正しい
と思うのです。 


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