317−2.「報道の姿勢」を問う



 先日のマガジン、no303-3に引き続き「報道の姿勢」を問いたい。
何も報道の姿勢といっても、ありていに報道記事内容の正確さや報
道における人権等々を問いたいのではない。

私が問いたいのは、報道内容における「思想」である。
思想、そんなもの今の時代には無いぜ、とは言わせない。
まあ、私の観測によると、無いという人物は往々にして●「無自覚」
な思想保持者である。
ノン・ポリという言葉がある。non political 政治に関心を持たない
人々を指す。
まあ、私は、この言葉にやはり色付けしたいと思う。その色とは、侮
蔑的語句であること。
 単に差別という意味ではなく、人間の思想として侮蔑することであ
る。思想を侮蔑するのだから、例えば黒人を差別するのとは根本的に
概念が異なる。そこに注意されたい。

いずれにせよ、よくもまあ恥ずかしげも無く「俺はノン・ポリだ」と
言えたものだ。
そう言うことがカッコよくうつるらしい。実際にこの言葉を他人から
聞いたのはつい最近である。しかも、単なる知人という人物ではなく
、国会議員の事務所に出入りしている人物であった。私もその一人
であるが。私はもうじき20歳になろうとしているが、その彼もおそら
く20歳前後だと思う。

なぜ、ノン・ポリが侮蔑の対象となるのか。そもそもノン・ポリつま
り政治的思想を有しない人物など存在しない。その思想の強弱はもち
ろんある。しかし、思想が零の人物など、いるのか。確かに赤子や高
校生ぐらいまでなら、ということは言える。しかし、大学生、つまり
19歳にもなってノン・ポリという人物に対して私は蔑みの視線を送る。
国よっても思想はバラバラ。共産国もあれば、日本やイギリスの立憲
君主国、アメリカやフランスの共和国がある。その時点で思想が各国
の●「国民」によって異なる。
上記で「無自覚」な思想保持者といったのはこれである。国家によっ
て思想は異なる。それでもノン・ポリだというのならば、共産国へ強
制送還(?)してやる。ノンポリということは、日本の歴史と伝統に
対する冒涜である。なぜなら、ノン・ポリならば、例えば皇室廃止も
かまわないことになる。皇室と政治は関係無いとは言わせない。憲法
は誰が定めるのか。国会である。国会は政(まつりごと)であるから
だ。なぜ、歴史と伝統に対する冒涜になるのか。それは上記で述べた
「国民」の概念が錯綜しているからである。故に、国民とは、現在生
きている日本人のみを指すのではない。皇紀2660年(神話を含む)の
世界一長期の悠久の歴史を保持しつづけている皇室を廃止しろという
こと自体が「無自覚」である。国民の概念には、今まで生きてきた日
本人全てが含まれているのだ。言ってみれば、国民とは「死者」を含
む。それゆえ、憲法第一章 皇室 第一条に掲げられている文言「天
皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は
、主権の存する日本国民の総意に基く」の中の「国民」とは、そう言
う意味である。しかし、「無自覚」な毎日新聞は、昭和天皇が崩御さ
れた時、投書欄を利用して、「憲法第一条には、天皇は日本国民の総
意に基く、とあるのだから、今こそ国民投票をして皇室の是非を問う
べきだ。」ということを掲載した。こう言うことをいう日本人は、悪
党でなければ阿呆である。こう言う人間は、日本国民とは言えない。
日本人民である。人民とは地球市民のことかな。つまり、国籍を持た
ない太平洋上を浮遊するしかないという意味である。だから、北鮮
(ほくせん)や支那(シナ)が国名に「人民」とつまっているのは納
得できる(皮肉)。両国の現政府には、かの国の歴史と伝統を継ぐ意
志がないのだから。
 
註 憲法第一条の中の「主権」という概念についても一筆したいが疲
労のため省略する。
   北鮮(ほくせん)が差別語かどうかは未確認。
   支那については、差別語ではない。確証をもっている。希望があ
れば開陳しよう。 

そういう意味において、民主主義とは、「死者による政(まつりごと)
」なのだ。死者の声を聞け。
ロゴス(ギリシャ語・言葉)はロゴス(論理)である。ノン・ポリだ
と恥ずかしげもなくいうものではない。肝に銘じなさい。

●なぜノン・ポリに言及したか。それは、まさしく「報道の姿勢」が
ノン・ポリだからである。
 特に醜態をさらしているのが、テレビ各局である。新聞社は別である。
 では、単純に新聞社を色分けしよう。
これについて参照しなければならないのは(義務)、私の論文「保守
とは何か」
no287-3である。それと「保守と右翼の相違」no301-3、no305-2も併せ
て参照されたい。

 産経新聞200万部 保守
 読売新聞1000万部 サヨク
 
 朝日新聞800万部 左翼
 毎日新聞600万部 朝日の子弟

サヨクとは、左翼思想が薄められた思想である。サヨク=戦後民主主
義である。
 
 新聞社の思想を私は理解できる。もちろん私は保守思想を勉強して
いるわけだが、左翼にしろ右翼にしろ、生半可な思想ではなく、しっ
かりと自負して持っているならば、人間としては私は彼ら彼女らを認
める。なぜなら、非現実的な話だが、左翼も右翼もいない世の中は、
保守にとってつまらないから。

 しかし、私が憤慨しているのは、テレビ局の思想である。ありてい
に言えば、思想はなく、単に「商業主義」になっているのかもしれな
い。
 提携関係にある新聞社とテレビ局は、思想の連帯はないようだ。例
えばフジ・サンケイグループを参照されたい(no303-3)。

10月5日(木)午後7時から7時54分まで、朝日放送は、「皇室女性三代
 愛の物語 妃から妃・・・」と題して放送した。
朝日新聞社は、共産党の君主制廃止は唱えていないと思うが、皇室否
定派だと考える。森首相「神の国発言」を思い出されよ。
朝日新聞は、「日本は天皇を中心にしている神の国」を憲法違反とい
った。主権在民に反すると。それでは、あなたたちが大好きな憲法の
第一条には何と記されていますか。「天皇は、日本国の象徴であり日
本国民統合の象徴」と記されています。これと森首相の発言に矛盾が
ある?象徴は「お飾り」ではない。

●「神の国発言」についての私見は、別途論文を送信します。
 なお、ただいま、「神の国」は、月刊誌上では、論争が続いていま
す。 
 山折哲雄氏が中央公論で、新田均(にった・ひとし)氏が諸君で、
各2本合計4本の論文がこれまで掲載されました。論争中です。
 これも、追って報告したいと思います。10月7・8・9日は、
日本青年協議会にて、奈良合宿に行ってきます。
 神武天皇が祭られている橿原(かしはら)神宮などを参拝します。
 講師としては、西尾幹ニ氏、そして新田均氏が来られますので、こ
の件について質問してきます。

とにかく、ノン・ポリのテレビ局が許せない。
でも、ノン・ポリでもなさそうだ。「神の国」の時、フジテレビを含
め、全テレビ報道ニュースは、論評は批判であった。新聞社では産経
新聞が積極的に正当性主張。読売新聞は未確認。朝日・毎日は調べな
くても十二分に邪推できる。

そのくせして、朝日放送は、香淳皇后が崩御された時、なにくわぬ顔
をして、報道していた。
おまえは、サイコパス(精神分裂病者)か。それとも思想も感情もな
いサイボーグ(人造人間)か。

「神の国」と、その直後に崩御された香淳皇后報道の矛盾をどうする
????????

●質問があります。
それは、新聞社に入社する新人についてです。
私の知っている限りでは、日経を含めた全国紙5紙の違いなど、「無
自覚」な大学生は、知りません。
 ソクラテス曰く「無知の知」を知れ。
ということは、入社してから、他紙と読み比べて各紙の違いがわかる
はずです。
思想で新聞社を選んでいる人物は少数でしょう。2割いればいい方で
はないか。

朝日の奇怪に気づいた、新入朝日記者は、そのまま、脳髄を侵され続
けるのか。それとも、ノンポリから保守へと「転向」するのか。
やはり、そこがどうも気がかりだ。
入社時にはノン・ポリで、後に朝日記者ならば、朝日思想になるのか。
思想を持っていて、朝日に入社する人物を私は高く評価する。
しかし、その逆は許せねぇ。無自覚者めぇ。
同様に、皮肉でいえば、産経新聞社にも言えるわけである。

図越
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       「GODを『神』と訳した錯誤」
        −ことばと文化新発見−
                         
 歪曲された森首相の「神の国」発言

 その騒動の発端は、ある日、突如として勃発した。それは、かの
森善朗首相による「『神の国』発言」のことを指し示している。
その発言は、2000年5月15日午後6時30分から、ホテルニューオータ
ニ「芙蓉(ふよう)の間」において、神道政治連盟国会議員懇談会
の結成30周年記念祝賀会で行われたものである。
 森首相の「神の国」発言をめぐるマスコミの報道ぶりを私が一覧
したところによると、針小棒大も甚だしいと言わざるを得ない。
 例えば、テレビのニュースでは、もっぱら「日本の国、まさに天
皇を中心にしている神の国である」という箇所のみをピックアップ
した。新聞も、一面の見出しで、「首相『日本は神の国』」「『ま
さに天皇中心』」(5月16日付朝日新聞)「憲法の根幹を否定し、近
代立憲主義の考え方を疑うような議論」(5月18日付朝日新聞・筆
者波線)と書き立てていた。だが、この発言の後で、森首相は、こ
うも述べているのである。
 「沖縄に行って、子供サミットで提言が出されましたが、どこに
も命を大切にしようと書いていない。人の命がどこから来たのか。
人の身体ほど神秘的なものはない。神様であれ、仏様であれ、それ
こそ天照大神(あまてらすおおみかみ)であれ、神武天皇であれ、
親鸞上人(しんらんしょうにん)さんであれ、日蓮(にちれん)さ
んであれ、宗教というのは自分の心に宿る文化なんだから。そのこ
とをみんな大事にしようということを、もっと教育の現場でなぜ言
えないのか」
 森首相が天皇中心と言っても、このように天皇のみではなく様々
な神々を羅列されているではないか。それのどこが問題なのか。さ
らに、憲法には天皇の位置付けを、条文第一条から第八条まで掲げ
、第一条には、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴
であって、この地位は、主権の存する日本国民の創意に基く」と述
べられている。いわゆる「象徴天皇」を指している。ここで述べら
れている「象徴」と「中心」に語義の差異は無いと私は考察する。
従って、「天皇中心」や「憲法の根幹を否定」を批判対象にした朝
日新聞をはじめとするマスコミ人士を私は批判対象にする。

 マスメディア=第一の権力 

 最後の日蓮は、連立相手の公明党の支持母体、創価学会が脳裏に
浮かんでの発言だから、公明党がこの発言に批判の矛先を向けるこ
とに私は理解できない。このような発言の全容を虚心坦懐に読めば
、森首相が単純に、明治以降の国家神道の復活をもくろんでいると
いったような批判がいかに馬鹿げたものであるかということは、ま
ともな文章読解力のある人ならば容易の気づくはずではないか。そ
れに気づかなかった、もしくわ気づこうとしなかったマスメディア
(テレビ・新聞)は、何らかの意図がそこに存在していたと考える
ことができよう。そもそも、このような騒動になったからには、森
首相発言の全文、フルテキストを各マスメディアが発表しなければ
、国民には発言内容の善悪を付けることができない。なぜなら、文
章というのは、コンテクスト、前後関係・文脈に基づいて語られる
からである。そのような処置をしないで、片言隻句(へんげんせっ
く)を捕らえて、一部分を文章から抜き出して報道するというのは
、いわゆる「言葉狩り」以外のなにものでもない。この「言葉狩り
」という度し難いマスコミの悪しき因習により、これまでの日本の
政界では、幾人もの政治家がマスコミによって辞任させられ、また
は苦しめられ、徒労を強いられてきた。最近の例で言うと、1999年
10月に起こった、自由党の西村眞悟衆議院議員による「核武装」発
言である。そして、2000年4月に起こった、石原慎太郎東京都知事
による「三国人」発言である。この最近の3つの「言葉狩り」事件
において、全文を報道したのは、唯一、産経新聞のみであった。そ
の他のマスメディアは、偏向報道をしたといっても決して過言とは
いえない。朝日新聞は、その社の方針からして全文は決して掲載で
きないはずである。「失言の認定権」という強大な権力をマスコミ
は握っているわけだ(井沢元彦論文 諸君10月号「A級戦犯は村山富
一と河野洋平じゃないか」)。ここまで騒ぎが拡大したからには、
その根本原因となる森首相発言の全文を掲載するのがマスメディア
の義務である。そうしない限りは、国民がこの発言の善悪を判断す
る資料は、無きに等しい。なぜなら、一部分を抜き取って報道する
限りは、そのマスメディアの価値判断に依拠することになるからで
ある。朝日新聞が明らかに今回のような偏向報道を意図しているよ
うな場合、マスメディアが世論(せろん)を代表するのではなく、
マスメディアが逆に世論を代表することになる。つまり、マスメデ
ィアが意図的に世論を操作していることになり、それは文字通り煽
動である。煽動とは、アジテーションのことであり、それを行う主
体をアジテーターという。そうとわかれば、世論なる実態、本質が
垣間見えてくるというわけだ。そういう意味において「世論調査」
なるものは、「自作自演」の域を出ない。マスメディアを「第四の
権力」という表現がしばしば見受けられるようになったが、実際は
「第一の権力」である。第四の権力でいう第一・第二・第三とは、
立法・行政・司法のことである。なぜ、第一の権力なのかというと
、三権はいわゆる世論なるものには抗しきれないので、その世論自
身を操作しているものとしてのマスメディアが第一の権力となると
いう次第である。
 
 世論と輿論は違う

 ここでいう「世論(せろん)」なる単語は、マスメディアが第一
の権力になる以前には存在せず、「輿論(よろん)」と書かれてい
た。この「輿」という字は車などの土台を意味し、従って社会の土
台を指したのである。それゆえ神輿(みこし)と書かれるのである。
そしてその社会の土台とは、一般庶民のことであった。私がここで
「衆愚=大衆」と呼ばず、あえて庶民といったのには理由がある。
 庶民とは、財産も無い、大学も出ていない、新聞も読んでいない
、がしかし、日々の家庭、職場、地域での生活の中で、何千年にも
及ぶ日本固有の日本文化に基づく「歴史的英知」とでも呼ぶべき知
恵をそこそこ身につけている人間のことを指した言葉である。つま
り、知識人といえども歴史的英知を身に付けていないのなら、その
語意からして「大衆」と呼んで指し使えないのである。だから、「
輿論」と書いたときには、社会の底辺にいて人知れず歴史的英知や
知恵を身につけている人々の間からわきあがってきた論のことを指
している。しかし、この「輿論」という字も戦後、字数が多いとい
うことで「世論」という字をあてがわれてしまった。世間がまっと
うならば、庶民の輿論が流通するのであろうが、今どき流通してい
るのは、第一権力にのし上がったメディアの世論である。
 
 多神教の「神」と欧米の「神」とは違う

 森首相は「神の国」と言っているが、これは「神々の国」「神々
の国原(くにはら)」という意味にとるのが庶民たる言語感覚であ
る。日本人の大好きな小泉八雲、(こいずみやくも・1850-1904ギリ
シャ生まれの英国人、のち帰化)も日本のことを「神の国」と呼ん
でくれているのであれば、ごく健全な文化的認識として通用してい
たに違いない。
 日本では、様々な「神」が存在している。森の神(鎮守の森)し
かり、山の神しかり、海の神しかりである。人間は死ねば誰でも「
神」になる可能性がある。乃木神社、東郷神社しかり。つまり、日
本文化の多神教の「神」というのは、欧米の唯一神の「神」、ヤー
ベ(エホバ)とは全く異なる存在なのである。
 この日本的概念に「神」という中国文字を当てたときに第一の誤
解が生じた。さらに、中国語聖書がGODを「神」と訳したときに、誤
解は決定的に二重になった。
「神」という漢字を当てはめたことにより、日本のきわめて広い自
然崇拝や、多用な権威、異形(いぎょう)な動物などへの「アニミ
ズム」の信仰とどうしても調和しなかった。そのために、キリスト
教にとっても不運であったし、日本の側の様々な「神」の概念を混
乱させるという意味においても大きな錯誤であった。その証拠に、
かの有名なスペイン人イエズス会士のフランシスコ・デ・ザビエル
(1506-1552)は、日本のアニミズム信仰に屈し、キリスト教でいう
GODを日本語に訳すのを断念したのである(詳細は『国民の歴史』)。
日本のアニミズム「神」と欧米の唯一神の「神」を錯誤しているの
は、日本のマスメディアや大衆(庶民ではない)のみならず、海外
のメディアも錯誤していた。米国を代表する「ワシントン・ポスト
」紙6月4日付は、「神の国」を「divine country」と訳している。
教典もない、一神教でもない、八百万(やおよろず)の神が日本で
あるにもかかわらずに。ポスト紙の論説記者には八百万の神を和英
辞典で先ず引いてみることをお薦めしたい。
 では、「神」を英訳する場合はというと、一神教では大文字で
「God」、divineはGodの形容詞である。多神教の日本では小文字で
「god」(女神はgoddess)とするか、kami、higher being、higher
 powerなどを使って表現する。deityは、godの意のやや古風な語で
、「神性をもつもの」の意でも用いる(ニューアンカー和英辞典・
学習研究社)。

 天皇は「半神半人」

 日本の多神教の「神」というのは、欧米の一神教の「神」とは異
なる存在である。
そして、その文化的多神教の統合主が日本では天皇となるのである。
しかし、天皇は一神教の神のように、天皇自身が神なのではなく、
「地」の神々を「天」と結ぶ役割を担う掛け橋、つまり「祭祀王」
(さいしおう)と位置付けるのが適切である。そのような意味から
、天皇は「半神半人」である。超越性としての「天」に結ばれてい
る部分と、世俗の「地」に結ばれている部分があるということ。だ
から、天皇を「神」として崇めるのも(右翼)、天皇を象徴(お飾
り)にすぎないと「地」に貶めるのも(左翼)日本人としては非国
民である。
国民とは、現在生きている日本人のみを指すのではない。皇紀2660
年(神話を含む)の世界一長期の悠久の歴史を保持しつづけている
皇室を、よき伝統として精神の活力・糧とすることが国民であり、
それに基く思想を「輿論」という。国民の概念には、今まで生きて
きた日本人全てが含まれているのだ。言ってみれば、国民とは「死
者」を含む。それゆえ、憲法第一章 皇室 第一条に掲げられてい
る文言「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって
、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」の中の「国民
」とは、そう言う意味である。しかし、「無自覚」な毎日新聞は、
昭和天皇が崩御された時、投書欄を利用して、「憲法第一条には、
天皇は日本国民の総意に基く、とあるのだから、今こそ国民投票を
して皇室の是非を問うべきだ。」ということを掲載した。こう言う
ことをいう日本人は、悪党でなければ阿呆である。こう言う人間は
、日本国民とは言えない。日本人民である。人民とは地球市民のこ
とかな。つまり、国籍を持てず、太平洋上を浮遊するしかないとい
う意味である。だから、北朝鮮や支那(シナ)が国名に「人民」と
記しているのは納得できる(皮肉)。両国の現政府には、かの国の
歴史と伝統を継ぐ意志がないのだから。いずれにせよ、お飾りに
すぎないと考えるならば、そんな存在を第一条に添えている現憲法
を直ちに廃棄して頂きたい。

 ロゴスはロゴス 

 ここまで見てきたように、日本語の「神」という語意には錯誤が
甚だ生じている。
なぜ、このようなことが生じているのだろうか。それは、言葉(ロ
ゴス・logosギリシャ語)は論理(ロゴス)であり、言葉は、つま
り言語はその国特有のものということが認識されていないからであ
る。正しい言葉、論理的な言葉が乱れているからである。
日本人はたまたま日本語を話しているのではなく、日本語は古来か
らの、皇紀2660年の歴史を持つ日本文化と表裏一体なのである。言
葉を発するということは、その国固有の文化・歴史を語っているこ
とになるということに、無知と不勉強なマスコミ人士及び大衆人は
そろそろ気づいてはいかがなものか。

 【参考文献】
・『日本は「神の国」ではないのですか』加地伸行編著 小学館文
   庫2000年8月
・『国民の歴史』(17章GODを「神」と訳した間違い)西尾幹二著 
  扶桑社1999年10月
・「『鎮守の森』は泣いている」山折哲雄 論文 月刊誌「中央公
  論」7月号
・「山折論文に反対する」新田均(にった・ひとし) 論文 月刊
  誌「諸君」9月号
・反論 山折哲雄 「中央公論」10月号
・再反論 新田均 「諸君」11月号
・産経新聞  

図越

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