1641.「国民総幸福量」という人間中心の価値観



件名:「国民総幸福量」という人間中心の価値観    S子  

1972年、弱冠16歳という若さで即位した国王のもと、ヒマラ
ヤの秘境ブータン王国が「国民総幸福量」という価値観を国是とし
て最重要視、世界の中で異例ともいえるこのヴィジョンに真剣に取
り組んだ結果、今日また新たにブータン王国が世界から注目され始
めている。

ブータン王国は総人口70万人足らずの農業国で、起伏の激しい国
土の総面積は九州程度である。ヒマラヤの雪解け水が豊富に供給さ
れ水不足の心配はなく、農業に適している。また、森林面積も国土
の7割まで拡大し、自然環境保護にも努め、自然と人間の共存を目
指している。

『「国民総幸福量」の概念はこう説かれている。目的と手段を混同
してはいけない。経済成長自体が国家の目標であってはならない。
目標はただひとつ、国民の幸せに尽きる。経済成長は幸せを求める
ために必要な数多い手段のうちのひとつでしかない。そして、富の
増加が幸福に直接つながると考えるのは間違いである。・・・』(
「選択」5月号「ブータン発「国民総幸福量」という価値観」より)

つまり、全てにおいてまずは人間中心の政策をブータン王国はとっ
ているのである。人間中心といってもその根底にはチベット仏教の
利他心があることを忘れてはならない。それは、全ての生きとし生
けるものに対する思いやりと親愛の情をもって接することであり、
全ては相互に依存しあって生きていることを自覚することである。

どうすれば他者を苦しみから救うことができるのか、どうすればよ
りよい心の平安が得られるのかを考え、自らが行動する。そうして
得られた他者の幸せはやがて自らの喜びとなってはね反ってくる。
ブータン王国はこのこころの豊かさに重点を置き、それを追求し、
30年経過した今、年率平均7%前後の高度経済成長を持続させて
いる。

このことは大変な驚きであるが、これは何もブータン王国が急激な
近代化により南アジアの最貧国からトップへのし上がった結果では
ない。むしろ答えはその逆で、ブータン王国はより一層のゆっくり
とした近代化を歩んでいる。木材輸出は自然保護の観点から全面禁
止とし、数々の豊富な鉱物資源もありながら採掘せず、全ては「国
民総幸福量」というヴィジョン達成のために、ブータン王国は官民
一体となって本気で取り組んでいる。

この現実に注視した世界のエコノミストは、ブータン王国へ現地調
査に赴いた。
『ブータンに出張した彼らは、予想もしなかった経験に出くわした
。精神的といってもおかしくはない情緒体験の感動に打たれたので
ある。国籍さまざまのエコノミストが、皆口を揃えたように「自分
の心のふるさとに帰ったように思えてならない。」と報告しはじめ
た。』(「選択」5月号「ブータン発「国民総幸福量」という価値
観」より)

世界のエコノミストがこれまで勉強してきたのは経済学のための経
済であり、人間あっての経済ではなかったのだから、ブータン王国
での彼らの情緒体験は大きな衝撃だったに違いない。近代化をひた
すら目指してきた先進国がなくした人間の「質」、すなわち精神性
の高さをブータン王国の人々は培っている。

チベット仏教からくる利他心、慈悲心というこころの豊かさが経済
を循環させ、自然との共存によりもたらされる豊かな実りに感謝の
念を抱き、「国民総幸福量」という目に見えない価値に向かって総
国民がひたすら生きる姿勢は、先の大戦終結によりひたすら近代化
という目に見える価値に向かって総国民まい進してきた日本の姿に
どこか似ていなくもない。

同じ仏教国でありながら、ブータン王国と戦後日本の歩んできた道
はまるっきり正反対となってしまった。が、日本型資本主義の源泉
は、仏教(日本の仏教は元はチベット仏教からきている)の利他心
にあったと言われている。

養老、天平時代の仏教僧行基は因果応報の法則を説き、善行は善い
結果を生み、悪業は悪い結果をもたらし、地獄に堕ちると言った。
悪業を成し地獄へ堕ちないためには利他行=菩薩行をし、全ての生
きとし生けるものを苦しみから救うために人は働かなければならな
い、と行基は布教した。

奈良東大寺の大仏建立にはこの行基の布教が重要な役目を果たし、
その当時のあらゆる技術をもってしても未曾有の難事業を仏教の利
他行ゆえに完成することができたのである。この利他行=菩薩行と
いう労働倫理が、これ以降さまざまな偉人に引き継がれ、それが日
本型資本主義といわれる終身雇用や年功序列につながり、日本は瞬
く間に近代化を成し得た。

しかし、日本は近代化を推進するうえで目的と手段を見誤ったよう
である。ひたすらに高度経済成長を追求した結果、物質的豊かさは
十二分に得られはしたが、こころはないがしろ、置き去りにされ、
今日の日本人の精神的退廃は押して知るべしである。かつての安全
神話は崩れ去り、社会不安は増大の一途をたどり、か弱き小さきも
のへの虐待は歯止めが効かず、年間3万人以上といわれる自殺者も
後を絶たず、この国からこころの豊かさは消え失せようとしている
。

『近代化がもしもこの(こころの)豊かさを侵す時がきたら雷龍の
国(ブータン王国)は滅びていく。』と言った若きブータン国王の
深い英明な洞察力が、表面的にはめざましい近代化を遂げたものの
人々のこころは空洞化し、内部から朽ち果てる様が見て取れるよう
な今日の日本の姿に痛いほど突き刺さる。

経済的豊かさにより私たちは自由を勝ち得たように思ったが、私た
ちは勝手気ままに行動することにより、お金さえあればひとりでも
生きていけると思い上がった。そうして他者に対する想像力の欠如
が生まれた。利他心や慈悲心をなくし、自己中心的な考えしかでき
なくなった。お互いが持ちつ持たれつの相互依存で生きていること
など私たちはすっかり忘れてしまった。

その結果が今日の日本の姿に如実に現れており、それが世界的な経
済の行き詰まりへとつながり、資本主義が崩壊寸前となっている。
つまり、人間の「質」の低下、精神の貧しさが今日の世界の状況を
生み出している。人々のこころの「ありよう」がそのまま現実世界
に投影されている。先進国の私たちの精神の貧しさ、人間としての
「質」の退化は一体どこまで進むのか。また、いつそのことに私た
ちが気づくのか。

ブータン国王の深い英明な洞察力と「国民総幸福量」という目に見
えない価値に向かって総国民が一丸となり、ひたすらまい進する姿
はどう見ても美しい。それは私たちが過去において体験した自らの
姿でもあった。私たちはそれさえも忘れかけ、各自こころはバラバ
ラである。

今日のさまざまなシステムの行き詰まりの要因は、それを扱う私た
ち人間の「質」の退化に問題があったのではないか。ブータン王国
を見ていると私はどうしてもそのように思えてならない。日本とい
う国の再生に向けて私たちがしなければならないのは、ブータン王
国のような人間中心の政策をとることである。そのためには、私た
ちひとりひとりのこころの中にある救世主をまず覚醒する必要があ
ると私は思うが、どうか。

参考文献
「選択」5月号
「仏教と資本主義」 長部日出雄著   新潮新書
「般若心経入門」 ダライ・ラマ著  宮坂宥洪訳   春秋社
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チベット仏教について        Fより

S子さんのコラムに載せられて、ちょっと仏教史、思想を見ておこ
うと思います。密教の訓練方法も書きたいが、このコラムだけでは
無理でしょうね。

仏教史を勉強すると、小乗仏教から大乗仏教に行き、その後密教に
至る仏教史を学ぶことになる。禅宗は日本で確立したためにインド
の仏教史には出てこない。仏教の大きな教えは、人間は魂と体に分
解できることでしょうね。そして、魂は永遠に不滅であり、何回も
この世に生まれ代わっている。修行すれば、魂はあの世で永遠性を
持って、苦しいこの世での生を受けないと。魂にはレベルがあり、
レベルが低いと動物になり、高いと人間やそれ以上に高いと神にな
ると。この魂のレベルを高める行いが八正道であるのです。これが
釈迦の教えのベースである。

このため、このベースに近いのが小乗仏教で個々人が修行する必要
があると言うことになるのです。しかし、それは不可能であるので
、自分たちの身代わりに修行を積んでもらい、その人にあの世の彼
岸まで連れて行ってもらうために、多くの人を救うことを専門とす
る坊主を作ったのです。これが、大乗仏教です。しかし、この大乗
仏教レベルは論理レベル留まり、魂と体の分離の修行方法は、座禅
しかなかった。このため、その修行方法だけを分離して禅宗が日本
ではできるのです。しかし、インドでは高度な修行方法を生み出し
ます。

この高度な修行体系を確立する密教がでてくる。初期の密教はビン
ズー教のヨガを取り入れてできている。クンダーニ・ヨガで気の集
中する点チャクラを開発する方法です。その後、印を結び、無我の
境地をどう実現するかを追求しているが、中国に伝わったのがイン
ド密教の中期レベルの段階のものであるために、チベット仏教の教
えは日本の中世には入ってこなかった。

チベット仏教は、インドにイスラム教が入り、インド仏教を崩壊さ
せるが、その最終時点の仏教(密教)が逃れてチベットに亡命した
ことで、インド仏教の最終形にあたるのです。この仏教の特徴は、
タントラなどのイメージによる精神集中で、チャクラ開発をあわせ
ると大きな力を出すことができるとしている。

このチベット仏教は、中国には仙人道として入ってくるが、日本に
は伝えられなかったようですね。この仙人道やチベット仏教の神経
集中法は、そう簡単ではないが、イメージを浮かべて、この形の上
に自分の魂を乗せることで、時空を乗り越えさすことができるとい
うものです。

このイメージ訓練法は現代の精神医学に取り入れられている。時空
を乗り越えることはできないと思うが、現代人は科学的な色彩を帯
びると安心するようですので、その方向からイメージ・トレーニン
グを始めるといいかもしれない。仏教が現代で再度、小乗仏教化し
ているように感じます。そして、それを理解する理論が脳生理学の
発達により科学的に証明可能になってきている。

座禅と大きく違うのは、このようなイメージ法を修行に入れていた
ことでしょうね。オウム真理教の浅原はこのような修行をしたよう
です。しかし、お気づきの様に、この修行で技術を確立できるため
に悪事にも使えるのです。このために、大乗仏教(密教)では世の
ために、その技術を使えと言っているのです。その技術を悪事に使
うと浅原のように身の破滅になると教えているのです。このため、
自欲から離れ、利他になるしかないのです。無我の境地にしろとい
うことも、このことから出ている。

このイメージ法を習得すると、世の気の流れを感じることができる
ようです。そして、その本にはいろいろなレベルの魂の生きる環境
を壊している人間の欲が、この世界をおかしくしていると見えるの
です。この感覚は古神道も同じですね。

ブータンもチベット仏教地域ですので、このような考えが国王にあ
るため、「国民総幸福量」という考えで出て、かつ万物の幸福量と
して人間・経済中心でもない政策になったように感じる。
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故岡本太郎氏が縄文土器を絶賛されていた。
  縄文土器には、命が燃えているようである。
   ゛芸術は、爆発だ" 
  生活と命が直接に結びついていた。
  現代文明は、゛命"を感じられなくなっているのではないだろうか。
  岡本太郎氏は、堀江健一氏を゛彼は人生で冒険できなかったので
、太平洋を横断をしたのだ"と評しておられた。あのバンジージャン
プも命を感じられないから、出てきた遊びではないだろうか。文明
の発達は、命の危うさを感じさせなくなっているのではないか。
「日本人の危機意識の欠如」と自国民の批判をよく聞いたものであ
るが、最近は、あまり耳にしなくなってきた。危機意識が芽生えて
きたのだろうか。私など、松本清張の小説のヒロイン気分になるこ
とも結構あるのだが。
 
  人間生活を命から隔離するものとして、イデオロギーがある。食
物アレルギーがあるように、イデオロギーは、心のアレルギーを起
こすのではないか。心の健全な成長を阻害するように思えるのであ
る。そして人間を思想によって、差別するのである。
 
  縄文時代からは、武器は発見されていない。よって、武器によっ
て、殺害された人骨も発見されていないようです。武器以外で殺害
は、可能ではある。しかし所謂、戦争は存在しなかった。
 
  縄文には、本来の人間の暮らしがあるように思えます。「人間革
命」と言う本がベストセラーになっている。人間の本来の有り様に
戻るというよりは、新たな出発をするといった感じを受ける。「革
命」は人間には合わないように思える。
  人間は、本来如何にあるべきかを問い、実行すべきではないか。
縄文生活に、本来あるべき人間生活がある。昏迷している現代社会
の指標にも思える。
  三内丸山遺跡が発見されたが、ここに国家事業として、縄文生活
の再現を計り、体験できる国家事業をおこしては如何だろうか。
ここに日本人の故郷、現代社会の原点として、存在させることは有
意義なことだと思えるのだが。
國井明子
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(Fのコメント)
ヨーロッパに輸出していた満艦飾の伊万里焼きとブルーの鍋島焼き
の陶器の違いを見る。製作場所は同じ工房である。技術の違いはな
い。心を落ち着ける鍋島と歓喜の伊万里で、最初見た瞬間は伊万里
焼の方がきれいに見える。しかし、何個も見ていると伊万里焼は飽
きる。鍋島は飽きない。心を歓喜させるものは飽きが来ることが分
かる。しかし、ブルーの濃淡だけの鍋島は、心を落ち着かせて飽き
ない。最後には鍋島方がきれいに感じる。そして、江戸時代には鍋
島は最高の陶器とされていたのです。現代人のは伊万里の方がきれ
いであり、最高の陶器と思うのではないでしょうか??

心の状態が、現代社会は緊張状態にあり、より強い感覚のものがな
いと反応しない心の状態になっているように感じる。心を落ち着け
させることが必要であろうと感じる。心を落ちつさせると、世の中
が見えるのに、忙しすぎて皆が、世の中を真相を見ようとしない。

強いイデオロギーに引かれていく。これは危険である。心を落ち着
かせることである。自分だけでも心を止めることが重要だ。

トムクルーズのラストサムライを見たが、この中では日本のサムラ
イの責任感や心静かで、平和な佇まいを描いている。この感覚を、
現代日本は失ってしまったように感じる。その失った姿を縄文時代
から江戸時代までに見ることができるり、現代のブータン王国は失
っていないのでしょうね。


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