RE: 幼少時をゴーギャンはペルーで過ごしたことについて 得丸さん >我々がものを考えるのは、単に記憶を持ち出してくるか、新しく受け入れた知識と >記憶を足し合わせるだけの、きわめて単純な作業にすぎないのかもしれな い、、、。 ・・・引用・・・・・・・・・・・・・・ ゴーギャンは11歳から16歳までオルレアン郊外のラ・シャペル=サン=メスマ ン神 学校の学生で、この学校にはオルレアン主教フェリックス・デュパンルーを教師とす るカソリックの典礼の授業もあった。デュパンルーは神学校の生徒たちの心にキリス ト教の教理問答を植え付け、その後の人生に正しいキリスト教義の霊的な影響を与え ようと試みた。この教理における3つの基本的な問答は「人間はどこから来たのか (Where does humanity come from?)、「どこへ行こうとするのか (Where is it going to?)」、「人間はどうやって進歩していくのか (How does humanity proceed?)」であった。ゴーギャンは後半生にキリスト教権に対して猛反発するよう になるが、デュパンルーが教え込んだこれらのキリスト教教理問答はゴーギャンから 離れることはなかったと言える。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以上、@wiki まさしくゴーギャンは、神学校時の刷り込み(記憶)と、進歩より、何者であるかの 煩悶(新しく受け入れた知識)の混合を提出したのかもしれません。 あるいは、捨て去りきっていたはずの教理が、過酷な生の果ての遺作めいた作を描き 上げて深い所からの泡のように浮いてきたのかもしれないし、浮かんだことが制作の 契機になったのかもしれないし、 ゴーギャン本人にしか、わからないことです。(上記の引用の信憑も不明)。 鑑賞者は、タイトルも含めた総体として、おのおの眺め、受け取る。 その感受もおのおの異なる。 >どうすれば正しく読んで、正しく評価し、正しい知識を受け取ることができるの か。 「正」の対義語は「誤」であり「邪」です。世の中に「これは絶対に<正しい>」は ないと思います。ある時点での正しいかもしれないこと。しかし位置が少しずれれ ば、正しさの度合いは減じたりしやしませんか。 >いつも読書会をやっていて思うのですが、同じ本を読んでも、人それぞれによっ て、>受け取る知識が違うし、本そのものの評価もまちまちです。 だからこそ、読書会は面白い。自分は、こう感じたが、ああそのような<読み>もあ りか、と顧たり、さらっと読み流した箇所へのこだわりを知ったり。<場>の動的平 衡のダイナミズム。 >誰かがある本や文章を書く行為は、何かを伝えたいためであり、それを正しく受け >止めて、正しく評価することが、読み手として本来求められている行為でしょう。 <伝えたい>という目的的でなく、なんか湧いてきたから書いちゃった、もありだ し、 職業作家は換金のためだったりもするし、読むがわの「正しさ」基準でも、累卵の如 き<蓄積された記憶や知識>の間隙が少し埋まることもあれば堆積することもある。 「正しく受け止め、正しく評価する」のは学術論文に求められることではあると思い ます。が、会では、より鷹揚なフトコロ広さも含有しているのが魅力なのではないか しら。 森さんの言葉で得丸さんのゴーギャン観が豊かになり、<思考>への思考にまで広 がっていったように。 日比谷 ============================== 日比谷さん、 > デュパンルーが教え込んだこれらのキリスト教教理問答はゴーギャンから > 離れることはなかったと言える。 > まさしくゴーギャンは、神学校時の刷り込み(記憶)と、進歩より、 >何者であるかの煩悶(新しく受け入れた知識)の混合を提出したのか >もしれません。 ご指摘ありがとうございました。 我々が何か新しい概念を獲得するのは、目の前に具体的な問題があ るときに限られるということもあるようで、でもそのときに、ヒン トになる知恵・言葉が湧き上がってくるためには、論語の素読や教 義なんかも役に立つのかもしれませんね。 それまで、中味のない言葉の羅列に過ぎなかったものが、現前の問 題と一体化して、問題を対象化することができる。 そういったことを考えさせてくれた森さんのコメントもあり、ゴー ギャンの絵を観てよかったと思います。 それに比べると、韓国はとらえどころがない、韓国で何を見てくる のかと、ずっと考えていますが、なかなか「自発性、現場性、当事 者性、対等性」(谷川雁の言葉)にぴったりするテーマに出会えてい ません。 70年のよど号事件、74年の文世光事件、79年の10.26事件から、80年 の光州事件、と続く、「民主化」運動の表と裏あたりはどうだろう かと思い始めていますが、いやあ厄介な問題ですね。 得丸