3196.ビハーラとしての日比谷公園「派遣」村



現代という芸術 

ビハーラとしての日比谷公園「派遣」村

 1月2日の午後、乃木神社での初詣したあと、日比谷公園の年越し
派遣村を覗いてみた。

 公園の南西部の一角で、植え込みの間に小さなキャンプ用テント
が3,40個、かなり密に建てられていた。舗装した通路に、本部のテ
ントがあり、村民の受け入れ、就職相談、医療相談、カンパやボラ
ンティアの受け入れを行っていた。また、少し離れた通路上には、
米や野菜や果物が山と積まれていて、その脇にプロパンガスのボン
ベと大きな飯炊き釜が並んでいた。

 私もボランティアに登録し、本部の前でさほど多くはない仕事を
待っていた。私のような一次的なボランティアでもできる仕事は、
「霞ヶ関門にテントが運ばれてきますので、受け取りにいってくだ
さい。」、「日比谷門に灯油が届きますので、運んでください。」
、「汚れたトイレがあるので掃除をします」といった声に応えて、
運搬か掃除かテント建設の助手程度しかない。

 その日は厚生労働省の講堂が開放され、宿泊が許されたので、先
遣隊として青いシートで廊下を作ったり、なるべく多くの人が布団
を敷けるように交通整理を手伝った。

 同じころ公園ではロック歌手や沖縄民謡バンドが演奏での励まし
をしていた。布団の上に座っていた村民のおじさんに、「コンサー
ト聴けずに残念ですね」と話しかけると、「いや、下手糞のは聴き
たくないよ。桑田(圭佑)を呼んでこいよ。」という。「FM東京で桑
田が番組持ってるのをよく聴くけど、最近はひどいね。こないだ『
葉書なんか送ってこなくていいから、金を送って来い』とかいって
たよ。あんまり売れなくなったのかね。前は番組の中でサザンの歌
をたっぷり聴かせてくれたけど、最近は、チョロっと流して『後は
買って聴いてください』だもんね。」サザンの桑田が、ホームレス
にこき下ろされていた。いったいどちらが貧しいのだろう。

 面白かったのは、僕が講堂の前でボケッと立っていたら、若い人
が「このままのペースで布団を敷いていたら、全員入りきれません
。もう少し狭く敷くように指導を出してください」とか、「発熱し
た人がいます。かなり高いようです」とか、報告に来るのだ。僕は
それを派遣村の幹部に報告し、どう対応するか確認をとって、現場
指揮をしたのだった。

 権威も序列も利害関係もない、それまで一面識もなかったものの
間に、自然発生的に協力精神や秩序が生まれ、お互いに尊敬しつつ
それぞれが努力して最善の対処をとる。このように組織が生まれて
機能することもあるのだなと、さわやかな気分になった。

 ここはまるでビハーラだ。派遣村は時代の最先端をいく、実験だ
ったのかもしれない。

 いっしょに仕事をした若い人たち、高校生、大学生、社会人は、
テレビの報道に接して、いてもたってもおられずに自主的に日比谷
公園にやってきていた。

「明日は我が身ですから」、「もうこんなになったら、勝ち組も負
け組もないですね」といった冷めた言葉が印象に残っている。

  もうひとつ印象に残る場面。夜のとばりがおり少しずつ寒くなっ
ていくころ、夕食の配給を受けた村民たちが、使い捨てのどんぶり
とおにぎりを両手にもって、暗い公園の片隅に次々に散っていって
しゃがみこみ、黙々と食べていた。

 人類の文明はついにその原罪の重みにたえきれなくなり、受難の
時代が到来したのかもしれない。

(2009.2.5 得丸公明)



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