以下は、ほぼリアルタイムの、私の初めての妊娠での流産の記録です。母への手紙の形で、ずっと経過を記録していました。 
 誰かの、何かの役に立つかもしれない。と思い、公開することにしました。 
 妊娠・出産の情報に比べ、まだまだ流産の情報は少ないようです。 
 もっとオープンに、みんなでみんなを癒しあえるような世界になればと願ってやみません。

    

 さっき長々と話してしまったし、どうしようかと思っていたけど、終わったらお母さんに手紙を書こうとずっと思っていたので書いています。 
 さっきの電話でわかってくれたと思うけど、もちろん、とても残念だし、悔しいし、本当に可哀相なことをしてしまって申し訳ないと思ってるけど、でも元気です。明日からの生活、もちろん、次の赤ちゃんのことも含めて、やる気まんまんです。
 晃くんには、本当に感謝しています。一緒に悲しんでくれて、何が何やらわけがわからず、ぼんやりしていた私の隣で、何もかもやってくれました。余計なトラブルもあって疲れてるでしょうに。この人と結婚してよかったなあとしみじみ思ってます。

 経過を書きます。
 ここの所ずっと、ほぼ毎日、午後からながら出勤してました。1日だけ、朝から働いて、凄く疲れたので、午後からにしてもらっていたのです。快諾されたので、そんなものかとは思ったのですが、遠距離通勤でギリギリまで働くお母さんもたくさんいるだろうに、妊娠中期に入ったハズなのに劇的に楽にはならないなーとも思っていました。

 6月3日木曜日 お休みしました。一日家にいたかな。

 4日金曜日 午後から出勤。急ぎの仕事もなく、来週監査が入るということで、いつもより入念にデスク回りを掃除して定時退社。

 5日土曜日 先週、カラオケに行く行く言ってたんだけど、突然晃くんが出勤しなくてはならなくなり、延期(6月からは週休2日になっています)してたので、カラオケに行こうかと(真帆ちゃんに、赤ちゃん産まれたらしばらくカラオケにも行けないよ〜と言われたことがあったので。大音量で、赤ちゃんが難聴になるそうです。)思っていたのですが、今一つ体調がぱっとしなかったので、あひる見物に行った程度で終日ごろごろしてました。

 6日日曜日 バンドの練習日で、ずっとお休みしていたので、参加しようかと(荷物は全部もつと晃くんが言ってくれて)思っていたのですが、やはり今一つ調子が良くないので晃くんだけ出発。このときは、足がダルイのと、腰が痛いのだけで、どっちも妊娠の症状だと思っていました。足がダルイのに効果があるかな?と思って、足湯をしたりしていました。が、だんだんひどくなってきたので、ひょっとして熱でもあるのかな?と計ってみたら、38.3℃。げ、と思ってすぐ横になりました。しばらくして計ったら、39度以上まであがってました。妊娠して、今までなったことのないことだらけで、これもその一つと思いました。
 妊婦は薬飲めないし、医者行っても待たされてくたびれるだけと頭からあって、この時博史(実弟・医者)に医者に行った方がいいか電話しました。そして、「医者に行った方がいい時もあるけど」「どこか炎症はないか」(今思えば、子宮なり、赤ちゃんなりからの信号だったんでしょうけど)と聞かれ、さらに水はいっぱい飲め、脇を冷やすと体温が下がる、などのアドバイスも受けて、電話を切りました。
 この時は、後でお母さんに、「ゆうこ、今までで39度も熱だしたこと、ある?」と聞いとこう、とか呑気なことを考えていました。
 そうこうしているうちに、晃くんが帰宅。中華粥を作ってくれて、少しだけ食べて、また横になりました。

 月曜日。熱は下がらず。晃くんは出勤。一旦、37度台まで下がったものの、再びあがり続け、少し下って夜の11時過ぎ、横になっていると、トイレにいった直後なのに、何か暖かい液体がどんどん出てきて、その時はオシッコとしか思わなくて、「ふとんが汚れる!」とあわてて走ってトイレに行き、下半身だけシャワーを浴びました。再び横になり、しばらくぼーっとしていて、あれは破水というやつではないか、いや、そんなはずはない、でもオシッコにしては、いやいやいやいやとか考えて、考えて、考えて、先に寝ちゃっていた晃くんを起こし、病院に行った方がいいかもと言って、破水かも、と言うと、救急病院とか、あちこち電話して聞いてみてくれました。結局、「今行っている病院は?お産は24時間だから、電話してみなさい」と言われ、通っていた病院に電話すると、「安静にして、翌朝来るように」とのことでしたので、そうすることにしました。

 明け方うつらうつらした程度で、火曜日の9時の診察開始直後に、タクシーで病院へ。即、検査。お腹の上から初めてエコーで赤ちゃんを見る。モニターを見て、あ、耳がわかる。かわいーなー、でも、動かないなー、前回もこんなだったかなーと思ってるうちに、今度は心音を聞く。私のお腹の音ばかり聞こえる。あれ〜?と思っているうちに、すぐやめる。 あきぼんも呼ばれ、「すぐ入院させてあげたいけど、あいにくベッドがいっぱいである。都立病院に紹介状を書くから、そちらへ行くように。部長と話をつけておくから、受付で待つ必要はない。緊急だから」と言われ、何にしろ大きな病院で待たなくてすむならありがたいとか思って、さらにタクシーで移動する。
 都立府中病院の緊急外来の受付とかいうところで手続き。ほどなく検査。またエコーをとる。晃くんが診察室に呼ばれる。先生に、「赤ちゃんは、もう死んじゃってます云々」と言われる。後は、なんと言われたかよく憶えていません。私は、その女医さんが、きれいな人だなあ、とか、今日みたエコーの画面は、今までのと違っていろんな機能があったなあ、とか考えていたようです。気が付くと、診察室のすみのストレッチャーの上で横になっていました。気分が悪いと言って、自分で頼んだような気もします。晃くんは何やら書類を書いていました。
 そして、検査の為と言って、血を取られ、同じ針で点滴が始まりました。初点滴です。まあ、初入院なのですから、はじめて尽くしです。それにしても、あの点滴というのは厄介です。まず、管が邪魔だし、どこへ行くのもぶら下げる棒をがらがら押して、です。連れてると、自然に動きが「病人モード」になるような気がします。
 そして、「入院先は、A−4病棟です」「車椅子を持って来ますね」と言われて、誰が乗るんだろう?と思っているうちに座らされ、はじめてだーとか思っているうちにエレベーターに乗って、ここら辺から涙が出てきました。病室に入って、晃くんと二人になって、わんわん泣きました。信じられなかった。
 しばらくそうしていて、看護婦さんから今後の処置(手術ではなく、処置と言われました。差はわかりません)についての説明を受け、渡された入院着に着替えて、横になりました。そして、最初の処置を受けました。破水ですでに一指広開いている子宮口をさらに開く、というものです。 赤ちゃんは、放っておいても、そのうちいつかは陣痛が来て体外に出されるそうですが、それを待っていると、私に生命の危険があるそうです。
 今日の処置は、海綿の棒を何本か、子宮口に詰めるというものです。すごく痛かったです・・・。
 病室に戻って、心配そうに待っていた晃くんに、「水を吸うとふくらむ爪楊枝をだね、鼻の穴にムリヤリいっぱいいっぱいにつめこんで、たら〜りたら〜りと水を垂らして、鼻の穴をじわじわじわじわ大きくするのだ。想像してごらん、痛そ〜だろ〜」とか言ったりしてました。
 初めての病院食が出て、ほとんど晃くんが食べて、私の身の回りの物を取りに一度家に戻ってくれて、夕食もほとんど晃くんが食べてくれました(ムリして食べなくてもいいと言われました)。
 6時か7時ごろ、知っている声が聞こえたような?と思ったら、NECの人たちがお見舞いに来てくれました。今日は無断欠勤になってしまっていたので、昼間に電話はしていたのですが、びっくりしました。立派な、いささか下っぱの見舞いには豪華すぎる花束とケーキを持ってきてくれました。直属の上司とその上司、コンピューターのことで困るといつも助けてくれる新人くんというとりあわせです。その花束というのが、また、うちの父とか、晃くんとか、花束買ったことない人が、お金だけ渡して、適当によろしく!と作ってもらったんだろうなあ、とか想像してしまうようなものなんです。でもとてもきれい。面白いです。
 それで私は、その新人くんの顔を見るなり、「あ!晃くん!私借金あるの!1000円渡して、1000円!」とか叫んでしまって、すごく笑われてしまいました。お財布を忘れて出勤した日があって、お茶も飲めなくて借りて、私が休んだり、その人が出張に行ってたりしてたのです。そして上司が、「仕事のほうは全然気にしなくていいから、ゆっくり休むように」と言って下さって、「じゃ、借金も回収したことだし!」と言って帰って行きました。恵まれてるなあ、と本当にありがたく思いました。
 ケーキは、私はハナっから食べるつもりでいたのですが、晃くんが、通りがかった看護婦さんに、「差し入れでいただいたんですけど、食べさせていいですか?」とか聞いてしまって、きゃー、ダメって言われたら、全部食べるつもりね!とか思ったら、笑って、「コダマさんは何も制限がかかってませんから、かまいませんよ」と言ってくださって、ありがたくいただきました。
 そして、晃くんは、面会時間ぎりぎりまでいてくれて、帰って行きました。そして、空き巣に気が付いて、あちこち連絡してくれた後、110番通報して、おまわりさん来たりして大変だったようです。
 面会時間は8時まで。9時には消灯です。でも、消灯後もテレビも見れますし、本も読めました。9時前にトイレに行って、出血が少量あったので、看護婦さんに報告し、9時からなんでも鑑定団を見ていました。途中で、看護婦さんに、「もう一回処置しますねー」と言われて、今日はもーないな、と思っていただけに、ちょっとがっかり。せめて、放映終了後〜〜とか思いつつも言えるわけもなく、終了5分前にお呼びがかかり、挿している棒を増やしました。最初よりは痛くありませんでした。
 病室に戻って、しばらくはパズルをやったりしていて、見回りの看護婦さんに、「眠れませんか?できるだけ眠って、体を休めてくださいね」と言われて消灯。でも、耳栓をしていてもスゴい、同室の方のイビキと、点滴の違和感と、まあ、多分精神的なものとで、眠れはしませんでした。

 水曜日。病院の朝は早いです。6時にはもう、朝!という感じ。8時30分には、陣痛室に入りますよーと言われていたので、寝てるよねえ、と思いつつ、晃くんに電話して、書き出しておいた「貴重品リスト」を読み上げて、確認してもらいました。どうやら、何もなくなっていないらしいです。現金しかねらっていない空き巣だったようで、たまたま家の中に、まったく現金がなかったのです。小銭も商品券も米ドルもアイルランドポンドも残っていたそうです。

 朝食後、陣痛室へ。ここは、陣痛の間、ゴロゴロしている部屋らしく、リラクゼーションミュージックが流れていて、でっかいテレビがあって、クッションやら縫いぐるみやらが転がっています。
 今日の処置は、昨日入れた詰め物をとって、陣痛を人工的に起こす薬を入れ、子宮を収縮させて赤ちゃんを出す、というものです。
 いろんな人がいるから、とりあえず2つお薬をいれて、様子をみます、と説明を受けて分娩室に行き、処置を受けました。そして、陣痛室に戻りました。パズルをしながらゴロゴロしてて、1時間ぐらいすると、生理痛のようなのが来ました。すぐなくなって、また来て、を繰り返していて、でも、まだまだだろうなあとかしばらくゴロゴロしていて、看護婦さんを呼んで、「何か、繰り返し痛みが来るんですけど〜〜。まだまだですか〜〜〜?」と訴えると、「うーん、まだまだだと思うけど、1時間にどれくらい痛みが来るか、数えておいてくれる?」と言われて、パズルの紙の余白に、痛みが来た時の時間をメモしました。しばらくしてまた様子を見に来てくれて、「どんな感じ?」と聞かれて、「こんな感じです〜〜〜」とメモを見せると、「うーん、間隔もまちまちだし、まだまだね。血がどばっと出たような感じがあったら、言ってね」と言われました。この間、陣痛室は人が出たり入ったり、一人になったり三人になったりで、一人になった時に、看護婦さんに、赤ちゃんはどうなるんですか?とか、やっぱり、見ない方がいいですか?とか、性別とかわかりますか?とか質問したりしてました。見ないほうがいいかについては、私の性格を良く知っている弟に、「うーーーん」とか言われていたし、見ないほうがいいんだろうな、とは思っていたのですが。
 赤ちゃんは、大人と同じように、焼いて、きちんと供養します。勝手に処分したりしませんので、安心してください。でも、小さいですから、骨も残らないかもしれません。週数が早いですので、性別がわかるかどうかは微妙です。と教えてもらいました。
 骨も残んないのかあ。とか考えながら、またゴロゴロしていると、悲しくなってきて、またワンワン泣いてしまいました。その時は、お隣さんがいて、三人目が産まれるお母さんとかで、「大丈夫!?痛いの?看護婦さん呼びましょうか」と心配されてしまいました。 落ち着いて、またゴロゴロしていると、何か血が出ているようで、ナースコール押して、「何か、血がでてるみたいで、トイレ行くのおっかないんですけどー」と訴えると、すぐきてくれて、様子を見て、「じゃ、様子診るため、分娩室行きましょう」と言われました。この時は、お産の前後用の、でっかいお産用ナプキンつけて、おむつみたいな、使い捨ての、前でバリバリと留めたり外したりできる産褥ショーツというのをつけていました。そして、分娩台に乗ったとたん、にゅる、と、何か出てくるのがわかりました。看護婦さんに、「何か、大物出てきてるんですけどー」と言って、見てもらって、「先生呼んできますから」とすぐ先生が来て、その辺からまたワンワン泣いて泣いて泣いて泣き続けてました。
 何するでもなく、ちびびはするすると出て行って、顔を押さえて泣いているのでなにも見えないんですけど、出ていったちびびの細かいところまでわかるような気がして、先生に引っ張られて、胎盤?とかも、よくわからないんだけど、出ていきました。
 ずっと泣いていたので、「痛いですか?気分が悪いですか?」とずっと聞かれました。ただただ悲しくて、可哀相で、申し訳なくて泣いていたので、「何でもありません。大丈夫です」とやっとのことで言いながら、泣いていました。その後は、よく憶えていないけど、消毒やらをえんえんとやられました。子宮の掃除というのは、すごくすごく痛かったです。「痛いですか?痛み止めをしましょうか?」とずっと言われたけど、「いいです、大丈夫です」と言い続けていたようです。
 そして、しばらく、分娩台の上で、血圧とかが戻るまで、ボーーーっとしてました。看護婦さんが、片付けなんかをしてくれながら、「お薬がよく効きましたね。まだ使うと思ったんだけど」と言って、私が、「薬、普段から飲まない人は良く効くって、俗説ですかね?」と聞くと、「セデスとか、鎮痛剤は使いすぎると効かなくなるけど、全然種類の違うお薬だからね」と教えてくれました。それで、「それじゃ、きっと、遺伝です。うちの母は、鼻炎用カプセルを飲めば即ハナ水が、バファリンを飲めば即熱が下がる人なんです。弟は、きな粉でも効くと言ってます」と言うと、笑って、「そういう患者さんも、いるわ。お薬渡して、まだ効くはずないんだけど、『どうですかー?楽になりましたー?』て行くと、『すごく楽になりました』って言ってくれる人が。もう、お薬だせなくて、どうしてもと言われると、全然関係ない、それこそビタミン剤とか渡して、『すっごく良く効く鎮痛剤ですよ』とか言って、また様子見に行くと、『楽になりました』とか言ってね」と話してくれました。赤ちゃんのこととかは、晃くんがいる時のほうがいいということで、「今日はご主人はいつ頃来られるの?」と聞かれて、空き巣のこと話したり、まあそれでちょっと遅くなるとか話しているうちに、血圧も戻って、分娩台を降りて病室に戻りました。
 この時に、点滴が外されて、管だけになって、これは嬉しかったです。その後は、必要な時に、管を点滴と繋ぎました。こうなる前は、点滴をする度にブスブス針を刺していた訳で、ひじの内側が真っ黒になったとか、刺すトコ無くなって、手の甲に刺してすごく痛かったとか、お見舞いに来てくれた友達に聞いて思い出す始末。邪魔だな〜〜としか思ってなかったのですが、確実に進歩しているんだなーと思いました。でも、やっぱり点滴は苦手です・・・。
 とっくに昼食時間は過ぎていたんだけど、暖め直して出してもらって、肉と米は食べれずに、野菜だけツツくという、およそ普段の私の逆をやって、晃くんに電話してつながらず(ガラス屋にいたらしい)、戻って横になりました。
 で、自宅から30分かけて自転車で晃くんが来てくれて、全部終わりましたと報告して、本番の出産の時には、絶対絶対立ち会ってねと約束して、私の方は、ガラスの修理とかの段取りが終わりましたと報告を受けました。
 「主人が、来てくれました」と言うと、しばらくして主治医の先生が来てくれて、処置は別の先生だったので、聞いた話だけど、と前置きして、「結局、何が悪かったか、はっきり特定は出来ない」「先の話は、また退院の時か、その後にでも」「おとこのこだったそう」と教えてくれました。
 その後、炎天下、自転車で走り回った晃くんの方が辛そうで、一緒にごろごろしてたら、友達とそのダンナさんとその友達(3人ともごく親しい)がお見舞いにきてくれました。素敵な花籠を持ってきてくれて、色合いはやっぱり黄色い(私、黄色大好き)んだけど、実際にアレンジしてくれた人の腕は別問題として、やっぱり、興味があって、センスがよくて、私のことをよく知ってくれてる人の選んでくれたのと、そーでない人との差がばっちり別れた(正直、二つの花のどっちが高いかは未だに分かりません)二つのお花になってしまいました。
 大花束は、ずっしり重い花瓶をお借りして、共用スペースの洗面台の上に(手元におくと、大きすぎて、ひっくり返しそうで怖い)、花籠は手もとの、テレビ台に置きました。
 友人は、「これはお見舞いに」「これはお貸しします」と、私も持っていない、出たばっからしいアイルランドの本と、群ようこさんの「トラブル・クッキング」という本をプレゼントしてくれて、まんがを2冊貸してくれました。前々から約束して延び延びになってた、ちょっと壊れた「ポケットピカチュウ」も抜かりなく持ってきてくれました。
 友人は、ちびびは、次の赤ちゃんのいい守り手になってくれるよと言ってくれて、その後はもう、ここに来るまでに、車で迷いに迷った話とか、我が家の間抜けな空き巣の話とか、笑って笑って、すごく楽しかったです。
 友人のダンナさんの、「お腹、空いたよー」との台詞をきっかけに、「じゃあ、元気でねー」と帰って行きました。この二人が出会ったのは、私がきっかけだったりするので、ほんとに持ちつ持たれつ?のいい友人です。
 晃くんは、また面会時間ぎりぎりまで居てくれて、暗い中を自転車で帰って行きました。 

 木曜日。朝10時から、ちびびの世話をしてくれる業者さんがくるということで、待ってました。看護婦さんからちらしは貰っていたのですが、「東京のなんとかいうお寺の納骨堂に納める」とかなんとか書いてあって、「お持ち帰り」の料金もあるけど、まさか、このお寺に入れねば、生(?)で持って帰れとか??と少ーーーし不安に思っていたのですが、別に業者さんとは、「死の商人」なワケではなく、「こーゆー(産婦人科関係?病院関係?)関係の仕事していると、こういうことも頼まれちゃうんですよねー。これで儲けようとか、全く思ってませんから」と、穏やかな風貌のちょっとくたびれた紳士風の方でした。死亡届けは出しますが、戸籍には残りません。ただ、全てをきちんとやらなくてはなりませんので、と言って、書類関係の代行、火葬場の手配、アテのない方の納骨堂の手配、などをやっていると説明してくれました。お寺、というのは、こういうことは、やっぱり若い人が多いし、全くアテのない方、もう係わりを持ちたくない(!)方とかもいらっしゃいますから、都で管理していて、無料で永代供養してくれる所を紹介しています。とのことでした。私達は、秋田に、晃くんのお母さんが入っているお墓がありますので、そこに入れてあげたいですと言うと、もちろんアテがあるなら、そちらの方がいいですと言ってくれて、お任せすることにしました。ちょっと泣いてしまいました。
 それでは、書類に捺すハンコと、お金、という段になって、それは聞いてなくって、ごめんなさいと言うと、お金はいいけど、早く手続きしないと、翌々日が友引で火葬場が閉まってしまうので、拇印ではマズいけど、三文判ならいい、ということで、買って捺していただくことにして、じゃあ、ちょっと、婦長さんに報告をということで、ハタと、現金ないけど、キャッシュカードある、確か、タクシーで乗り付けた時に、キャッシュディスペンサーあった、と思い出して、「お金、下ろして来ます!」と言って、あ、昨日の今日だし、ウロウロすんのもあれかな、と思ったら、ちょうど主治医の美人女医さんが通りがかって、「あー、大丈夫大丈夫。行って来なさい」と言って下さって、すぐ行って、ついでに、何だか久しぶりのお外の空気を吸って来ました。
 その後、先生の許可を得て、すんごく久しぶりのシャワーを浴びました。左手に点滴の管があるので、濡れないよう、厳重に梱包(?)してもらってのシャワーだったので、非常にやりにくかったけど、それでも嬉しかったです。 夕方、病室でごそごそしていると、府中で保母をしている友達が、仕事帰りに寄ってくれて、またバカ話をして、とっても楽しかったです。晃くんも、お仕事を早めに切り上げて、寄ってくれました。確か、この日、「2000何日ぶりに、阪神首位!」とかで、阪神ファンの晃くん、この友人、は嬉しそうでした。(お母さんも嬉しそうだったね。)
 二人で、面会時間過ぎまでいてくれて、一緒に帰って行きました。 消灯後も、ゴソゴソしてたんだけど、さー寝るか、という段になって、また今夜も眠れないんじゃないか、お母さんに、「病院いるんだから、お願いすれば、すぐ薬出してくれて、ぐっすり眠れるよ!」と怒られたのを思い出して、お薬をもらって飲みました。そのお薬をくれたのが、昨日、「ビタミン剤渡す(笑)」と言ってた、一番お世話になった人だったので、「これ、ビタミン剤じゃ、ないですよねー?」と言ったら、「違うわよう」と笑ってました。けど、きっと、ビタミン剤でも、ちっとも動じずに、「違う」って言うんだろうな、それがプロだ、とか思ってました。
 で、久しぶりにゆっくり眠りました。

 金曜日。昨晩が、最後の点滴だったそうで、点滴の管を外しました。とっても嬉しかったです。 最初の説明のとき、「処置の日を0として、3日は入院してもらう」と聞いていたので、あした退院だ、何時ごろ退院出来るんだろ、さっさと帰れるんなら、今日はシャワーやめとこ、とか思って、聞いてみると、「明日、退院診察で、明後日退院」とのこと。明日出られるとばかり思っていたので、このときばかりは涙目になって、「明日じゃ、ないんですか?」と聞いてみると、「じゃあ、先生に聞いてきますね」と言ってくれて、退院診察が今日(金曜日)に前倒になりました。問題なければ、明日退院です。 結局時間はわからなかったので、シャワーを浴びに行きました。昨日、点滴管をぐるぐる巻きにされたけど、今日はそこをアルコール綿が覆ってます。これ、どーすればいいのかなーと思って聞いてみると、すんごくびっくりした顔されて、「血が止まってれば、取って構いませんよ!」と言われて、即、「びり」と剥がされました。全く、入院なれしてないから、一々のことがわかりません。 今日のシャワーは、両手が使えてより快適でした。
 なんだかそろそろ、ちびびの荼毘の時間のような気がして、「斎場、どっちの方角ですかねえ」と聞いてみると、地図見て、確認、くらいのつもりだったんだけど、「業者の方に聞いてみますねー」と問い合わせてくれました。そして、方角を教えてくれて、「ちょうど、終わるところみたいですよ」と教えてくれました。ちっちゃいので、空いている時間に執り行う、と、昨日の説明で聞いていたので、いぶかしく思っていると、晃くんが、仕事を休んで、立ち会ってくれている、とのこと。すごくびっくりして、嬉しく思いました。そして、部屋からちょうど見えない方角だったので、一人部屋の「特別室」に入れてもらって、斎場がある方の空をずっと見ながら、泣いていました。
 しばらくすると、大事そうに包みを抱えて、晃くんが来てくれました。朝起きて、会社に行く気になれず、サボろうか、と思った瞬間、サボるくらいなら、葬儀に立ちあわなきゃと突然思ったそうです。私は見ることができなかった、私達のちびびの姿を見てくれて、昨日からお世話になっている業者さんに、胎児の供養の仕方を聞いてくれて、お骨を拾って来てくれました。辛うじて、針のような大腿骨を拾うことが出来たそうです。ちびびは、顔だちこそはっきりしてなかったものの、ちゃんと「ひと」の形をしていて、ちっちゃな手には、ちゃんと指があったそうです。カワイかったと言ってくれて、すごく嬉しかった。 真っ白い包みを解いて、壺を見て、お骨を見て、また泣いてしまったけど、やれることは全部やった、やってもらったと感じました。
 その日は、午前中から、ずっと晃くんがいてくれて、明日退院、ということもあって、わくわくそわそわしていました。
 2時ごろ、派遣もとの上司がお見舞いに来てくれて、また花籠をいただいてしまいました。すごく心配してくださってて、恐縮しました。
 派遣先の上司が、「本人(私)がやめたいというまで、頑張って欲しい」と言っていたと伝えてくれて、すごくすごく嬉しかったです。
 夕方、退院診察があって、内診と、子宮の掃除をちょっとだけしました。問題ないということで、明日退院が決まりました。
 消灯後、電話したりしてウロウロしていて、詰め所で、看護婦さんたちが入院中の赤ちゃんの枕元に飾る、鶴を折っているのに気が付きました。私も折るから、折り紙ちょーだい。一個、私の赤ちゃんにちょーだいとお願いして、折り紙をもらって、病室で折り折りしてました。後で、看護婦さんが、「金色のがあったから、赤ちゃんに」ってわざわざ来てくれて、お骨の前に供えてくれました。
 そろそろ寝ようか、というとき、また眠れないかも、と思って、「お薬ください〜〜今日効き過ぎたので、半分でもいいです〜〜〜」とお願いして、お薬をもらって、またぐっすり寝ました。

 土曜日。今日は何をすればいいんでしょう?との問いに、「別になにもないから、朝ごはん食べて、片付け終わったら、退院してもいいわよー」と答えられてしまいました。昨日あらかかた片付けたのをカバンに詰め込んで、着替えもして、いつでも来い状態にしているのに、晃くんがなかなか来てくれなくて、だらだらしていて、そうだ、ご挨拶しないと、と思って、同室の方に声をかけました。この方は、前回の帝王切開の後が出血していて、ちょっと心配、ということで、私と同じような週数で入院してあって、本人は元気なのに、退院できずにいる、という、なかなか中途半端で大変な状況でした。お子さんもいらっしゃるので、さっさと帰りたいというようなことが、カーテン越しにわかってました。やっぱり、出産前後の人たちは、私のことが異分子に感じられているような気がして、あんまりお話とかできずにいたのだけど、この方は、いろいろとお世話になったり、したり(?)して、ちょっと親しくなっていたのです。 その辺のことを話して、「ありがとうございました」と言うと、すごくびっくりしたように、「こちらこそ」と言ってくれて、ずっとおしゃべりしてました。すんごい綺麗な人なのに、おっきなお子さんがいて、いったい私より年上なんだろうか、下なんだろうかと興味津々で聞いてみると、同級生で半年年上とのこと。私なんかより、ずっともっと人生経験豊富みたいで、今までの友達にはいなかったタイプで、すっかり親しくなってしまいました。
 昼食が出る時間になってもお迎えが来なくて、「お昼、食べる〜?」とか聞かれちゃって、「いいえ!帰ります!」とか言ってると、晃くんが来てくれました。
 遅いよーん、いつでも帰れるように準備してたのにーとか文句を言って、全部荷物を持ってもらって、私はお骨だけ持って、退院しました。

 火曜日に入院して、たかだか4泊5日だったけど、こうやって書いてみると、旅行するより濃いというか、いろいろ勉強になる日々でした。弟は医者で、同じ都立病院の看護婦さんである友達もいるけど、いまいちどんな顔して働いているのか、ピンと来ずにいました。今は、ちょっとだけ想像できるような気がします。後光が差して見えるような気がします。アタマのヨシアシは別次元として、(それはそれで尊敬に値しますが)本当に大変なお仕事だなあ、とかつくづく思いました。ありがたいことです。
 でも、その看護婦さんたちは、私が病室でまでメールやら書いているのを見て、「すごいですねーー!」とか言うんです。こっちがびっくりです。

 帰ってきて、荒れ放題の家の中で、やっぱり家はいいなあと思いながら、家事はとりあえず放棄して、退院告知をあちこちにしています。
 日曜日、月曜日と、友達がごはんを作りに来てくれました。めちゃくちゃ待遇いいです。 

水曜日、退院後の診察に行きました。9時台の予約で、結局診ていただいたのは10時半で、待たされてしまったけど、ゆっくり診ていただいて、多分最後だと思う、子宮のお掃除をして、「これはいつからやっていいかリスト」すべて、すぐにでもやっていいとお墨付きをいただき、事実上の「全快宣言」です。
 もう、大丈夫なのだけど、延々と待たされたり、お金払ったり、お薬もらったりでまた待たされたり、で、晃くんについてきてもらってて、本当によかったです。
 府中の町で、ゆっくりと昼食を取って、晃くんは仕事にでかけました。私は、自由に出歩ける幸せを感じながら、しばらくぷらぷらして、家に帰りました。

 私達の赤ちゃんに、どこにも記録は残らないけど、「要(かなめ)」と命名したい、と晃くんに言って、「今、どうして反対できましょう」と言われてしまって、そう決定しました。
 これから、何人赤ちゃんができるかわからないけど、いつまでたっても、私達家族の「かなめ」になってくれると信じています。
 胎児の供養、に決まった形はなく、「包みの一番上は縦結びに」「ミルクを供えてやるといい」「49日に拘らず、帰れる時にお墓に入れてあげるといい」などと、教えてもらったことを思い出しながら、ままごとのようにミルクをあげ、周りに縫いぐるみをならべてあげてます。
 悲しみは、いつになっても消えないけれど、前向きにいきていくこと。これを、要は一番喜んでくれると信じて、頑張っていきたいと思っています。

 要は、私達の守りに、アイルランドで妖精に、彼のくにで麒麟になったと信じています。
 いつまでも、一緒だと。

 今回のことで、私には頼りになる夫と、誰よりも心配してくれる家族、全国、いえ、地球の裏側からも心配してくれる友達、真摯に接してくれる医療関係者の方々がいるとあらためてわかりました。 こんなことでもないと、空気のように感じて、感謝も忘れている人たち。ほんとうにありがたく思っています。            

1999年6月17日 府中の自宅にて 小玉ゆうこ 記す


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