■トーマス・アルバ・エジソン

 20世紀を発明した人といえばTHOMAS ALVA EDISON(トーマス・アルバ・エジソン、1847〜1931)ですが、生前、最大の発明は何かとの質問に、彼は白熱電球と電気システムであると答えています。その彼をもって最大の発明と言わしめた白熱電球の実用化に八幡市の竹が貢献しました。
 エジソンは、1847年2月11日、アメリカ・オハイオ州ミラン村で生まれました。幼いころから人一倍好奇心が旺盛で、”質問”を連発し、大人を困らせたようです。
 1876年、エジソンはニユージャージー州メンロパークに研究所を建て、1878年に「エジソン電灯会社」を設立。白熱電球の研究に取り組みました。そして1879年10月21日、綿糸を炭素フイラメントにした白熱電灯が45時間も輝き、人々の顔をはっきりと照らしたのです。エジソン32歳でした。

世界にフィラメントの材料を探し求める
しかし、実用化のためには600時間ぐらい灯し続ける必要があると考えていたエジソンは、フイラメントの改良に取り組みました。毎日、毎日、全世界から集められた6000種類にも及ぶいろんな材料を炭にして実験をしていたエジソンですが、ある日、机の上にあったシュロの扇子を見つけました。その竹をフイラメントに使ってみると、なんと200時間も灯ったのです。そして、当時の金額で10万ドルをかけ、全世界へ材料を探すため20人の探検家を派遣したのです。
電球
白熱電球に八幡の竹
1880年、エジソンの助手のウイリアム・H・ムーアーが日本に来日。時の首相伊藤博文、山県外務大臣と会い、「竹なら京都へ」とのアドバイスをします。京都にやってきたムーアは、初代京都府知事の槙村正直から「竹なら八幡か嵯峨野がいい」といわれます。これらの地域は、鉄分が豊かな土質のもと、柔軟で堅固な竹を産していたからです。そして、八幡男山付近の竹が約2450時間も灯り、最もよい成績であることを発見したのです。

1894年まで竹を輸出
エジソンは、このあと、肥料の施していない8年から10年の真竹で、10月から12月に収穫し、根から1メートル上の12節で外皮を1センチ幅にして100本に束ねて納めるようにと、細かい指示を出しています。こうして、八幡の竹は1894年までエジソン電灯会社に輸出され、何百万個の馬蹄型フィラメントの白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けたのです。

エジソン生誕地と友好盟約
八幡市は、1986年8月12日、エジソンが生まれたアメリカ・オハイオ州ミラン村と友好都市の盟約を結び、絵画交流などの国際交流をしています。また、エジソン生誕の家を八幡市に再現する運動も生まれています。


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