第2章 労働環境の背景・要因

はじめに
 第1章では、低賃金、フリーター就職の増大、離職率の高さ、労働の過密さの現状を明らかにした。では、どうしてそのような状況に置かれるのか。要因と背景について入所施設を中心に考察する。
特に、配置基準を生み出した制度・歴史的なこと。福祉労働の社会的文脈を明らかにする。その中で、福祉労働は誰でも出来る仕事として位置づけられていることなどを論じていく。

第1節. 施設経営を巡る状況と背景
はじめに
 第1章で、配置基準の現状について述べているが、本節では、その歴史的・制度的なものを概説する。次に、配置基準を設定する制度や財源について論じていく。

第1項 配置基準について
 福祉施設はもともと対象者の生活保障を安上がりで効率的なものとして機能してきた1。例えば、職員配置基準の変遷が物語っている。廣末(2002,P.121)の特別養護老人ホームの配置基準を例に紹介する。

 核心は昭和39年頃、50人定員で直接処遇員が6人で夜勤・宿直をこなしていたことにある。それを考えるといかに昔から劣等な環境に利用者も職員もおかれていたかが伺える。とはいえ、12人から23人に増えたことで利用者へのケアが充実していったのは確かである。しかし、昨今は、労働の柔軟化・効率化の名の下で、著しい労働環境の悪化がなされている。
 例えば、障害者施設の職員配置基準は、支援費制度導入により、専任換算方式から常勤換算方式に切り替わっている。専任換算方式とは、正職員のみが配置基準の対象であった。そのため、パートや臨時は補助労働として見なし、施設ケアの充実のため施設が自助努力で雇っていた(産休代替など)。しかし、常勤換算方式はパートや臨時がそこで規定の時間を働いていれば、専任と同等の基準を満たしていると見なす方式である。その結果、「今年開所したある施設は、施設長と2~3人の正職員以外は非常勤とパート職員でまかなっている」(吉岡〔2003,P.23〕)と。つまり常勤換算方式は、「正規職員のパート労働への置き換え」(伊藤〔2003,P.135〕)を容易にさせることが出来たといえる。

第2項 財源と制度変更について
財源に関しても福祉施設を巡る環境は悪化している。各制度との関連で論じると以下のとおりである。
 措置制度は、供給主体(経営側)に国や自治体が規模に応じて公的保障を財源によってなした。措置制度は、サービス量の上限が無く、自由裁量度は高かった(浅井〔2002〕)。しかし、独立採算制や直接的な介護時間のみに限定した報酬の意図は、施設と利用者の私的な契約の下で行われる限定的なサービス提供を意味する。あるいは、施設に裁量権を与え、自助努力をしていくことを意味する。それは、国や自治体の役割はサービスに応じた財源の提供のみに公的責任を縮小させたのである。

第2節. 社会福祉労働の背後
はじめに
 前節で。財源をめぐる縮小や採算方法の変化などを述べた。そこには、契約に基づく利用者との直接的な取引の上でサービスを行うという政策の転換がある。では、なぜ、それが非正規職員を増大させるのか。これまでの状況を踏まえ若干の整理と考察を行う。

第1項 制度上の背景について
 制度上、福祉労働の流動化はどのように行われたのか。そのことについて、列記すれば以下の通りとなる。

第2項 制度上の背景への考察
 1〜3まで一連の流れでどの要素も複雑に絡み合っている。しかし、あえて単純化して福祉施設を取り巻く状況を考察すると以下のように要約される。
 総合して考えると、民営化・営利化・商品化の流れにあって、労働者の主体性は喪失し、尊厳がないがしろにされる。また、利用者もお客様として大事にされる一方、自己責任、自己選択の名の下、以前よりも限定された関係性のもとでサービスが提供されることを意味する。つまり、現場の労働の質は低下したのである。

第3節. 福祉労働の特質
はじめに
 これまで見たように、現在政策的に誘導され現場の質は低下の傾向にあることが明らかになった。では、そもそも福祉労働は社会的にどのような位置づけがなされていたのかを考察する。つまり、いったい福祉「労働」とは何かである。このことについて様々な切り口があるが、女性労働、感情労働、社会的位置について論じていく。

第1項 女性労働としての福祉
 ケアの従事者は女性に担わされている9。男女共同参画など女性差別が職業的になくなりつつあるという言説は福祉現場では通用しない。それは、いまだに「介護・保育・家事労働は「女性向きの仕事」として女性を介護の担い手としてきたことが、また献身的・犠牲的・無償的なものとして女性に割り当てられてきた「ケアの役割」が改めて問われている」(杉本〔2001,P.16〕)。いわゆるシャドーワーク(アンペイドワーク)としての側面が強調されている。
 このことについて、渋谷(2003,PP.27-28)は次で述べる感情労働との関係で、「家族介護の場合には「家族への無償の愛」として理解されてきた精神的介護の側面は、有償介護労働の場合、しばしば「ボランティア精神」や「福祉の心」へと翻訳され、それにより介護労働としての側面が、誰でも可能な非専門的労働−家事労働の延長−として不可視化されている」と述べる。
 よって、福祉労働は、家事労働として誰でも気軽にできると思われる。つまりこれらの言説によって、労働としてのケアは社会的評価に低いものになる。介護・保育・家事労働の家族神話・母性神話は今だ根強い10
 その結果、これらの神話は非専門性というレッテルのもと、ケアを生業にする福祉労働の低賃金を正当化する機能を果たしている。そこにはいわゆるジェンダー・バイヤス(性差の制約・あるいは社会の女性蔑視)としての問題が根底にある。
 つまり、家族がこれまで無償で行ってきたのだから、福祉労働は安くて当然である。あるいは、家族が行えてきたのだから、誰でも行える簡単な労働であると。

第2項 感情労働としての福祉労働
 福祉労働は自己の感情をコントロールし、常に介護される者に対しこまやかな配慮を示すことが要求される。こうした、接客などに見られる、笑顔や言葉がけなどの含めた労働を強いるものを感情労働と呼ぶ。福祉労働の特徴は、利用者(客)への感情管理が長期化することである。そして、それがゆえに利用者との関係性において困難性や苦境が長期化しやすい。しかし、介護する相手との人間関係がうまくいった場合、しばしばこの「苦境」はポジティブなものとして経験できることが強調される。つまり、「「苦境」は〈コスト〉としてではなく、むしろ仕事に付随する〈特典〉と解釈される」(渋谷〔2003,P.30〕)。言い換えると、福祉の仕事は利用者から感謝されたりするやりがいのある仕事である。だから賃金以上の価値がある。よって、低賃金でもやりがいのある仕事であるから満足すべきだと。
 さらに感情労働の持つ問題点は、産業労働者は一般にノルマや業績など目に見える労働の範囲があり、それをこなすという明確性がある。しかし、「介護労働者や感情労働に従事する者は、介護される側〈顧客〉との長期的、短期的な信頼関係にコミットしているがゆえに、十全にその感情労働を商品化させることが出来ない」(渋谷〔2003,P.30〕)。どの程度労働を行えばよいのかという範囲の喪失を起こしやすい。そのため、顧客に対する〈感情〉や〈配慮〉を優先させるか、それとも労働の〈商品化〉を優先させるのかを決めかねる困難なポジションに置かれている。つまり、「自分の労働を自分の感情から切り離して、それをまるで「商品」のように扱うことが出来なくなる」(鷲田〔2001,P.207〕)
 例えば、利用者からの依頼を常に受容することが慣行化されると、それ自体が労働強化となる。本来利用者ができることまでついつい手助けしてしまう。あるいは、本来行う必要のない雑用まで依頼されるといった従属化11がなされる。かといって、利用者の健康や質を尊重するならば、単にこれらの要求を切り捨てることも出来ない。その結果、利用者との距離の取り方自体が分からなくなる。
 利用者との距離の取り方を失敗すると、「仕事に自分を同一しすぎて燃え尽き、感情のひどい消耗や麻痺に陥ったり、そういう役割として身に付いた自分の演技を、不誠実なもの、偽善的なものとして独りで引き受けて、自己についての否定感情にさいなまれたりする」(鷲田〔2001,P.208〕)。
 さらに、専門的関わりのあり方などは、援助者の裁量に任されているのも福祉職の特徴である(松川〔2005〕)。しかし、同じような業務をこなしても、感情的な関係性でまったく違った評価が下される。そして、それは援助者の力量として評価されることが多い。
 福祉労働は、こうした主観的あるいは感情的なことがかなり大きな割合を占める。その結果、そもそもの労働条件(範囲、時間、内容など)を巡って経営者と論理的に対決する要因が削がれている。

第3項 福祉労働の社会的位置づけ
 労働条件や賃金の低さなど既に述べてきたように、市場主義社会における社会福祉の地位(価値)は低い。特に施設福祉の対象者は、社会的に排除され、低位に置かれる存在である。
 例えば、障害者は出生前に簡単で安い費用で排除されやすい存在である。そこには、内なる優生思想が根付いている。この障害者差別は最近の構造物などではなくて、「人類誕生以来の原罪」(今泉〔2003,P.111〕)である。現に、自分がもし障害児を生むことが分かったらどうするかという問いは、社会福祉を学ぶ学生にとっても賛否の分かれるものとなっている(原田〔1999〕:竹之内〔2000〕)。それだけ、明確に障害者は生まれて当然であると主張できない根強い社会的な偏見や差別がある。さらに、成人になっても能力主義の観点から「労働などによって社会に貢献することは数少なく、負担ばかりかける無用な存在」(竹内〔1993,P.35〕)として捉えられている。社会は、防衛的な意味で精神障害者を病院へ隔離してきたのと同様に、他の障害者も迷惑をかけないでひっそりと最低の生活保障で生きていきなさいという態度であった。
 高齢者も資本社会の文脈で捉えると障害者と同様である。だれでも長く生きれば高齢者になる。しかし、問題は高齢者になることによる様々な喪失や排除の論理が働いていることである。退職による社会的な地位の喪失や動作が鈍くなる身体的な喪失、病気や痴呆による障害者への転落などである。しかし結局、高齢者問題を自分のこととしてだれも具体的に考えてこなかったし、考えようともしなかった。また、高齢者にさしかかろうとしている人ですら、「高齢者介護問題については国や政府の問題であり、自分たちが積極的に関わる問題ではないと思ってこなかった」(森内〔2000,P.164〕)。
共通して言えることは、誰しも障害者になるリスクや年を取ることを考えてこなかった。そうなった人への社会的な問題を置き去りにしてきた。専ら、資本から退場した存在、あるいは無用なものとして処理されてきた。
 こうした対象者に関わる労働者に対して、「対象者は社会的弱者でお金がない人たちだから、あなた達(従事者)にたくさん給与を払うのはおかしい」という理由で、低賃金を正当化される。あるいは「社会福祉を職業として選択するには、経済的社会的強者を目標とせず、立身出世を望まず、最初から弱さと共に歩む決意を心の奥に秘めることになる。強さを目指すことが本能的な人間性ならば、それは、どこかに辛さ、悔しさを内にはらみ、抑制が求められる」(阿部〔2003,P.17〕)。阿部は、福祉職を医師や弁護士、牧師などと同列に扱っている。しかし現在、福祉労働はそのような職業と同列に社会的な有用性として扱われていない。
 蛇足であるが、阿倍野言説に反論を試みれば、確かに福祉業界は、阿部のいう立身出世や経済的強者を目標としたものではないが、闘争や競争は存在する。例えば、障害者運動や人権問題などの社会運動などは、行政や国家への権利主張としての闘争であった。また、善し悪しは別に、資格制度、サービス向上のための個人・施設の切磋琢磨などは競争として位置づけても良い。競争なきところに成長はないし、闘争なしに人権や権利の保障も勝ち取れない。問題は、競争や闘争そのものを否定するのではなく、「どのような種類の競争や闘争を私たちは批判し、なくしていかなければならないのか?」(菅野〔2003,P.187〕)である。つまり、差別を容認している権力、見過ごされている権利などを現実の問題として考え直さないといけない。そう考えたとき、障害者、老人など、根源的に社会的弱者になりやすい人たちを将来の自分のこととして捉え直さなかったつけは大きい。
 最後に、これも見過ごされている問題であるが、それまで利用者とともに歩んできた福祉労働者には、偉いねぇと一般に誉める傾向がある。しかし、施設入所者・利用者とは社会的にはつきあいたくないという一般的な感覚の断絶がある12。路上生活者、精神障害者など、町で見かけても目があってはいけないかのような振る舞いをする。それは、福祉職が扱う社会的カテゴリーが一般労働と断絶があることを意味する。

第4節 考察
 このように福祉労働を巡るさまざまな現状や言説から導き出されるのは、正当に労働として価値付けられていない。心の重要性は強調されているが、内実は家事労働と同義の意味で低位におかれている。
 さらに、福祉はいまだに社会的な無関心や資本社会における無用な存在として対象者を扱っている。いくら、今や福祉の対象者は一部の人ではなく、普遍化した。あるいは、利用者はよりよい生き方を選ぶべきだといわれても、現実はそうでないことが明らかである。
 こうしたことを背景に、より安上がりの労働として政策的に誘導されている。配置基準や昨今の財源の減少はそれを物語っている。それは職業人としての自由裁量度や創造性をそぎ、より労働の価値を低めている。
 福祉労働者自身もリストラや労働の価値の低下がモチベーションを落とし、ただ使われるままに目の前の業務をこなすことに専念する。それは、労働者としての誇りや喜びを感じ得なくなっている。


1 藤井(1998,P.98)では、「精神障害者が、医療や生活(住居、食事など)の保障のサー ビスを受けるためには、医療機関に入所するのが最も確実でかつ安価な手段であった。障害者が住み慣れた地域で生活するためには、地域での医療サービスを受ける費用だけではなく、住居・食事のための費用を新たに負担する必要が生ずることになる」と。医療機関を福祉施設に読み替えるとどの障害者にも言えることである。また、支援費法案での在宅福祉や地域福祉の失敗はただ単に施設費の財源を在宅福祉費に回せばよいという安易な発想による。個別化・多様化・自立支援のための社会資源や人員は、施設の配置基準のようにはいかないであろう。
2 一例に過ぎないが、秋田県の障害福祉課の予算構成を見ると、知的障害に限っても平成13年の予算額がおおよそ55億であったが、16年度では30億に減少。決算書を見ると、依然あった事業団への補正が削減されている。ちなみに、更生施設の入所者数はほぼ横ばいであるが、授産施設は微増していた。このことから、措置費の減額は目に見える形で行われていることが分かる。
3 塩見(2003,P.45)では、「現在の財政支出の枠組みと上限を前提としていることから、居宅支援施策の原資を同じ知的障害者福祉分野から捻出する、スクラップアンドビルド方式をとっていることである。中略。その前提として@入所施設間連予算がそのままそっくりグループホームなどの地域福祉施策に充当されること、A入所施設解体により新たに作り出される地域施策への需要への対応も含め、当面施設解体論で浮いた予算を充当することで対応が可能であること。中略。しかし、こうした前提が何によって担保されるか明らかにされていない」とする。
4 2003年に施行した支援費法案も1年半で自立支援法案が提出されていること自体、いかに失敗したのかがうかがえる。まさに財源の裏付けの無かった理念だけの法律であったことが明らかである。さらにいえば、障害者施策の財政破綻の解決を利用者負担に求め、支援費制度の失政を総括せずに自立支援法を提出する状況は公的な責任がどこにあるのか疑問である(池末〔2005〕小池〔2005〕)。
5 詳細については、二見(2003)参照。居宅介護業者の指定基準も民間化の一要因になっている。あるいは、施設訓練など支援費における公立施設の減額など、公立への締め付けは大きくなっている。
6 関川(2005)あるいは菊池(2000)参照。いわゆる社会福祉会計基準であり、その特徴は、施設単位の会計から法人単位の会計に転換し、さらには損益計算や減価償却の考え方を取り入れた。これは明らかに利益追求を目指す企業をモデルにし、効率化を図ったものであるといえる。
7 トータルな意味では、宮島(2004)参照。最終的には国の借金を返すためにどうするかということである。社会福祉行政に絞っては、椋野(2004)参照。もっとも福祉に影響があったのは「総合規制改革会議」での官が作った市場の規制改革を重点的課題としてあげられていることを述べている。
8 伊藤(2003,PP.140-143)、塩見(2003)参照。当然のことながら、障害者への受け皿がないのに、施設を解体しても何の問題の解決にならないことが指摘されている。
9 言うまでもなく女性が介護する割合が高いが、森村(2000,P.167)は「平成11年度版高齢社会白書」世帯で高齢者を介護する内、妻31.1%、長男の妻27.6%、長女15.5%、夫5.0%、長女以外の娘4.5%、長男4.4%、長男以外の息子0.3%という割合を引き合いにし、「介護者のほとんどは女性である。中略。こうしたことから、「介護は女性の仕事」という社会通念が生まれる。というよりも、私たちの社会構造が女性を「介護の担い手」としてしか存在させていないといった方が適切だろう」と述べている。
10 このことと同義の意味で、施設入所をためらう家族の葛藤や周りからのプレッシャーがある(麦倉〔2004〕、(加藤〔2000〕)。入所に至までの葛藤を施設に入れることは生活を切り離すことであると、問題化する(浅原〔2000〕)。また、家族神話は脱施設の根拠となっていることと深く関係がある。昨今の居宅支援の拡大志向に見られるように、障害者が地域で家族と一緒に暮らすのが良いという一見もっともな意見であるが、障害者のライフコースを念頭に置いた総合的な施策にはなっていない(田村〔2004〕)。支援費制度が、家族のニーズに対応しきれなくて支援婦制度が破綻したのは何よりの証拠である。さらに、昨今は利用者負担を求めているが、それはとりもなおさず、家族への介護負担が増すことを意味する。
11 いわゆるメイド・サーバンド症候群(U.ローマン他〔2003〕)である。その特徴は、何でもしてあげることで給料を得ていると思いこんでいる介護職。動き回ることが仕事、じっとしていることは悪いことと思いこんでいる介護職。業務をこなすことに追われる業務中心介護と述べている。その人のお手伝いさんになって、ソーシャルケアサービスのあり方との乖離に悩む人という意味でもある。
12 湯澤(2002,P.269)において、この偉いねぇと言う言葉には社会的な文脈があり、「知らなくても生きていけるのに」という関わりの断絶、社会福祉そのものが暗い、きつい、汚いというイメージから来る、マイノリティへのまなざし。障害や路上生活者を見ないようにすることによる社会的な防衛本能の喚起など様々な文脈で語られると分析している。

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