Greatest Drivers
第1回からかなり間が開いてしまいました(なかなか上手く書けなくて・・・)。
第1回がジェームス・ハントなら、第2回はやっぱりこの人です。


第2回 Niki Lauda(Austria)

 F1GP優勝25回、ワールド・チャンピオン3回、70年代〜80年代前半を代表するチャンピオンと言えば、ニキ・ラウダであろう。
 ラウダと言えば、あの顔中の痛々しい火傷跡。1976年ドイツGPでのクラッシュ、炎上で受けたものである。ラウダはその前年フェラーリで初のチャンピオンを獲得し、この年も9戦中5勝と圧倒的強さを見せていた。この年の第10戦ドイツGPはホッケンハイムではなく、ニュルブルクリンクサーキットで行われた。当時のニュルブルクリンクは現在GPが行われているコースとはまったく別物の、1周22Kmもの超ロングコースが使用されていた(最近ではNSXやGT-Rの熟成テストに使用されたコース)。事故は単独で、確かサスペンションのトラブルか何か(原因は不明とされている)でマシンが急にコーナの外側に向きを変え、そのままフェンスに激突、炎上してしまったと記憶している。その他のドライバー達の必死の救助活動により救出されたラウダは、運び込まれた病院でもはじめは重体と、絶望的な発表がなされていた。しかしラウダの不屈の精神は奇跡を呼び、わずか5日で立ち上がるまでに回復、2戦は休んだものの第13戦イタリアGPでカムバックして4位に入り、「不死鳥ラウダ」の異名を取る。
 だがやはり事故の影響か、その後のレースでは結果を出ぜず、結局最終戦の「F1イン・ジャパン」ではあまりに激しい雨に危険だという理由で数周で棄権、ハントに逆転でチャンピオンを奪われる。
 しかし、翌年再びチャンピオンを獲得しフェラーリの黄金時代を築く。ただ、その"堅実"な走りや、F1インジャパンで棄権した行為が、"情熱"を求めるエンツォ・フェラーリの不評を買い、それがチームとの溝となってしまう。そのためチャンピオンを決めると、残り2戦を残して、フェラーリを辞めてしまうであった。
 翌78年からはブラバムに移籍し、決して戦闘力が高いとは言えないマシンで2勝を挙げるが、翌79年はほとんどリタイア続きで4ポイントしか挙げられず、この年で引退、チャーター便の航空会社「LAUDA AIR」を設立し、その経営に専念する。数年前に同社の航空機がタイのあたりで墜落した際にニュースで、元F1ドライバーである・・・が現地に入ったと紹介されていた。
 1981年マクラーレンでF1に復帰。そして84年には3度目のワールド・チャンピオンを獲得する。だが、翌85年はチームメートの若手アラン・プロストにまったく歯が立たず、この年で引退する(プロストがチャンピオン獲得)。
 1992年からは"黄金期再び!"の願いの元、フェラーリのアドバイザーとして、ピットでモニターを見つめる姿が良くTVに映し出された。今年からは現場から離れ、広報へ回ったようだが先日のヨーロッパGPではモンテローザ・フェラーリ社長と共に姿を見せていた。
 ラウダの走りのスタイルを形容すると上記のように、"堅実"、"クレバー"であろう。見た目の派手さはないが、着実かつ安定した走りで常に完走をめざしポイントを稼ぐ。特にあの大事故以降は特にそのスタイルが確立されていった。やはり命の尊さを知っているがための走りなのであろうか。やがてこのスタイルは84〜85年マクラーレンでのチームメイト、アラン・プロストに受け継がれ、プロストは80年代〜90年代初めを代表するチャンピオンへと成長するのである。

 ニキ・ラウダについては「Lauda Air」のホームページにも紹介が掲載されてます。ぜひご覧ください。

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