団報「ビカボシロ」'97春号

ビーバー・カブ・ボーイ・シニア・ローバー
ボーイスカウト渋谷5団
http://www.asahi-net.or.jp/~UP2J-KNST/bs.htm
1997.05.06発行
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渋谷5団のホームページ

23回日米フレンドシップ・パトローリー

山本剛志

1997年4月4日〜6日、この日にフレンドシップ・パトローリーは開催されました。フレンドシップ・パトローリーとは、アメリカのボーイスカウトと一緒にキャンプをすることで、友情を深めるといったような意味があります。場所は、神奈川県相模原市、米陸軍相模原補給廠。吉沢隊長率いるイーグル班は、5団の倉持、小林、山崎、山本と6団との混成、コブラ班は、安海隊長率いる10団、14団の混成で構成されています。

初日にまず、僕らはアメリカのボーイスカウトと一緒に食べる、食事の材料を買い出しに行きました。4人いたのですが、二人ずつに別れ、片方(倉持、山崎)は、材料を買いに、もう片方(小林、山本)は、昼食を買いに行きました。

買い出しが済んで、昼食をとった後、13:30に渋谷駅で、他の団と会い荷物を車に積みました。隊長が、荷物を車に積んでくれました。しかし私達は、電車で行きました。途中で、電車に乗るのがぎりぎりなところがありましたが、すんなりと目的地に行くことができました。

私達は、米軍の基地でキャンプをすることになっていました。私は、初めて基地という所に入ったのですが、これがまたとんでもなく広いということが分かりました。なんと門を入ってからキャンプ地に行くまでに、2、3kmもありました。隊長が荷物を車で運んでくれてなかったら、行くだけでへとへとになるところでした。

キャンプ地についてからすぐテントを立てました。テント張りは、割とスムーズにでき、他の団のも手伝いました。テントを張り終えると、隊長2人に呼ばれ、サイト作りを始めました。

サイト作りを終え、一息ついた後、食事作りを始めました。その日の夕食は、[ウィンナーソーセージの湯でもの、ご飯、焼き肉、焼き鳥]と、ゴージャスなメニューでした。ちなみに、焼き鳥は、まだ生だったり、塩をかけすぎたりして、余りうまくできたとは、いえませんでした。

次の朝、起きたらすぐ、ご飯を食べ、ビッグイベントの『友情10kmリレー』に参加しました。班が別れていて、イーグル班(5団、6団)とコブラ班(10団、14団)で別れました。

結果は、何と、イーグル班が、総合6位(約100位中)をとりました。5位まで入賞だったのでおしくも表彰されませんでしたが、とてもいい成績をとりました。

10kmリレーが終わると、すぐ、開会式が始まりました。なぜか、開会式は、2日目でした。開会式は、軍の方から、音楽団が、日米の両方の国歌を演奏しました。とてもうまく、ずれがなかったのでさすが、本場は違うなーと思いました。

開会式が終わった後に、見学の人たちが来ました。私たちは、軍の人たちから、お昼まで救急法をならいました。喉に詰まったものをとるやり方、刺し傷、焼傷、切り傷、といった偽物の傷でも、ものすごいリアルで、本当にけがした傷かと思われるほど凄いのばかりでした。さすが、プロ!

昼食(軍から補給されたホットドッグ、ジュース)を食べた後、今度はロープのやり方を習いました。やよい結び、本結び、ねじり結び、引きとけ結び、ひとえつぎ、巻き結びなどを習いました。その後、角縛り、すじかいなどを使って、三角形にした六角棒に人を乗せて、一定の距離まで行って帰ってくるという、速さを競うゲームをやりました。

ロープワークの次は、墜落した飛行機に乗っていた人が、救助を求めるやり方を教えてもらいました。コンパスを使って、人が見える位置に行き、目立つ風呂敷で飛行機に、気づいてもらうというのをやりました。また、鏡を使って気づいてもらうものもやりました。

オリエンテーションが全て終わった後、今度は、アメリカの、ボーイスカウトたちとの夕食会というのをやりました。メニューは、豚汁、トマトピューレの鍋、豆腐チゲ、すき焼き、焼き鳥、ソーセージなど、おいしい物のオンパレードでした。

夕食会が終わった後、キャンプファイヤーだったのですが、あいにくの雨だったので、基地内にある工場みたいなところで、話とスタンツだけで終わってしまいました。

キャンプファイヤーが終わった後、マシュマロで語り合い、テントで寝ました。

3日目の朝、6時になると同時に、テントを片づけました。片づけた後朝食をとって、キリスト教信者だけが制服に着替えて参礼に行きました。キリスト教の人の次は、仏教信者が行きました。仏教の人が帰ってきたときには、かたづけが完了していました。この後すぐに、閉会式が始まりました。

閉会式が終わった後、車に荷物を積んでもらい、門を出ました。10団、14団の人とは、途中で別れ、6団の人とも渋谷駅で別れました。

別れた後私たちは、教会に戻り、乾燥作業を終了してから帰りました。

このキャンプで、いつもとは、まったく違う体験ができました。アメリカ軍基地を全部ではないけれど見ることができ、又、アメリカのボーイスカウトとふれあうことができ、英語の必要性を実感して、英語を勉強しようと思いました。参加できてとても良い体験になりました。

PS・・・・・・・・Thank you for American Boy Scouts!

50kmハイク・・11月16日(土)から17日(日)

実行委員長:近藤直義

『千里の道も一歩から』の人々は、巧いことを言ったものだ!

96年11月、吹き荒れる冷たく凍てつく風の中、我々東京渋谷5団シニア隊の勇者5名は真夜中の東武動物公園に 53.5km先の渋谷を目指して集結した。これから一晩で踏破してやろーと言うのだ。挑戦者は現役選手から登山家しまいには芸術家までという少数精鋭のラインナップでよ〜いドン!リーダーや負傷ハヤブサスカウトのサポートのもとずっと走りっぱなしの人から、キョロキョロ周りを見ながら歩を進める人、凄いのになると睡眠をとりながら歩く人など、プロセスは様々であったが、皆、楽しく、疲労と戦った。日の出を、ゴールで清々しく迎えた人、後ちょっとって所で迎えた人、あとまだ半分!の人など、同じ日の出がこうも情況によって感じ方が違うのか!と皆、ゴール後口をそろえた。ゴールのタイム差は、あったが全員が踏破。辛かったが、ゴール後の笑顔と達成感、それから頑張った事実は、一生僕らの宝物。

 

『次なる目標にホップ、ステップ、ジャンプ!!』

ワカサギを釣りに行こう‘97

神田聡

ワカサギの穴釣りとは、厳寒期、結氷した氷の上で穴から出ている釣り糸に神経を集中し、釣り上げた銀色のお魚を料理するという、日本古来からのゲームフィッシングである。

そして今回で2度目になる、はるな湖におけるワカサギ釣りへの挑戦であったが全員ボウズ(一匹も釣れないこと)に終わった。悔しかった。

今年は、はるな湖全体が釣れないという情報は入っていたが、去年と違って皆に釣り方も教え、自分自身も勉強してきたので、どちらかというと、「全員釣れればいいな」などと思っていた。

しかし、実際に行ってみると湖は一部氷が張っていなく、去年には夜明け前からいたたくさんの釣り人もほとんど居ない。「チョットやばいな」と思ったが、「まぁ一匹はね」と思いつつ準備を終えて釣り始めた。

一時間後、全ての参加者から「釣る気」がなくなっっていた。すでに朝食は差し入れのキムチ鍋に決定し、みんながみんな「この下にワカサギは居ない」と信じかけてしまっていた。

そんなこんなで朝食を済ませ、予定ではもう一つのメインイベントである氷上ゴーカートの時間になってしまったので、リーダーにはもう少し粘ってもらってスカウトは氷上ゴーカートをしに行った(軟弱)。これは楽しかった。氷上なのですぐにスピンし、簡単にドリフトする。はるな湖に来たら一度はやるべきものだと思う。

そしてその間のリーダーが釣れなかったのは当然といえば当然だった。

そのままそこをたたんで帰りに温泉に寄って、サッサと帰ってしまった。ボーイ隊などの方々に大分馬鹿にされたのは言うまでもない。

しかし、来年度中には必ず再挑戦するのでその時には銀色の魚体にお目にかかれるはずだ。 いや、本当に。

100kmハイク

<96年度のコース>

東京の地図を出して、以下のコースを確認してみてください。

東京農大一高(世田谷区桜三丁目)−(世田谷通りを西へ)−(環八通りを北へ)−(井の頭通りを西へ)−吉祥寺−(井の頭通りを西へ)−境浄水場−(武蔵境通りを北へ)−田無(第一チェックポイント)−(目白通りを東へ)−谷原−(笹目通りを北へ)−高島平(第二チェックポイント)−(高島通りを東へ)−志村坂下−(中山道を南東へ)−仲宿−(白山通り)−染井霊園先を左折−本郷高校(中間地点:第三チェックポイント)−(本郷通りを北西へ)−王子−(北本通りを北へ)−宮堀−(環七通りを東へ)−大谷田(第四チェックポイント)−(環七通りを南東へ)−青戸五丁目−(水戸街道を南西へ)−向島−(三ッ目通りを南へ)−(葛西橋通りを西へ)−深川−(清澄通りを南西へ)−勝鬨−(晴海通りを北西へ)−築地本願寺(第五チェックポイント)−(新大橋通りを南西へ)−浜離宮−(海岸通りを南へ)−八潮橋−大井埠頭中央海浜公園(第六チェックポイント)−(環七通りを北西へ)−若林−(世田谷通りを西へ)−東京農大一高(ゴール)

100キロハイクと“完歩”

岩谷道子

3年越しの夢がかない、今年初めて100キロハイクに参加した。3年前の時から楽しみで、歩く前は、終わった時に“疲れたけれど充実感を味わうことができました”というようなことをいっている自分を想像していた。しかし実際に歩いてみて、100kmは予想よりもはるかに長く、特に後半はリタイヤするか、歩き続けるかという、歩く前は予想もしなかった葛藤の中で、100キロハイクとは何かということを色々考えさせられた。

まず、今回の100キロハイクを簡単に振り返ってみたいと思う。

日程的に卒業論文の追い込みにさしかかっており、ぎりぎりまで参加するかやめるか迷っていた。しかし過去二回参加できず、今年こそはという気持ちがあったのと、今年を逃すといつ参加できるか分からなかったため、思い切って参加することにした。この時は“無理せずきつくなったらやめよう”という軽い気持ちであったが、スタート場所である農大一高についたら、やはり“完歩したい”という気持ちが強くなってしまった。

いよいよスタート。はじめは戸張君と、快調にとばしていた。しかし17.7kmにある第1CPが意外と遠い。“もしかしたら100kmというのはかなり長いのかもしれない”ということを薄々感じはじめた。2CP、3CPまでは何とかついていったが、4CPに向かう途中からペースが落ちはじめた。4CPと5CPの間から6CPまでは岩下くん、英ちゃん、直くん、とっちと一緒に歩いた。岩下くんがみんなを気遣ってくれて、とにかく私は眠気と今だかつて経験したことのなかった究極の筋肉痛と闘いながら、ひたすら一歩一歩前に進むだけであった。6CPからはばらばらに歩いたが、ゴールが本当に遠く思え、歩いても歩いてもゴールまでの距離が減らず、100mが1km位に感じられた。途中まであらちゃんに一緒に歩いてもらい、途中からはまちゃんに一緒に歩いてもらい、休むたびにマッサージをしてもらったり、最後は引っ張ってもらって、何とか、本当に何とかゴールに辿り着くことができた。樹くん、宣くん、あらちゃんは車でついてくれて、飲み物を買ってきてくれたりと、至れり尽くせりのサポートをしていただいた。今回の私の完歩は、サポートなしには絶対に有り得なかったと思う。

では、なぜここまでして完歩することにこだわったのだろうか。“100キロに出るからには完歩したい”これは誰もが思うことであろう。しかし私はこの気持ちがさらにエスカレートし、“完歩しなければ参加した意味がない”というような気持ちにまでなっていたように思う。その理由の一つは、一昨年、昨年と、エントリーしながら出ることができず、サポートをして、参加者が完歩して充実感を味わっているのを見て、自分もその気持ちを味わいたいと思っていたことがあげられる。二つ目は、卒業論文の合間に無理やり参加したのだから、完歩したいと思ったことである。三つ目は過去二年間は全員が完歩していたことと、出る前から完歩できるだろうといわれていて、自分でもそんな気になっていたことである。この“完歩しなければ参加した意味がない”という意識は、特に後半つらいときに、大きなプレッシャーとなってのしかかってきた。

完歩は100キロに参加するものは誰もが目標にするものであると思う。しかしあくまでも目標であって、目的ではない。100キロハイクに参加して、この事を強く感じた。私は今回完歩が目標ではなく、目的になっていたような気がする。最後に環七を歩いていた時は、“やめたい”という気持ちが80%以上占めており、体力も気力も限界であった。100キロハイクの本来の目的からいえば、ここでリタイヤするべきであったかと思う。しかし私は歩き続ける方を選択した。サポートの励ましがあったからというのが大きかったが、自分の中で完歩が目的になってしまっていたため、そうせざるを得なかった部分も多いと思う。

しかし、完歩できれば満足すると思っていたが、いざ完歩してからは、うれしい気持ちの反面、自分のとった行動がよかったかどうか考えてしまい、ここでもまた“完歩できてよかった”という気持ちと、“ここまでして完歩にこだわる必要があったのか”という気持ちとで葛藤があった。とにかく今回の100キロハイクでは、歩く前に持っていた100キロや完歩することに対する考えと、全然違う気持ちを味わうことになった。今回の完歩については、100キロの本来の目的にそぐわない、サポートはそこまでする必要があるのかといった批判や意見も当然あっておかしくないと思う。しかし、そういう批判があったとしても、今は、100キロハイクに参加して、完歩することができ、本当によかったと思っている。完歩できたことがよかったというよりも、完歩できるまでの過程で、サポートの方々の温かい励ましや応援をいただいて、たくさんの優しさにふれることができたということがとてもうれしかった。サポートのありがたみを心から感じた100キロハイクであった。また、100キロハイクが考えていたものとだいぶ違っていたことが分かり、100キロについて、今まで考えていなかったことを考えることができたのもとてもよかったと思う。100キロハイクの参加者の意識や、サポートの在り方については、今後に向けて改めて考えてみることは大切であると思う。

サポートの皆様、お忙しい中来てくださって応援してくださり、本当にありがとうございました。この場をかりてお礼を申し上げます。

100kmの中にあるもの

岩下薫

100kmの経験は今回で3回目、全て参加者としての歩いた経験である。

過去の2回、自分は一人で歩いた。100kmの中にあったのは自分との闘いであり、ゴールした時に得られたのは大きな達成感だった。そして100kmという距離に自分が勝てたということ、勝てるということが自分の中の新しい自信となった。100kmという距離は自分の挑戦の対象として大きな意味を持っていた。

主将という立場、初めて組んだバディ、3回目の今年は全く新しい経験となった。気がつくと、他の5団のメンバーに気を配りながら歩いていた。バディを組んでいたヒデちゃん(花原)、第4〜6CP(チェックポイント)で一緒になった他の2バディらの歩き方と表情を見ながら、ペースを考えたり、声をかけたりしていた。あくまで自分なりにしたことであり、どれだけ意味があったかはわからない。しかしこのことは3回目という経験がかなり大きかったと思う。100kmという距離が得体の知れない不安でしかなかった1回目では想像も出来なかったことであり、自分の挑戦は100kmという距離だけではなくなってきていたのである。

6人が一緒に最終の第6CPに着いた時、サポートのローバーと自分との間に相談があった。ここから先は6人一緒に合わせて歩くよりは個々のペースで行った方がいいのではないか?比較的余力のあったトッチ(佐竹)が先にCPを出発し、後ろの5人はCPを同時にでるが、各々のペースで行く形をとった。サポートだったアラちゃん(新井)が最後尾と一緒に歩くという言葉に助けられた。実は自分にも余力はなくなってきていた。

自分のゴール後、後ろの4人を起きて待っていた。自分以外のゴールを見守るのは初めてのことだった。4人の中で最後にゴールをしたのは道子(岩谷)だった。サポートのローバー隊の数人が最後の数キロを励ましながら、一緒に歩きながらの涙のゴールだった。この時、5団のサポートのありがたさを本当に強く感じた。道中で声をかけてくれる、CPには必ず誰かが待っている。本部の参加者の情報を気にかけている人がいる、本当につらい時には一緒に歩いてくれる人までいる。正直に告白してしまえば過去の2回ではここまで感じていなかった。自分が歩くので精一杯だったのかもしれない。多くの人に支えられながら歩いていることに気がついていなかったのである。

ゴールで他の団の知り合いと会った。5団が一人もリタイアせずに歩いていることを話すと“なぜ5団は歩けるのか”という話になった。「気合いが違うのかな」と彼は言った。強いサポートに支えられているからだと自分は思った。

閉会式が終わって辺りも暗くなった6時過ぎ、特別参加の賢さん(富崎)が26時間以上歩き続けてゴールした。まだ帰らずに待っていた多くの5団の人の拍手に迎えられた。自分が5団のメンバーで本当によかったと思った。

3回目の100kmハイクを終えて100kmという距離は自分にとっては意味を失った。100kmの中にあるものが強く意味を持つように感じ始めたからである。100kmの中には自分との闘いだけではなく、他の人との支え合い、5団の結束と仲間の素晴らしさがあった。距離なんか別に100kmでなくてもいい。

共に歩む

隊長 山崎昭彦

100kmハイクが今年も無事に終わりました。サポートに当たってくださった皆様には心から感謝しております。

参加者を募る段階から、主将の岩下君は苦労をしていたようでした。それぞれに事情があるのだから仕方ないことだけれど、我も我もと名乗りを上げないことを少々歯がゆく思いながら、主将の様子を見ておりました。

結果的に9名の参加者に富崎君を加えてのスタートとなりましたが、第1チェックでは、渋滞にはまるサポート車を後目にぐんぐん歩くローバー諸君を見て、今年は例年にもまして順調だろうと安心しました。

ビーバー&カブラリーのために私は途中で失礼しましたが、サポート各位の連絡が本部に着々届くのをそのつど確かめることができ、5団の体制をありがたく感じました。

隊長としてもっとも気がかりだったのは、初参加の諸君の動向でしたが、無事にゴールしたという知らせを聞いたときは、ほっとしましたし、そこで初めて眠気がおそってきました。

ラリーを終えてゴールの農大一高に迎えに行ったとき、皆ぐっすり(ぐったり)休んでいるのを見て一安心。しかし、富崎君のゴールが難しそうだというニュースには心を痛めました。閉会式が済んでからも富崎君を待とうというローバーの心は、ルートの風景を思い浮かべながら共に歩いている感覚だったのではないでしょうか。

その場に居合わせたみなさんも感じたことと思いますが、最後にゴールインした富崎君の涙は、私の心に深く残りました。吉沢君の胸に飛び込んで大の男が大泣きするようすは、知らない人が見れば滑稽で、しかしわれわれにはかけがえのないひとときでした。

ほとんどの区間を一人で歩き、いつでもリタイヤできる状況だったのに完歩を選んだ富崎君は、仕事の疲れを引きずりながらもとうとう歩き通しました。半ば意地で歩いたのだろうけれど、「これが100km」だと後輩に見せてくれているようで、心が熱くなりました。

帰路、戸張君が「去年と違って、今年の100kmはよかったなあ」と言うので、さらに聞いてみると、「一人で歩いた去年はマイペースでどんどん行けたから、それはそれでよかったけれど、今年はバディで一緒に歩けた。それがよかったんじゃないかなあ」と語ってくれました。そう、100kmはレースではなくハイクなのだから、共に歩む喜びがあっていいのです。

ローバリングはそれぞれです。一人一人の完結があります。100kmハイクもそうでしょう。その「それぞれ」を共有できるのがローバリングの魅力だとも言えます。バディで歩いた諸君も、一人で歩き通した富崎君も、サポートのみなさんも、そしてもちろん隊長の私も、「一人一人の歩み」の共有に、心を揺さぶられていたのではないでしょうか。

富崎君の涙に、戸張君のひとことに、私がスカウト活動をやめられない理由の一つを気づかせてもらった気がします。ありがとう。


指導者研修会

副団委員長 河井宏文

平成9年度 BS渋谷5団 指導者研修会が4月12日(土)〜13日(日)にかけて江東区潮見の潮見教会で34名のリーダーが参加して行われました。

午後6時から団会議が行われ

食後8時から研修会が始まり、団委員長の挨拶の後、ベンチャーについての討議が行われた。

現行シニア隊とベンチャー隊との違いについて、制度、カリキュラム、狙い等の比較からの詳しい説明が松本SS隊長、中谷正憲・田中隆RS両副長からなされ、ビーバーからローバまでの各隊指導者にはベンチャーの輪郭がはっきりし、理解が深まったようである。

続いて、5団に於ける移行時期について討議され、来年9月のスタートのためには今年度からアワード態勢(挑戦カリキュラム)を敷く必要があることなどが話された。

今回のベンチャーへの移行が、「富士章挑戦」を促す目的のように考えられるが、そうではなく「富士章は、日常のスカウティングを堅実に行う中で到達するものである」ことを指導者は押さえておくことが大切であるという認識で一致した。

10時50分より団ボリーについて、ローバー隊から計画進行状況が話され、それについての討議が持たれ、最初に就寝した人が午前2時半という熱のこもった話し合いが行われた。

13日(日)は6時半起床で朝食・清掃を済ませ、午前9時より各人の感想、まとめがおこなわれ潮見教会のミサにあずかり11時に解散した。

今回の研修会で各隊の指導者が、団全体を見渡した考え方を常に基本に押さえて討議されているのをみると、これから先も5団は堅実でしっかりした歩みを続けることが確信できるものでした。


渋谷5団とインターネット(続)

木下 順二

最近、シニア隊では隊活動にインターネットが不可欠のものとなっています。指導者間の連絡は全て電子メールを使って行っており、スカウトの連絡網もネットワーク化しようという案さえ出ているほどです。ホームページに関しても、シニア隊の活動報告は写真入りの立派なページができています。大垣副長によるキャンプ技術集大成のコーナーもでき、またインターネット上での手旗練習システムや、仮想キャンプファイアーなどの新しい試みも始めました。

最近の話題を二つ紹介しましょう。一つは、ホームページを見ての、初めての入団希望者が現れたことです。もう一つは4月に行われた、第2回スカウティング・ホームページ・コンテストにおいて、「渋谷5団ホームページ」が、全国から参加した28団の中で、圧倒的な支持を得て最優秀賞に輝いたことです。この結果は雑誌「スカウティング」に発表される予定なので、全国のスカウト関係者が注目してくれるはずです。各隊の皆さん、ホームページを開くなら今がチャンスですよ!

連絡先:up2j-knst@asahi-net.or.jp


40周年記念行事(団ボリー・記念誌)


40周年団ボリー迫る!

40周年団ボリー実行委員会

1957年、当時の池尻教会でボーイスカウト東京第138団として発足してから満40年が経ちました。今年1997年は渋谷5団にとって記念となる発団40周年の年です。すでにご承知のように8月15日(金)〜17日(日)までの3日間、山梨県櫛形山グリーンロッジにおいて「40周年記念団ボリー」が開催されます。5団所属のスカウト並びに保護者の方々、団関係者、団友会の方々など多くの参加が予想されます。楽しく、記念となる「団ボリー」となるよう皆様のご協力をお願いいたします。

40周年記念誌

団委員(広報) 柏木直哉

30周年のときに、それまでの30年の活動を網羅した立派な記念誌が作られました。

(ご希望の方には、部数に限度がありますが、1部500円でおわけしています)

40周年にも、同様に記念誌を作ろうということが団委員会で決まり、広報担当の団委員を中心に準備を進めています。但し、今回は、30周年の記念誌の補遺版とし、この10年の間の出来事を中心にとりまとめたいと考えています。原稿を集め始めているところですが、我こそは、ここで何か書いておきたいという方は、是非是非、原稿をお寄せ下さい。

6月末締切の予定で、10月の総会までには何とか発行したいと思っています。

 

又、この記念誌では、現在の各隊、団委員会、団友会にそれぞれ見開き2頁をおまかせし、独自のページを編集していただきます。各隊、団、団友会では、その準備もお願いします。


寄稿:長谷川君のこと

10月にお送りした「ビカボシロ96夏号」では、昨年6月に亡くなられた長谷川元カブ隊長の思い出を、鴻、松本、山崎の3氏が書いてくださいましたが、そのビカボシロを読まれて、長谷川さんがカブスカウトだった頃、デンマザーをされていた武内さん(当時、佐久間さん)が、思い出を書いてくださいました。謹んで長谷川さんに捧げたいと思います。

武内(佐久間)緑

12月に入り、日に日に寒さが身にしみて参りました。渋谷5団の皆様の御活躍大変たのもしく思っております。

先日、買物から帰るとボーイスカウトからの封書・・・。何かな、クリスマスの案内かな等と勝手な事を想像し封を開けました。

「ビカボシロ」の知った名前の所に目を通していると「訃報・長谷川隊長」とあり、もう25年もカブから離れている私にはピンときませんでした。でも次の瞬間、まさかあの長谷川君?ウソでしょ、まさかあの子が・・・。

手記を寄せている鴻君、山崎君、松本君の名前を見て、やっぱりあの長谷川君だとわかりました。だめだよ、まだ死んではだめだよと頭の中でそんな言葉をくり返しているうち涙が出てしばらく何も考えられませんでした。

どうしてあの子が・・・。

急いでアルバムを持ち出してみました。

いました。あの長谷川君が、大きな目をして笑っているあの子がいました。

長谷川君はカブに入ってすぐに私のデンに入ったと思います。鴻君もいます。まだカブに入っていないおまけの小鳥(鴻君の弟の正義)もいます。みんなカブの制服を着て誇らしげに笑っています。箱根の舎営でゲームをしている長谷川君がいます。大きなくりくりした目、ちょっぴりウェーブのある髪、ひっこみ思案だけど明るくやさしい子でした。

当時、私も駒場に住んでおり、長谷川君と鴻君の家のまん中位の所にいました。普段、道で会うと恥ずかしそうに「こんにちわ」と言ってくれました。

当時どんな事があったか思い出そうとしても、私の頭の中にはニコニコ笑っている長谷川君しか出てきません。私の中には大人の長谷川君はいないのです。だからよけい、つらく、悲しく思います。

たとえ一時期でも同じ時を過ごした子の死。信じたくない気持ちでいっぱいです。

残された御家族の事を思うと本当に心が痛みます。

私は今でも時々夜空の星を見ると初めて参加した舎営の事を思い出します。今まで見た事のない星の数、キャンプファイヤーの時に見あげた空に心から感動しました。

いつかまたそんな夜空を見る時があったら長谷川君と行った舎営の事でも思い出してみようと思います。

さようなら  長谷川裕一君

佐久間デンマザー


新顔です。こんにちは

カブ隊に新しいリーダーが4人、来てくださいました。

宜しくお願いします。

 

瀬田昌子

アルトの主旋律のない音階と夏から練習しているクリスマスキャロルにうんざりしてきた11月のこと。米沢(姉)からある誘いを受けた。「麻呂(とは恥ずかしながら私のあだ名)にピッタリの活動があるんだけど・・・」。こうしてやってきたところがカブであった。

辛い食べ物が苦手で、カレーはハウスバーモントカレーの甘口のみ可、寿司はさびぬきと味覚はお子さまであるが、お子さまなのは味覚だけではなかったことにカブに入って気づかされた。

果たして私は大人に成長することができるのか?乞うご期待!!

 

福田真衣

はじめまして大学で初等教育学を専攻しております福田真衣と申します。この渋谷5団のボーイスカウトには一年先輩の浜田さんから紹介を受け2月1日からカブ隊のリーダーとして参加させていただいています。実際に子ども達と一緒に過ごすことでいろいろと学びとっていこうと思います。

よろしくお願いします。

趣味:テニス・スキー・水泳など

 

米澤公子(よねざわさとこ)

グリークラブその他に明け暮れる私。そんな気の多い私が更に昨年末、河井先生の御紹介で突然、カブスカウトのリーダー活動に足を突っ込んだ。以来、優しいおじ様方に囲まれ楽しい土曜日を過ごしている。髪を束ねてシコシコをしていたら私、巨人の勝利に御機嫌なのが私、その辺によく似た妹がいたら私である。「変わってるよね。」大抵こう言われる私だから、暫くは化けの皮が剥がれないように、猫でも被っていようと思う。

米澤史子(よねざわちかこ)

河井先生のご紹介で昨年度末からカブのリーダーをやらせていただいております。大学とサークルという、ともすると単調になりがちな私の生活に、カブの活動は新しいものを与えてくれます。行動力に欠ける私ですので、スカウトに引きずられてしまうことも度々ありますが、優しい先輩のリーダー方のご指導のもと、毎週の集会を楽しんで参加しております。どうぞこれからも宜しくお願い致します。


日本連盟75周年記念自転車リレー

ボーイスカウト日本連盟が創設されてから今年で75年。それを記念して自転車リレーが行われており、渋谷5団は4月29日に渋谷(乗泉寺)から新大橋までの渋谷地区担当分に参加しました。河井君の報告です。

自転車全国一周友情リレーに参加して

ハヤブサ班 河井久直

僕は今回、自転車全国一周友情リレーに参加しました。これは日本連盟が創立75周年を記念して、全国のスカウトが一丸となって日本を自転車で一周する友情リレーです。

僕たちは、渋谷地区を代表して、乗泉寺から、総武地区の新大橋までの約11kmを十名のスカウトで走りました。

全国一周友情リレーに参加して僕は、道を走るときの衝撃でおしりが痛かったです。この痛さが前のスカウトから僕達へ、そして次のスカウトへ伝わると思うと連帯感を感じました。


ボーイスカウトなら、みんな知っている、知っていてほしいはなしです。家庭で読んで、話題にしてください。

無名スカウト

1909年、霧にとざされた冬の夕ぐれ、ロンドン郊外の駅に、一人の紳士が、地図と旅行カバンを持って、汽車から降りた。紳士は行く先がわからなくて困っていた。キビキビした少年が現れたので、紳士は道をたずねた。少年は「私が案内しましょう」とカバンを持ち先に歩いた。目的地に着いたので、紳士は、銀貨を出しチップとして少年に与えようとした。少年は「私はボーイスカウトです。お礼はいただきません。私に一日一善をさせて下さってありがとう」とニッコリしてヤミの中に消えた。

どこの国の少年も、こんな時は喜んでチップをもらうのに、それを断り、逆に礼をいって立ち去るとは・・・紳士は驚いた。ボーイスカウトだから、といったが、それは何であろう。友人に聞くと、パウエル卿が、昨年はじめてつくった少年運動だと答えた。紳士は米国人のボイスという有名な出版業者だった。ボーイスカウトについての書物を全部買って、米国に帰り友人と話し合い、スカウト運動がアメリカに発足したのは、1910年2月8日のことであった。

15年後には、全米にこの運動がひろまり、その数は百万人を越した。米国スカウトは、その功労者を表彰することになって、いろいろ考えてみると、第一は、ボイスを案内した英国少年だということになり、英国スカウト本部に頼んだり、人を派遣したりして捜してもわからない。名乗ってほしいといっても出ない。それで米国側では、協議のすえ、米国スカウト功労賞のバファロー(野牛)の形と同じ型の銅像を作り「日々の善行を努めんとする一少年の忠実が、北米合衆国にボーイスカウト運動を起こさせた。アンノウン(名の知れざる)少年のために」と書いて、贈ることになった。

1926年6月4日、ギルウェルの森−これはボーイスカウトのメッカであり、指導者訓練の総本山の道場ともいうべきところ−で厳粛に、贈呈式が行われた。その銅像はいまでもギルウェルにある。

(三島通陽元日本連盟総長「ボーイスカウト十話」より)


平成9年度登録状況:252名

      団委員 ビーバー   カブ  ボーイ  シニア ローバー    計

スカウト         8   51   49   17   23  148

リーダー   14   20   36   14   13    7  104

 計     14   28   87   63   30   30  252

 

カブ隊、ボーイ隊は2隊構成


編集後記:教会の行事として一般に一番知られているのは、クリスマスです。しかし、教会でもっとも大事な行事はキリストのご復活を祝う「復活祭」です。キリストが十字架につけられた時、隠れ、逃げ回った弱い普通の人間だった弟子達が、その後、強い信仰を持ち、殉教も恐れずにキリストの教えを世界中に広めていけたカギが、この「ご復活」にあるというのがキリスト教の原点だからです。クリスマスが12月25日に決まっているのに対し「復活祭」の日は「春分の日の次の満月の次の日曜日」と決められているので毎年、変わります。今年は丁度、春休みの3月30日が、その「復活祭」に当たりました。

カブやビーバーがミカエル神父を迎えて「復活祭」当日の夜中から行われる徹夜祭の時と同様にロウソクを使ってミサを経験できたことは、良い思い出になったことと思います。

この春のキャンプの報告に加え、各隊の大きな行事の報告、指導者研修会の報告を戴きました。

夏に予定されている「団ボリー」へ向け、準備は着々と進んでいます。実行委員会はシンボルマークを決め、各隊はこれを基にした記念品を考えはじめています。

我等、広報も記念誌の準備を具体化し始めました。

インターネットでは、5団のホームページがコンテストでなっなっなんと「最優秀賞」をとってしまいました。

 

今回も、皆様のおかげで盛りだくさんですが、これで団の活動の一面がわかっていただけたらと思います。


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渋谷5団のホームページ