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渋谷5団のホームページ昨年10月16−17日に行われたローバ恒例の100kmハイク(100kmのコースを24時間以内に歩く)に女子2名を含む10名が参加し、全員完歩という輝かしい記録を残しました。
濱田百合子
普通に過ごしていれば大して記憶にも残らなかったであろうあの日は、100kmハイクへの参加、完歩によって、今も私の中に強烈な印象を残している。
暗闇にチェックポイントの灯を見つけたときの喜びや、受け取ったお茶の温かさ、そして、ゴール後の達成感、解放感は、二十才の記念として一生忘れないだろう。そして何よりも、ヨーグルトが食べたいだの、足をもんでだの、いいたい放題の私のわがままを快く聞き入れてくださったサポートの皆様、本当にありがとうございました。
100kmを歩いている間、私には雑念などなく、ただ歩くことしか考えていませんでした。完歩するのに約20時間、一つの目標に向かってこれほど集中して努力したことは初めてで、完歩した後の達成感は、言葉では言い表せないくらいです。
また、歩いている時、サポーターを始め、一緒に歩いた渋谷5団の仲間10人と一体になれた気がしました。同じ場所を歩いていなくても、同じ目標に向かって同じ苦痛を味わい、同じように自分を励ましながら歩いた仲間を、これほど身近に感じたことはありませんでした。
シニア隊の古俣哲司副長が、昨年の12月3日、突然の海難事故で亡くなられました。昭和37年12月にカブ隊(当時の東京138団)に入団されてから、ずーと我々の仲間として、素晴らしいスカウティング活動をして来てくれました。
(この編集の最中、4月6日に古俣副長の父上である古俣元団委員長が亡くなられました)
古俣元団委員長は、昭和41年12月から13年間渋谷5団の団委員長として、5団の礎を築いてくださった方です。団委員としては、昭和40年12月から、昨年の9月の育成会総会で引退を表明されるまで、実に30年間も5団の面倒を見て来てくださいました。最近は、お体をこわされ入院されたりもしていましたが、古俣副長への香典を団に寄付されるとのことで、2月の団委員会に顔を出された矢先の今回の訃報でした。ご冥福をお祈りします。何人かの方に、思い出を綴っていただきました。
鴻久忠
古俣とは昭和37年渋谷5団のカブ隊に同期入隊して以来、それぞれ社会人となるまで15年近く公私共にいい意味でのライバルとして付き合って来ました。
カブ隊からの上進者は10余名いましたが、ローバースカウトまで残りリーダーとして活動したのは、古俣、高根そして私の3名。当時のことを振りかえると、少なかったことがかえってそれぞれの個性を活かして5団の活動に少しでも貢献できたのではないかとおもいます。
今、ボーイ隊の隊長としてスカウト達に指導できるのも、古俣と一緒に活動したボーイ隊、シニア隊での活動経験が基本になっています。特に、シニア隊に上進してからのキャンプでは、辛い中でもいかに楽しくすごせるかお互いにライバルとして意識しながら頑張って来ました。どちらかと言えば石橋を叩く自分に比べ「一言いう前に行動を起こす」古俣はそんな行動的な、今では少なくなったスカウトだったと思います。
今春のキャンプでは、初日が雪という最悪のコンディションでしたが、最後まで病人やけが人もなくすごせたのは、きっと天国から「雪に負けずにがんばれ!」と古俣が暖かい声援をおくってくれていたからでしょう。
今後も、古俣の「不言実行」の精神を胸に、活動を通して「何事にも積極的なスカウト」を一人でも多く育てていければと思います。
高根敏郎
古俣哲司とはカブスカウトからのつきあいであった。私とは違って行動的で、興味を持ったことについては極めるまでやってしまうので、スカウト活動でその本領が発揮されたのはシニアスカウトの時代からのように思う。シニア隊で生き生きと活動する姿を見ては、消極的な自分と比べて羨ましく思ったことを思い出す。
私がボーイ隊のリーダーになってすぐの頃河井さんに何か用事があって住まいを訪問したことがある。その頃、河井さんは古俣と一緒に青山の団地に住んでいて、その時丁度古俣も居合わせていた。何のきっかけからか、河井さんに向かって私が“生まれてくる前に母親の胎内にいる子供に重大な障害が発見されたら生まれてこないように処置してしまった方がいい”なんていう今から考えると冷や汗が出るような論を展開したところ、河井さんが
「きっと違う考えをもっている人がいると思うよ。ためしに古俣に聞いてごらん」
と言う。そこで古俣に話をしたら即座に
「その子、生まれたがっているかもしれないじゃない」
と答えが返ってきた。その瞬間は、カウンターパンチを食らったようだったけれど、すぐにどんな言い方よりも本当のことを言っているなと思った。
今、教員という職業についている私にとって古俣のこの時の言葉はかなり重たい。いつもどこかに引っかかっている。
古俣には、そんな言葉が出てくる本当の優しさがあった。
山田幸平
哲ちゃんが逝ってから早や4ヶ月が過ぎようとしていますが、私は未だに信じられないような気がします。しかしそんなこととは裏腹に私の頭の中には様々な思い出がよみがえってきます。
□思い返せば、私と哲ちゃんとの最初の出会いは、私がカブのくまスカウトの時の隊長という関係でした。当時の哲ちゃんは堂々とした態度、全身にみなぎる自分に対する自身とで何だか恐くて、話すことも近寄ることも私は出来ませんでした。
また、くまスカウトとしてのキャンプ(春か夏かは忘れましたが)の前の荷物点検の時に、哲ちゃんは一通り点検を終えた後、私達スカウトに「このしおりの持ち物リストの物をその通り、その数だけ持ってきなさい。このリストは自分達の今までの経験に基づいて作っているのであり、決して適当に作っているのではない。その事をお父さん、お母さんにきちんと話しをして、リスト通りに持って来なさい。」と言いました。私はその時子供ごころにこれだけ自分に自信を持ちそれを表に出せるとは何とすごいんだろうと思い、ますます雲の上の人という存在になりました。それからシニアスカウトとシニアの副長、同じシニアの副長、そして渋谷5団という枠を越えたつき合い(KNOTS FACTORYを通して、スバル車を通して、AMWAYを通してETC)をさせて頂き、幾度となく私は哲ちゃんの人柄のよさ人物の大きさを実感し、人生の楽しみ方を教えてもらったような気がします。
□そんな哲ちゃんとはもう会えないと思うととても残念でなりません。心からご冥福をお祈りいたします。
富崎賢
私が初めててっちゃんにお会いしたのは30周年の団ボリーの時だったと思う。スカウトとリーダーという関係で、団ボリーの間、色々とお世話になった記憶がある。その時てっちゃんはご家族を連れてこられて、娘さんとよくアスレチックで一緒に遊んでいた。彼は、「子供は最高のおもちゃだ」などと言って、娘さんを半ば強引に色々なコースに挑戦させていたのを今でもよく覚えている。
てっちゃんと話すといつもわくわくした気分になった。大学生になった私が教会で久しぶりにお会いしたとき、いきなり「シーカヤックはいいぞー」と言い出して目をきらきらさせながら語っていたのが印象深い。多分話しの内容がおもしろいだけではなく、本人が一番楽しんでいるからこちらにも伝わってくるのだろう。もう彼の楽しい話しを聞けないと思うとちょっと淋しい気もするが、今度は自分がてっちゃんのように人をわくわくさせるような話しが出来ればいいと思う。
川越健
彼は私がカブの頃の隊長であり、シニアの頃の副長であり、またリーダーを始めた頃の同じシニア隊の先輩リーダーである。三つの時代に共通する彼は、いつもタフでなんでも出来て、なんでも出来るのに常にさらに何か楽しそうなことを求めている姿である。
《話しはとぶが、その姿と同時に結構無茶苦茶の所もある。月の輪キャンプで、長者舎(?)に行ったとき、彼に怒られた私はしばらく正座をさせられたが、その時、宿舎の女の子を私の見張りにつけさせた。その女の子はおもしろがって私をひもでピシィピシィとしばくのを彼は知らぬ振りで見ていたのは今でもはっきりと覚えている。》
彼は自分の得たものをいつもスカウティングの中に伝えてくれて、後輩スカウトに必ず何等かの影響を残してくれた。シニアの活動の中でも、山スキー、スケート、4WD、ナイフ作り、そしてこれからはシーカヤックと数えきれない程である。私にとってはあこがれの人であった。そのせいか、今の私は、彼、古俣哲司さんと同じ煙草を吸っている。
柏木信昭
30周年の団ボリーで私がシニアのリーダーであったころの事である。その時の隊長だった曽田さんが急にキャンプに行けなくなり、代理隊長をだれにするか相談されたことがあった。曽田さんの話し方からしてその時、私と二人で決めるつもりであったようだ。私は、迷わず古俣さんを推した。曽田さんは少し迷っていたようだが、結局、古俣さんにしてくれた。
曽田さんが迷った気持ちは私は少し理解できた。古俣さんは型破りだし、その当時リーダー活動から少し離れていたからだ。しかし、私はもし古俣さんが隊長になればこのキャンプは予想以上に成功すると確信していた。
それは、古俣さんは下から子供を見ることが出来る人だからだ。私たちは上から子供を見てしまう。優れたリーダーは子供と同じ目線に立てるかもしれない。しかし、古俣さんは下から見ることが出来るのだ。こんな事が出来るのは古俣さん以外にいない。また、古俣さんはぶっきらぼうに見えるが人に対してこまやかな気遣いと優しさが本当にある人だ。それがキャンプでは如何なく発揮されて大成功に終わった。
古俣さんはその時のキャンプの中で弟の敏司さんとカトリック・ボーイスカウトの在り方について論争していたときに次のような言葉を漏らしていた。「子供たちが神父さんに憧れて神父さんごっこをする。これがリーダーの仕事だよ」。私は教会学校のリーダーもしているが未だにこんな事を言ってみたことがない。
萩原拓
ここアメリカ、カンザスに住んでまだ間もないうちに、古俣哲司さん、古俣元団委員長の相つぐ悲報を知りました。お二人には私の入団当時から大変お世話になっており、本当ならばすぐにでも帰国して駆けつけなければならないのですが、それも出来ず、自分に歯痒い思いをしております。
哲司さんは私が20周年の年にカブに入隊したときの副長補でありました。いつも大声でお話になり、当時の私としては哲司さんがとても大きく恐ろしげに映ったものです。私がカブ隊当時の哲司さんの思い出は恥ずかしながら叱られた記憶しか浮かんできませんが、どの叱られた思い出も後味がとてもさわやかで、あの頃の私のカブ隊生活をとてもほのぼのと思い出させてくれます。私がローバー隊員になってカブのリーダーになった時に、多分にお手本にさせていただいたのは哲司さんでした。仁(吉沢)とよく「哲っちゃんにはかなわねえな」と二人で自分らのリーダーとしての未熟さを痛感しあったものです。哲司さんとはスカウト活動のみならず、他の面でもいろいろとお世話になっており、私が女房を持つようになった姿を見てもらえずに先に天国へ召されてしまわれたの残念でなりません
古俣元団委員長も私がカブに入隊した時には現役でいらっしゃいました。元団委員長がお話になる時はその口調といい、話しぶりといい、幼かった私に強烈なインパクトを与えました。キャンプに元団委員長がお見えになったときなど、だらしがないと本当に帰されると思ったほどです。それでも、声は怖かったけれども、普段は非常ににこやかで、当時のカブスカウト達にはとても人気のある方でした。私がカブスカウトの時に団の歴史を映画にしようというプログラムがありました。各スカウトはそれぞれ先輩リーダー、スカウトに扮して役作りにはげんだのですが、私は当時4、5年生だったにもかかわらず、古俣元団委員長の真似がうまいというので、その役をおおせつかりました。元団委員長の特徴をうまく演じるのに、父や母まで巻きこんで家で一生懸命練習したものでした。今となってはあの独特なお声を聞くこともできません。せめて天国で哲司さんとお会いできるように祈るばかりです。
柏木直哉
私が、大学生となりリーダー活動を始めたのが昭和41年4月。記録を紐解くと、古俣さんが団委員になられたのとほぼ一緒になる。その夏、伊豆下田で行ったボーイ隊の夏キャンプに同行されたが、それまでの団委員は、どちらかと言えば後方事務に徹しており、団委員が現地のサポートまでをされたのは、これが初めてで大変新鮮だった。その暮れには、「このままでは駄目だ」といわれて団委員長を引き受けられ、団委員会を充実されていった。経営されていた“古俣ゴム”が苦しかったときもボーイスカウト活動を休まれることはなく、てきぱきと団を運営されていた。渋谷5団の団としての基礎は実にこの時に作られたように思う。
私は、その頃から生意気で、言いたいことを言い、やりたいようにやらせて頂いていたつもりだったが、所詮、団としての方向を見定めた上での古俣団委員長の手のひらの上での活動であったように思う。
就職し、それまでの活動が出来なくなった時、わがままを発揮して退団届を一方的に送った私を、当時大変お忙しかったにもかかわらず何回も呼び出し慰留して下さった。結局わがままを許していただいたが、何事にも真剣に取り組む姿勢を見せていただいた。
古俣さんの訃報に先立つ2月26日には元ボーイ隊長であった岩淵さんが帰天された。岩淵さんの隊長時代(昭和35年から40年まで)を知る人は、もう数人しか残っていない。でも、それまで単なる仲良しサークルのようであった5団に本当のボーイスカウト活動を定着させたのは岩淵さんであった。当時教会の修道士をされる傍らスカウトの教育に真剣に当たられ、5団のスカウト活動の基礎を作られた。
現場の活動の基礎を作られた岩淵元隊長と、団の基礎を作られた古俣元団委員長、相次いで亡くなられたお二人があって初めて今の5団がある。
林茂実
古俣さんとの最初の出会いは、東京138団の団委員会の場であったと思います。私の子供たちが、渋谷カトリック教会にその活動拠点をもっていた138団に入団するようになって直ぐ後だったと思います。それから20年を越えるおつき合いになりました。今にして思えば、今日の渋谷5団は、これまでに多くの方々の力によって育てられ、繁栄してきたと思います。
この中で、期間の長さからも、果した役割からも、最も大きな功績を残した人だと思います。
私自身のことを言えば、ボーイスカウト活動の何たるかを全く知らない状態で団委員になり、何をどうしたらよいか判らないときに、団委員会の後の古俣さんを始めとする団委員の方々との渋谷のヤキトリ屋での一杯傾けながらの話合いや議論は、教えられることが多々ありました。意見を異にすることもありましたが、古俣さんの素晴らしかった点であり、教えられた点は、「何が子供たちのためになるのか?」「何がボーイスカウトのためになるのか?」と言う原点に向かった問いかけを常に持っていた点であります。
小柄な体に似合わぬ大きな声とバイタリティ 今、思い出しても色々の場面が思い出されます。また、哲司君の亡くなられたとき・・・思い出は書きませんが筆を置きます。
“主よ、永遠の安らぎを、彼の上に与え給え”
古俣さんの霊と、遺されたご家族のために祈るのみです。
萩原拓、道子
皆さん、お久しぶりでございます。去年5月に帰ってきて、道子をビーバー隊からかっさらってさっさとまたアメリカにとんぼ帰りした不届者のバギーもアメリカ、カンザスシティで元気に暮らしております。皆さんカンザスってご存じですか? あの「オズの魔法使い」のドロシーが竜巻で飛ばされたところです。お話に違わずここは竜巻の名所で、非常に風がつよいだだっ広い所です。僕らが暮らしているカンザスシティは結構大きな都市ですが、ものの30分も車で走れば180度地平線が拝める大平原を見ることができます。
ここでバギーは偉そうにカンザス大学の特殊教育学科というところで博士課程を専攻しております。授業に出るたびに、高度な学門とわけのわからない英語に恐れおののいております。道子はどうしているかといえば、毎日近くの短大がただで教えている英語のクラスに通い、そこで知り合った国際色豊かな若奥様たちと仲良くなり、互いに家に招いたりして自分たちの国の料理などを教えあっているなどという、日本でがんばっているみなさんに申し訳ないような生活をエンジョイしております。しかし学生はどこの国でも貧乏であり、哀しいかな、ぜいたくな暮らしは出来ません。
5団の皆様には奉仕することが出来なくて誠に申し訳ありませんが、、今の円高を利用してもしなにか皆さんのお役にたてることが出来ましたらお申しつけください。何かにつけ故郷が恋しい二人です。もし出来ましたら、手紙のひとつでも書いてやってくださいませ。連絡は下記まで。
TAKU & MICHIKO HAGIWARA
7628 KING APT.J
SHAWNEE, KS 66214
TEL/FAX 001-1-913-962-0253
E-MAIL vaggy@falcon.cc.ukans.edu
Taku Hagiwara (vaggy@falcon.cc.ukans.edu)
Tel/fax: 913-962-0253
藤樫茂樹
御無沙汰しております。BS副長の藤樫茂樹です。私はついこの間まで、就職活動に明け暮れていました。毎日が苦悩と挫折の連続で、非常に厳しいものでしたが、徹底的に自分自身を見つめ直す良い機会であったと、今となっては思います。
そんな辛い就職活動を乗り切る事ができたたった一つの心の支えが、「ボーイスカウト」だったのです。私はどんな会社に行っても「ボーイスカウトこそが私の今までの人生の柱です」と胸を張って言い切ることができました。その自信が、会社からの内定につながったのだと思っています。
みなさんも私のように、ボーイスカウトでしてきた経験を、胸を張って言える位、頑張ってみてはいかがでしょうか。
久々の団報をお届けします。最初の企画を団委員会で説明したのが10月ですが、古俣副長、岩淵元隊長、古俣元団委員長と続いて亡くなられ当初予期せぬ紙面となりました。
古俣さんから戴いたお金を基に、記念に残る何かをと議論を重ねた結果、団旗を作ることとなりました。デサインは皆さんに公募した上で決めたいと考えています。別途ご案内しますので、アイデアを出してください。
カット:猪郷谷遊(山本邦子)・・・(準備中)
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