宝 塚

 

沿革

昭和20年 3月 1日 宝塚海軍航空隊開隊、予科練教育を開始

              (滋賀空分遣隊から独立)

昭和20年 6月30日 大阪警備府に所属

 

宝塚大劇場

兵庫県宝塚市

  

かつて予科連に接収された宝塚大劇場                     花の道 宝塚海軍航空隊同窓会献花

 

鎧崎桜ヶ丘英霊墓地

兵庫県三原郡西淡町

桜ヶ丘英霊墓地

 

宝塚戦友墓  宝塚海軍航空隊/予科練桜ヶ丘英霊埋葬跡慰霊塔

 

鎧崎桜ヶ丘英霊墓地

由来

大東亜戦争の終戦を間近に控えた昭和二十年八月二日 宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生百余名は

杉本少佐指揮の下に 鳴門要塞増強工事の任務を帯び 鳴門市撫養港より期帆船にて鳴門海峡を横断 

阿那賀港に向かって航行中 阿那賀鎧崎沖において 敵機の強襲を受け 一瞬にしてその大半八十二名は

壮烈なる戦死を遂ぐ あたら春秋に富む少年戦士の最期 洵に哀悼の情にたえず 爰に井植歳男氏を大願

主と仰ぎ 十方各位の寄進を得て その顕彰碑と八十二基の墓碑を建立し 昭和四十年五月二十七日 盛

大なる開眼供養を厳修する こえて昭和四十二年慈母観音像を建立し 同年十月五日 高松宮同妃両殿下

の台臨を仰ぎ開眼法要を厳修す 人の世に慈母を慕う心は永遠にしてまた尊し 祖国への至情に燃え散華

せし空の勇者と雖も未だいたいけな少年なれば その心またひとしおならん 母の名を絶叫しつつ悲痛なる最

期遂げし童顔を偲び 哀切の念やまず 茲に少年戦士の勲功に心から感謝の誠を捧げ 若き英魂の慈母の

温かき懐に抱かれ 心安らかに眠らんことを願い 塚田正三氏等の発願により 満天下の善意を結集して 

慈母観音像を安置し奉る 謹んで誌す

宝塚海軍航空隊予科練 鎧崎桜ヶ丘英霊奉賛会

 

昭和40年 5月27日の除幕式には宝塚歌劇団の生徒10名も参列し、「若鷲の歌」「すみれの花」を涙で合

唱した。

 

  

英霊墓地には八十二名の銘碑が建ち並ぶ

 

  

慈母観音像

碑文

人の世に慈母を慕う心は永遠にしてまた尊し 祖国への至情に燃え散華せし空の勇者と雖も未だいたいけ

な少年なればその心またひとしおならん 母の名を呼びつつ悲痛なる最期遂げし童顔を偲びまことに哀切の

念やまず 祖国平和の人柱として一身を挺したるに今日の繁栄を見ずして逝きし少年戦士の勲功に 心から

なる感謝の意を捧げその魂に永遠の安らぎを与えんことを願い 茲に満天下の善意を以て慈母観音像を建

立す 八十二柱の若き英霊よ慈母の温かき懐に抱かれ心安らかに眠り給え

 

甲飛十六期会 慰霊碑

碑文

こいねがわくは この淡路の地に 予科練といふ 童顔の防人ありて

壮烈なる戦死を 遂げられたることを いつの世までも 伝えられんことを

合掌

終戦を十日余に控えた昭和二十年八月二日 宝塚海軍航空隊第十六期甲種飛行予科練習生百余名

杉本少佐指揮の下 鳴門市撫養港より期帆船住吉丸に乗船 鳴門海峡を阿那賀港に向かって渡航中

 鎧崎沖において米艦載機二機の銃撃を受け 一瞬にしてその大半八十二名は壮烈なる戦死を遂げたり

 時に練習生の平均年齢は十六歳余なり

御霊は 早くより関係者のご努力により 鎧崎桜ヶ丘英霊墓地に手厚く葬られるも 五十回忌にあたり 

全甲飛十六期会が主催する慰霊行事を記念して建立するものなり

平成七年九月二十二日 全国甲飛十六期会 会長 近藤正弥

 

観音題

昭和甲子碑前に感あり 天に始終無く人に生死有り 少年の扼腕波涛に没す

頭を回らせば四十余年の夢 英雄の跡海青く渺渺 空しく幽明を隔て台下に哭す

盟友甲飛生その功を讃え 精霊有る在り千萬に祀らん

 

春日寺 彰忠碑

 

阿那賀湾

 

春日寺

兵庫県三原郡西淡町

宝塚海軍航空隊/予科練桜ヶ丘英霊菩提所

 

予科練

更新日:2007/06/10