特殊奇襲兵器

 

昭和20年 8月16日未明、軍令部次長:大西瀧治郎中将が渋谷南平台の官舎で

自決した。かけつけた軍医に対して「生きるようにはしてくれるな」と言い、介錯も拒

んで長く苦しんで死ぬことを望み、あふれる血の中で十数時間後に息絶えた。

現在、大西中将は「特攻の父」と呼ばれ、特攻作戦を起案し強行に実行を推し進め

た人物と理解されているが、歴史的事実は必ずしもそれを肯定していない。

 

昭和18年 6月29日、侍従武官城英一郎大佐

航空本部長大西中将に、「体当りを目的とした特殊航空隊を編成、自分が指令に

志願する」旨の構想を開陳。

大西中将は「搭乗員が100%死亡する攻撃方法は未だ採用する時期ではない」

としてしりぞけた。

 

昭和19年 3月、軍令部は「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定。

「@〜H兵器特殊緊急実験」

秘匿名称

開  発  の  内  容 名 称
@金物 潜水艦攻撃用潜航艇  
A金物 対空攻撃用兵器  
B金物 可潜魚雷艇(S金物、SS金物) 海 竜
C金物 船外機付き衝撃艇 震 洋
D金物 自走爆雷  
E金物 人間魚雷 回 天
F金物 電探  
G金物 電探防止  
H金物 特攻部隊用兵器 震 海

B・・・「海竜」C・・・「震洋」E・・・「回天」H・・・「震海」は実際に試作

され、「震洋」「回天」は実戦でも相当数が使用された。

 

昭和19年 6月19日、341空指司令岡村大佐

福留中将に対し、「体当り機300機をもって特殊部隊を編成されたい」と意見具申。

 

昭和19年 6月25日、サイパン島奪回作戦に関する会議

席上、元帥伏見宮博恭王が「特殊の兵器の使用を考慮しなければならない」と発言。

 

昭和19年 7月、サイパン島が陥落

日本本土はB29の爆撃圏内となった。空襲により本土の軍需工場が壊滅すれば、近代的な戦闘の

継続は不可能になる。

 

昭和19年 7月、戦備考査部会議

「特殊兵器緊急整備計画」

海軍水雷学校長大森中将を長として特殊兵器整備促進班を設ける。

 

昭和19年 7月21日、大海指四三一号発令

軍令部総長は連合艦隊司令長官に「捷号作戦」を指示。その中の一つに特攻作戦に関する方針

が示されている。

第一  作戦方針

一、極力戦略態勢を保持活用して敵兵力を漸減しつつ、自ら戦機を作為し、  又は好機を捕捉

して敵艦隊及進攻兵力の撃滅を期す。

二、陸軍と緊密に協力して、国防要域の確保に任じ、爾後の攻撃を準備す。  

三、関係部隊と緊密に協力して、本邦及南方資源要域間の海上交通を確保す。

第二  作戦要領

一、各種作戦

イ、基地航空部隊の作戦

基地航空部隊の主力を本土(北海道、本州、四国、九州)、南西諸島、台湾、比島方面、一部を

千島列島、南洋要域、中部太平洋方面に配備し、敵艦隊及進攻兵力の捕捉撃滅に任ず。

ロ、機動部隊及爾余の海上部隊の作戦

大部は之を南西方面に配備し、敵情に応じ比島方面又は一時期南西諸島に進出せしめ、一部は

之を本土方面に配備し、適時機動作戦の実施に努むると共に、基地航空部隊に策応、敵艦隊及

進攻兵力の撃滅に任ず。

ハ、潜水部隊の作戦

大部を以って邀撃作戦あるいは戦機に投ずる奇襲作戦を実施す。 

一部を以って敵情偵知、敵後方補給路の遮断及味方先端基地に対する補給輸送に任ず。

二、奇襲作戦

1、努めて奇襲作戦を行い、特に好機敵艦隊を其の前進根拠地に奇襲漸減するに努む。

2、潜水艦、飛行機、特殊奇襲兵器などを以ってする各種奇襲戦の実施に務む。

3、局地奇襲兵力は之を重点的に配備し、敵艦隊又は敵進行兵力の海上撃滅に努む。

 

この奇襲作戦特殊奇襲兵器局地奇襲兵力が「特攻」を指すことは明白であり、この指示は、軍令部が

「十死零生」の全軍特攻を決意したことを示している。

 

昭和19年7月末、「○六兵器」の試作が完成

呉の大入沖で航走試験が実施された。試験の成功により「○六兵器」は正式兵器として採用、「回天」と

命名され、9月になって山口県徳山湾口の大津島に訓練基地が開隊した。

神風特別攻撃隊敷島隊の突入より遅れること一ヶ月、11月20日に回天特別攻撃隊の第一陣菊水隊

はウルシー泊地を攻撃し、米油槽艦ミシシネワを撃沈している。

 

昭和19年 8月 6日、戦備考査部会議

黒島亀人軍令部第二部長が「戦闘機による衝突撃」を提案。

 

昭和19年 8月16日、人間爆弾「桜花」が製造開始

「桜花」を使用する特攻作戦のために神雷部隊が新編成されたのは、大西中将がマバラカット基地で

「体当り攻撃」を提案した昭和19年10月19日より三週間さかのぼる10月 1日だった。

 

昭和19年10月 8日大西中将

軍令部に「航空機による体当り攻撃」の決意を上申

及川軍令部総長の見解「命令で実施することの無いように」

 

軍令部の源田 実参謀の起案になる10月13日付けの電報

大海機密第二六十九一七番電

神風攻撃隊の発表は全軍の士気請昂揚並びに国民戦意の振作に至大の関係ある処 各隊攻撃実施の

都度 純忠の至誠に報い攻撃隊名(敷島隊、大和隊、等)をも併せて適当の時期に発表のことに取計い

たし。貴意至急承知致度」

大西中将が捷一号作戦の完遂を期して、マバラカット基地で「体当り攻撃」を提案したのは昭和19年10月

19日で、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊が出撃したのは10月21日である。

(敷島隊は敵機動部隊を発見できず、四回帰投ののち25日に体当りを敢行)

この電文は特攻作戦が正式発令される一週間前に発信され、「神風」の名称も、大西中将が本居宣長の

和歌から名づけたといわれる隊名も、既に記載されている。

 

 

つまり特攻作戦の実際の起案・推進者は軍令部であり、特攻兵器の研究・開発は神風特別攻撃隊敷島

隊が編成される以前から、既に各方面に亘り組織的に進められていた。

 

「神風」のように既存の兵器を使用する特攻と、「回天」や「桜花」のように新たな開発を伴う特攻とでは、

おのずから判断基準が異なってしかるべきである。

兵器の新規開発は高度な技術力と膨大な経費を伴い、国家的プロジェクト的な裏付が無ければ実現

は不可能である。

にもかかわらず、既存兵器を使用する「神風」よりも早い時期に、新規開発兵器としての「回天」や「桜

花」の試作・生産は開始されており、部隊の編成も「桜花」の方が早かった。

 

「特攻」という人間の肉体を兵器の一部とする戦法の原動力は、組織的な計画のもとに「作戦」を進行

させた軍中央部にあることを物語っている。

 

昭和20年 1月18日、最高戦争指導会議

全軍特攻化を決定

 

 

未曾有の国難に接した時、憂国の情にかられた若い士官達が「特攻作戦」の採用を嘆願し、そして幾

多の若者達が「特攻隊」に志願した。

殉国の精神に燃え祖国の勝利を信じて、従容として出撃・発進していった若い搭乗員達の至純な精神

は、未来永劫消えることは無い。

 

特別攻撃隊の戦死者(直接人数)

  

種   別

戦死者数

海   軍

航   空 2,523
海   中 544
海   上 1,081
8,098

陸   軍

航   空 1,411
海   上 263
1,674

合            計

5,822

しかし特攻隊員の崇高なる犠牲に比して、その戦果は意外にも少ない。

 

特攻の系譜

更新日:2001/10/07