天 理
大和海軍航空隊
太平洋戦争の末期、本土決戦に備えるべく特攻基地として建設され、練習機による
訓練が行われていた。戦後、アメリカ軍がしばらく使用していた。
基地跡
奈良県天理市
戦闘指揮所の防空壕
掩体壕基礎
基地建設のため強制移転を余儀なくされた白堤神社跡の碑
碑文(裏面)
広大なる海軍航空隊大和基地跡
滑走路跡を走る生活道路
教育委員会による案内板
大和海軍航空隊大和基地(通称、柳本飛行場)跡について
一九九四年(昭和十九年)九月十五日から、大和海軍航空隊の飛行場(通称、柳本飛行場)の建設が
始まりました。建設事務所は、柳本駅西側に置かれ、労働者の宿舎も建ち、一般団体からの勤労奉仕
も加わって工事が進められていきました。飛行場用地は300ヘクタールといわれ、そのうち270〜280ヘ
クタールは、朝和村領でした。同村の田畑全耕地面積が500ヘクタールといわれ、55%以上が軍公用に
徴収されました。(天理市史より抜粋)工事は、川の付け替えから始まり、神社、寺、墓地なども廃棄や
移転が命ぜられました。
この建設工事には、多くの朝鮮人などが動員や強制連行によって、柳本の地へつれてこられ、厳しい
労働状況の中で働かされました。強制連行された人たちは、次のように証言しています。
「寝ているときに急に人が入ってきて連れて行かれた。1943年の秋だ」
「トラックで運ばれたあと、貨物列車に乗せられて、着いたのが柳本だった。何百人といた。
私の村からは4人いた。とにかく多かった」
「朝五時半に起きて、飛行場建設にあたった。沖縄戦が始まってからは、夜にも(山の斜面
に)トンネルを掘らされた」
「朝鮮人強制連行と天理柳本飛行場」(奈良発掘をする会)より抜粋
また「慰安所」が設置され、そこへ朝鮮人女性が、強制連行された事実もあります。その女
性達の過酷な半生は戦後一切わかっていません。平和を希求する私たちは歴史の事実を
明らかにし、二度とくりかえしてはならないこととして正しく後世に伝えるためにこの説明板
を設置いたします。
(当HP製作者注:説明板に記載された内容を原文のまま掲載いたしました)
更新日:2003/05/26