有馬正文
海軍中将
略歴
明治28年 9月25日 鹿児島県日置郡伊集院村出身
大正 4年12月16日 海軍兵学校卒業(43期)
昭和12年12月 1日 水上機母艦「神川丸」艦長
昭和14年11月15日 横浜航空隊司令
昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃
昭和17年 5月25日 航空母艦「翔鶴」艦長
昭和17年 8月24日 第二次ソロモン海戦参加
昭和17年10月26日 南太平洋海戦参加
昭和18年 2月16日 航空本部教育部長
昭和19年 4月 9日 中部太平洋艦隊第二十六航空戦隊司令官
昭和19年10月15日 一式陸攻に搭乗し体当り敢行、散華(享年49歳)
昭和19年10月20日 神風特別攻撃隊敷島隊編成
第二次ソロモン海戦
有馬艦長は日没後、「我、不時着す」と発進したまま消息を断った見方機を、危険な海面で探照灯
で照らすという行動をとってまで捜索を行い、自らも艦橋に登って双眼鏡を構えた。それは愛児の
行方を必死に求める慈父の姿であった。
南太平洋海戦
米艦爆機の攻撃により爆弾四発を受けた「翔鶴」を、機動部隊司令部は戦場より離脱・後退させて
修理させようとした。その時、有馬艦長は司令官・南雲中将、参謀長・草鹿少将に対して激しく
意見具申を行った。
「本艦は高速で動けます。このまま進んでください。翔鶴がこのまま進んで敵の爆弾を吸収できたら、
それだけ味方が助かるではありませんか。どうかこのまま進ませてください。」
「翔鶴」を囮にして敵艦を引き寄せ、「瑞鶴」を中心とする残存兵力で米空母を壊滅させようとしたの
である。
有馬艦長は、南太平洋海戦で損傷した「翔鶴」の飛行甲板の破片を自宅に持ち返り、一片一片に
「壮烈」の二文字を精魂傾けて墨書し、戦死者の遺族に送った。その数は150枚に及ぶという。遺
族からは「家宝として残したい」という感謝の手紙が次々に届けられた。
昭和19年10月15日
米機動部隊はマニラ東方に南下し、在比島の海軍七〇四飛行隊の一式陸攻撃3機の雷装出撃した。
これに海軍二五一飛行隊の艦攻10機、海軍二〇一飛行隊の零戦10機、陸軍第十六飛行団の戦
闘機70余機が同行した。
部下の制止を振り切るように機上の人となった有馬司令官は、米機動部隊へ突入し雷撃を敢行した
のち、敵航空母艦への突入を試みて撃墜されたと言う。
部下思いの有馬司令官は、戦死した部下たちの弔い合戦に海軍伝統の指揮官先頭の攻撃を行い、
自らの運命を顧みることなく若者たちの魂の宿る所へ身を運んだ。
このニ、三日前、有馬司令官は吉岡先任参謀に、自らの攻撃隊同乗による空中指揮について問答
を繰り返していた。15日の朝、有馬司令官は吉岡参謀にバタンガス飛行場の視察を命じた。バタン
ガスに着いた吉岡参謀は、有馬司令官の出撃と自爆の報告を聞き「しまった」と思った。一航艦司令
部の猪口先任参謀に面談した吉岡参謀は、「有馬司令官は七六一空の爆撃機に搭乗して攻撃隊を
指揮すべし」という追認命令を出してもらうことを申入れた。この願いは入れられた。
最期の別れ
昭和19年10月某日未明、有馬司令官の妻・文子さんは、郷里の鹿児島県伊集院村にある熊野神
社の参道に立ってた。突然、目の前に結婚したときに新調した大島に袴をつけ、にこにこ笑いながら
石段を降りてくる夫の姿が現れた。驚きながら夫の足元を見ると、片方の足袋のこはぜが掛かって
いない。しゃがんでこはぜを掛けてやると、夫は微笑をうかべ「やっぱり奥さんは、よか人をもらうもん
だね」と言いながら、石段を降りていった。
とたんに夢は破れた。
熊野神社
鹿児島県日置郡伊集院町
有馬中将が帰省のたびに武運長久を祈願した郷社
広済寺墓地
鹿児島県日置郡伊集院町
有馬海軍中将墓碑
更新日:2001/07/31