戦車特攻
イリサンの戦車特攻
昭和20年 4月、比島の米軍はM4戦車を先頭に日本軍司令部のあるバギオに迫っていた。
第14方面軍司令部の山下奉文大将は、直轄の戦車隊(戦車第10連隊、第5中隊)に対して、
「敵戦車隊の突進阻止」を命じた。
撰ばれた11名は「我々に出来ることはM4に体当りして爆砕するだけです」と言って、恩寵の酒
を酌み交わし、爆雷20キロを架装した95式軽戦車と97式中戦車に分乗し、昂然として朝靄の
なかに消えていった。
95式軽戦車 97式中戦車
4月17日午前9時、米戦車隊はバギオの西方10キロにあるイリサンに現れた。敵の先頭車は
日本戦車隊の出現に驚いて操行を誤り崖下へ転落、日本戦車隊は第二車・第三車へ爆雷によ
る体当りを行い、日本戦車隊の11名は玉砕、日米の戦車4台が炎上して隘路を塞いだ。
この攻撃によって米軍の進攻は一週間遅延し、日本軍は整然と転進作戦を行うことが出来た。
日本の戦車
第二次世界大戦における戦車の発達は目覚しく、ヨーロッパ戦線ではまさに「鉄と鉄の戦い」
であった。日本でも本格的な対戦車戦闘用戦車の研究・開発が進められ、開戦時にはソ連、
ドイツに次ぐ世界三位の戦車国となったが、戦局の悪化に伴い戦車を量産するだけの国力
は残っていなかった。
尚、終戦時には、本土決戦に備えて約1,000両の戦車が国内に配備されていた。
昭和20年9月 栃木県佐野市で解散式を行う戦車第一連隊第三中隊
若獅子神社
静岡県富士宮市
神社の由来
若獅子神社はさきの大東亜戦争において 若獅子の名のもとに勇戦奮闘 悠久の大義に殉じた
陸軍少年戦車兵学校の教官・生徒 六百有余の御霊を御祭神として 永久祭祀の途を拓くため
昭和59年10月神社を創建しました
陸軍少年戦車兵学校跡の碑 隊門
碑文
此の地は陸軍少年戦車兵四千有余が 志操を練り心技を磨きし不滅の聖城なり
若獅子の塔
塔徴
聳ゆる直ぐなる塔は 純忠一途に国に殉じた若獅子の魂が天に連なる崇高な姿であり 神像は千
尋の険崖に挑む若獅子の姿で まさに初陣に赴かんとする烈々たる気魄をあらわしたものである
97式中戦車
帰還戦車の由来
かつての大戦において 陸戦の華 少年戦車兵とともに活躍した機甲部隊の主力に九七式
中戦車(チハ式)がありました
この戦車はもっとも熾烈を極めた玉砕の島サイパンにて 四十余名の少年戦車兵とともに
勇戦奮闘 祖国の礎となり 戦後三十年土中深く無縁をかこっておりましたが このたび一
有志の悲願がかない この母なる地に還り安置したのであります
無数の弾痕は戦争の激しさを訴え 満身の赤錆はたたかいの空しさを語り 平和の尊さを
教えています
ここに若獅子の御霊とともに永く平和の道標として 顕彰されんことを希うものであります
更新日:2002/03/08