航空母艦
雲龍
艦歴
昭和17年 8月 1日 起工(横須賀海軍工廠)
昭和18年 9月25日 進水
昭和19年 8月 6日 竣工
昭和19年12月19日 東シナ海宮古島沖において米潜レッドフィッシュの雷撃を受け沈没
戦時艦船建造及航空兵力拡充計画
昭和16年8月、日本海軍は戦力整備計画である「昭和十六年度戦時艦船建造及航空兵力拡充計画」
を策定、建造が比較的容易な中型空母の整備計画が盛り込まれ、雲龍型航空母艦の開発が開始され
た。計画では1隻のみの予定だったが、ミッドウェー海戦で空母4隻を喪失した事から15隻の整備計画
に改訂された。
しかし、その後の戦局悪化に伴う資源不足等により実際に起工されたのは6隻のみであり、竣工したの
は3隻(雲龍、天城、葛城)であり、後の3隻(笠置、阿蘇、生駒の)は途中で建造が中止された。
尚、終戦までに2隻(雲龍、天城)が戦没、終戦まで健在だったものは葛城1隻のみ。
捷一号作戦の敗北後、軍令部はレイテ湾への再突入計画(神武作戦)を立案、雲龍型はその際の主力
と位置づけられ雲龍と天城は第一航空戦隊を編成したが、台湾沖航空戦で搭載する航空機を失い、ま
た捷一号作戦の敗北により組織的な艦隊行動が不可能となったため作戦は中止され、空母機動部隊と
して活躍する事はなく重量物輸送船として用いられた。
昭和19年12月19日
雲龍はフィリピン方面への物資輸送任務中に東シナ海宮古島の北北西230浬付近において米潜レッドフ
ィッシュから右舷に雷撃を受け、更に右舷に被雷し直後に物資が誘爆し沈没した。
搭載物資は特攻兵器・桜花30機であった。
桜花の誘爆により「総員退去」が下令されたが砲術課は全員退去せず、沈没するまで敵潜の潜望鏡に向
けて射撃を続行したと伝える。
戦死者
雲龍乗組員 1,240名
便乗の第六三四海軍航空隊、陸軍滑空第一歩兵連隊、比島方面赴任中の海軍将兵を含め約3,000名
佐世保海軍墓地
長崎県佐世保市
航空母艦雲龍戦没者慰霊碑
碑文
南海のはてに 沈みて逝きし み魂ら とわにあらむ 佐世保の星に
航空母艦雲龍戦没者慰霊碑
更新日:2009/10/04