比島顕彰
潮音寺
神奈川県小田原市
比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊戦没者英霊 平和観音
碑文
親を子を妻はとよびて逝きしとも 静かに眠むる平和のいしぶみ
静岡縣護國神社
静岡県静岡市
比島派遣 独立歩兵第百六十四大隊
献歌
名も知らぬ異国の土を朱にそめし みたまをまつり長く祈らむ
泉第五三一六部隊 殉国碑
碑文
去る太平洋戦争において 主として本県出身者により構成された泉第五三一六部隊は 内蒙古の厚和
に在って幾多の作戦警備に任じ 昭和十九年七月フィリピンに転戦した 途中部隊の一部はバシー海峡
において魚雷攻撃を受け軍艦とともに海没 残る主力はレイテ島の決戦に臨み死闘すること半歳 矢尽
き刃折れレイテの地を朱に染め遂に全員玉砕した
遠い異境の地に飢えと疲労に耐えながら散華された我が勇士ゆかりの地に何かを遺し 永遠に之を顕彰
したい心が結集され 昭和三十三年二月泉五三一六会を結成し会員の一致協力により同年九月ここに念
願の殉国碑を建立し 毎年秋分の日にこの碑の前で慰霊祭を行っている
福井縣護國神社
福井県福井市
比島戦没英霊之碑
大津市民文化会館
滋賀県大津市
歩兵第九連隊之跡
昭和16年、太平洋戦争が勃発するやマニラ・バタン半島の作戦に参加。
昭和19年12月 8日、レイテ島にて玉砕。
兵庫縣姫路護國神社
兵庫県姫路市
鉄五四五四部隊「比島散華」碑
碑文
鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十戦隊)は昭和十九年七月満州国三江省佳木斯
において動員下令。翌八月同所を出発台湾防衛の任に就く。同年十二月比島作戦参加
の為め高雄港を出発主力を以てマニラ及アパリに上陸す。途中主力の乗船する乾端丸
は敵潜水艦の攻撃を受けて轟沈部隊長鍋島少将以下多数の戦友を失う。昭和二十年
一月中部ルソン島ハレテ峠付近に集結米軍迎撃の準備を整ふ。同年二月優勢なる米軍
は空陸呼応して我が陣地正面に対し攻撃を開始す。此処において戦隊は第一大隊をし
て第一線部隊に対する補給を継続せしむると共に第二大隊をして其の補給任務を解除
し之を歩兵部隊に改編し第一線陣地の守備に就かしむ。恰も我が第二大隊陣地正面は
米軍の主攻撃方向に当りたる為其の戦闘は惨烈を極め全員勇戦奮闘せるも戦況我に
利あらず大隊長以下多大の犠牲者を出すに至れり。かくの如くして此の方面において激
戦を継続すること半年有余部隊は爾後の作戦準備の為ビノンカシブを経てビナバガン
に向かひ転進を開始せり。此の間人跡未踏の山岳地帯にして進まんとすれど道無く食
はんとすれど糧なく将兵の疲労困憊は極度に達し遂に力尽きて倒るるもの数を知らずか
くして八月初めピナバガンに到着戦闘準備を完了す。此の時における部隊の生存者は
百有余名なり。昭和二十年九月十一日終戦を知る。戦後十有三年を経て昭和三十三年
四月政府の手により我等念願の比島方面遺骨収集が行われ幸いにしてこれが分骨を
受く。此処に生存者同志相寄り護国神社境内に石碑並びに献木し亡き戦友の偉勲を讃
へ其の霊を弔ふ
岡山縣護國神社
岡山県岡山市
比島海軍戦没者招魂碑
碑文
十九四四年一〇月二〇日 約二十万の米軍が比島フィリピンのレイテ島に上陸し ここ
に苛烈な比島攻防の火蓋が切られました 我が連合艦隊が全軍突撃を以って決戦を挑
んだ比島沖海戦も 艦艇航空機多数を喪失し惨敗を喫しました
爾後 米軍は比島各島嶼に次々上陸 所在の海軍部隊は陸軍と協同して善戦力闘しま
したが 圧倒的な火力の相違と無限とも言える彼等の武器弾薬の補給に対し 当方のそ
れは無に等しく各部隊とも止む無く山中に立て籠って遊激戦に転じました
撃つに弾丸無く 生命の糧の塩も尽き 草根木皮を食みながら歯を食いしばって頑張っ
た将兵は 米軍の急追と風土病や栄養失調で次々と弊れ 万斛の涙を飲んで異境の土
と化したのであります
此の碑は 遺族戦友相計り 比島海軍関係全ての戦没者(外国人も含む)約十万の御
霊を永遠にお祀りするため建立されました
毎年八月最後の日曜日に招魂祭を行っています
鳥取縣護國神社
鳥取県鳥取市
比島戦没者慰霊碑
更新日:2005/12/10