駆逐艦 初霜

 

 

艦歴

昭和 9年 9月27日 浦賀船渠で竣工、第一水雷戦隊第二十一駆逐隊に所属

昭和16年12月 8日 内海西部で対潜掃蕩に従事

昭和17年 1月23日 ダバオ出撃、ケンダリー攻略作戦

昭和17年 2月 6日 ケンダリー出撃、マカッサル攻略作戦

昭和17年 2月18日 マカッサル出撃、バリ島攻略作戦

昭和17年 2月 6日 アリューシャン作戦などに参加

昭和17年 5月 1日 砲術学校・潜水学校の教練作業に従事

昭和17年 5月25日 大湊出撃、アッツ島沖海戦

昭和17年  月  日 第五艦隊第一水雷戦隊に編入、内地と千島間の船団護衛に従事

昭和17年10月26日 幌莚発、アッツ島再占領作戦に従事

昭和17年11月24日 大湊発、セミチ攻略作戦に従事

昭和18年 7月 7日 幌莚発、「ケ」号作戦(第一次キスカ撤収作戦)

昭和18年 7月22日 幌莚発、「ケ」号作戦(第二次キスカ撤収作戦)

昭和18年11月  日 空母「雲鷹」「千歳」「瑞鳳」「龍鳳」などの護衛に従事

昭和19年 6月16日 ダバオ出撃、あ号作戦(マリアナ沖海戦)

昭和19年10月  日 第1水雷戦隊の志摩艦隊に属し、台湾からマニラへの輸送任務

昭和19年10月23日 マニラ出撃、捷一号作戦(比島沖海戦)

昭和19年10月24日 スルー海を南下中、米艦載機の攻撃を受け損傷

昭和19年10月31日 マニラ出撃、第二次多号作戦

昭和20年 2月10日 シンガポール出撃、北号作戦

昭和20年 4月 6日 徳山出撃、菊水作戦

昭和20年 4月 7日 坊の岬沖海戦

昭和20年 4月 8日 沈没した「矢矧」「浜風」の生存者を救助し佐世保に帰投

昭和20年 6月  日 宮津湾で砲術学校練習艦

昭和20年 7月30日 米機の攻撃を受け対空戦闘中、任意擱坐のため湾内を移動中に触雷し艦尾から沈み始め擱坐

.              日本駆逐艦で最後の戦没艦となった

昭和20年 8月15日 終戦

昭和20年 9月  日 浮揚され舞鶴にて解体

昭和20年 9月30日 除籍

 

戦後の逸話

山田記念病院の創立者・山田正明医学博士は、大阪帝国大学医学部を卒業後、大学の医局を経て

日本海軍の軍医として駆逐艦初霜の軍医長等を歴任し、海軍軍医少佐として任務を終了した。

山田記念病院は昭和22年10月墨田区に山田病院を開設したことに始まり、同院のシンボルマーク

は「錨」である。

 

 

山田記念病院のシンボルマーク

病院の説明

当院のシンボルマーク「錨」は、病院正面玄関にある錨をあらわしたものです。

当院の創立者であります山田正明が戦前に海軍々医少佐であった時代の思い出のものです。

 

山田記念病院

東京都墨田区

駆逐艦初霜の錨

説明版

この錨は歴史ある日本海軍駆逐艦「初霜」の錨である。初霜はさきの大戦に北はアリューシャン、南は

佛印、シンガポール、比島にわたる広い太平洋海域で勇戦、最後は昭和20年4月戦艦大和沖縄特攻

作戦にも参加し、同年7月30日宮津湾にて対空戦闘中触雷擱座して任務を終った。終戦時には日本

海軍の駆逐艦203隻の多くが遠い海に沈み、残存の33隻のうちほとんどを連合国に接収された。

初霜は日本に残り解撤され、その錨がこれである。

私は昭和15年軍医長として初霜に乗組み作戦に参加した。縁あって私のところに来たこの錨を伝統あ

る帝国海軍の遺産として長く後世に残しておきたい。

昭和54年 5月 山田記念病院初代院長 元海軍々医少佐  山田 正明

 

  

駆逐艦初霜の錨

 

佐世保海軍墓地

長崎県佐世保市

  

初霜慰霊碑

 

連合艦隊

 

更新日:2009/01/07