有賀幸作

海軍中将

 

略歴

明治30年 8月21日 長野県上伊那郡朝日村出身

大正 6年11月24日 海軍兵学校卒業(45期)

               練習艦「磐手」乗り組み

大正 7年12月 1日 海軍水雷学校普通科学生

大正 8年 5月23日 海軍砲術学校普通科学生

大正 8年12月 1日 駆逐艦「水無瀬」乗り組み

大正 9年 4月 1日 駆逐艦「子の日」乗り組み

大正 9年12月 1日 駆逐艦「曙」乗り組み

大正 9年12月25日 駆逐艦「葵」乗り組み

大正11年11月20日 戦艦「長門」分隊長心得

大正13年12月 1日 駆逐艦「秋風」水雷長

昭和 2年12月 1日 巡洋艦「那珂」水雷長

昭和 3年12月10日 巡洋艦「木曽」水雷長

昭和 4年11月 1日 駆逐艦「夕顔」艦長

昭和 5年12月 1日 駆逐艦「芙蓉」艦長

昭和 7年12月 1日 駆逐艦「太刀風」艦長

昭和 8年11月15日 駆逐艦「松風」艦長

昭和 9年11月 1日 駆逐艦「雷」艦長

昭和10年10月15日 鎮海要港部参謀

昭和12年12月 1日 巡洋艦「川内」副長

昭和14年11月15日 第二艦隊第二水雷戦隊第十一駆逐隊司令

昭和16年 7月 2日 第二艦隊第四水雷戦隊第四駆逐隊司令

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃参加

昭和18年 3月  日 巡洋艦「鳥海」艦長

昭和19年11月 6日 戦艦「大和」艦長

昭和20年 4月 5日 沖縄海上特攻作戦決定

昭和20年 4月 7日 九州南西海面にて米空母艦載機延べ三八六機と交戦

               「大和」沈没、散華(享年49歳)

 

ご子息の回想

4月7日夜、父と酒を酌み交わしている夢を見た。父は一言も言わず、自慢の軍刀を差し

出した。押し戴こうとしてハッと目が覚めた。「親父は戦死したな」と直感したという。

 

法性神社

長野県上伊那郡辰野町

有賀幸作君記念碑

碑文(前面)

国に捧げた君たちの尊いいのちよ

とこしえに世界平和のいしずえたれと祈る

碑文(裏面)

太平洋戦争の悲劇を再び繰り返すことのないために、私たちはこの碑を建てた。

昭和二十年四月日本海軍は戦艦大和を旗艦として、残存僅か十隻を以て海上特別攻

撃隊を編成し、沖縄に突入しようとしたが、進撃の途上敵機の猛烈な攻撃に遭い、種子

島西方海上において遂に敗滅した。

その時巨艦大和に艦長として坐乗していたのは、平出出身の有賀幸作君であった。

君は艦の沈没に先立ち総員退去を命じ、艦橋のコンパスに身を縛り艦と運命をともに

した。

私たちは君と共に祖国のために、壮烈な戦死を遂げた多くの将兵の心情を偲び、日本

海軍の最後の日を眼に浮かべる。

 

有賀幸作君記念碑

 

見宗寺

長野県上伊那郡辰野町

有賀中将ご夫妻の墓碑(手前)

 

沖縄決戦

更新日:2010/08/24