大田正一
海軍大尉
略歴
大正 1年 8月23日 山口県熊毛郡室津村出身
昭和 3年 6月 日 呉海兵団入団
昭和 7年 4月 日 第二十期偵察練習生採用
昭和15年 5月 2日 予備役編入、即日召集、木更津海軍航空隊教員
昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃
昭和18年 3月 日 第三艦隊司令部付き
昭和18年 月 日 第十一航空艦隊司令部付き
昭和19年 4月 1日 第一〇八一海軍航空隊(輸送機部隊)付き
昭和19年 5月 日 1081空分隊長太田正一少尉が「人間爆弾」を構想
昭和19年 6月 日 太田少尉が「人間爆弾」構想を空技廠に提案
空技廠は航空本部に進達、航空本部にて研究
昭和19年 8月 日 太田少尉が「人間爆弾の私案」を航空本部に提出
私案協力:東大航空研究所、三菱名古屋発動機製作所
昭和19年 8月16日 航空本部が「○大部品」の秘匿名称で空技廠に試作命令
昭和19年 8月18日 軍令部黒島少将が軍令部会議で「○大兵器」を発表
昭和19年 8月18日 航空技術廠付き
昭和19年 8月25日 空技廠にて風洞実験を実施
昭和19年 8月28日 軍令部源田大佐が軍令部会議で用法、兵力を提案
昭和19年 8月 日 航空本部が「○大兵器」を「桜花」と命名
昭和19年 9月15日 「桜花」を基幹とする特攻専門部隊の編成準備開始
昭和19年10月 1日 第七二一海軍航空隊(神雷部隊)付き
昭和20年 2月15日 第七二二海軍航空隊(龍巻部隊)付き
昭和20年 8月15日 大東亜戦争終戦
昭和20年 8月18日 神ノ池基地を零戦で発進、鹿島灘で自決未遂
漁船に救助され宮城県、鳴子陸軍病院に入院
昭和20年 9月 5日 七二二航空隊司令発「海軍軍人死亡の件報告」
大田正一「死亡認定」
昭和22年 月 日 北海道で樺太からの引揚者に混じり新戸籍を作成
昭和22年 月 日 「青木 薫」を名乗り神ノ池に居住
昭和22〜24年頃 日本各地を転々と移動
昭和24年 6月 日 「北海道へ行く」と外出したまま行方不明
昭和31年11月20日 呉地方復員部「内地死没者名簿」作成
大田正一「航空殉職」「戸籍抹消済」と記載
昭和51年 月 日 「横山道雄」を名乗り大阪に居住
平成 6年12月 7日 京都バプティスト病院にて病死(無国籍)
利用された経歴
大田正一は、兵卒から叩き上げられた応召の特務士官で、しかも当時は予備役であった。
海軍の主流は海軍兵学校を卒業した兵科士官であり、彼のような経歴で意見具申をしても、
途中で握り潰されるか長大な時間がかかるのが常であった。にもかかわらず大田の「桜花」
プランが採用されるまでの期間は、あまりにも短すぎる。これは軍令部が「兵卒から盛りあが
った特攻」というイメージを強調するために、大田の経歴を有効に?利用したものと推測される。
投下された「桜花」
人道に対する罪
大田正一は、戦後家族を捨て名前を変えながら、身を隠すように全国各地を転々とした。
なぜか。
終戦後、戦争犯罪人を罰する罪の一つに「人道に対する罪」があった。特攻計画の中枢に
いたある軍令部参謀は、大西中将の自決により全責任を大西中将に負わせ、自分は安全
圏に身を置いた。その参謀は「桜花」計画の全貌を秘匿するるため、大田正一に「戦争犯
罪に時効は無い」と脅していた形跡がある。自決を試みて未遂に終わり全国を逃げ回る大
田正一には、「人道の罪」「戦争犯罪の時効」の定義を調査する精神的余裕、相談
相手は無かったのだろうか。
その軍令部参謀は戦後、自衛隊を経て参議院に当選したが、精神を患って病院に隔離さ
れ、看取る家族も無く死んだという。
更新日:2001/07/31