女川防備隊

 

昭和20年 8月 9日早朝より10日夕刻まで、女川防備隊は米・英・加連合軍機動部隊の艦載機から

空襲を受け、防備隊に所属する標的艦「大浜」・海防艦「天草」・第42号駆潜艇の三隻とも大破着底。

防備隊員及び所属艦艇乗組員 150余名が戦死。

 

女川湾

宮城県牡鹿郡女川町

女川湾戦没者慰霊塔

碑文

太平洋戦争苛烈を極めたる昭和二十年八月九日、十日両日に亘り 女川湾内所在の日本海軍防衛隊

及び巡洋艦大浜以下五隻は 連合軍機動部隊の艦載機と激戦して数機を撃墜し捕虜一名を得たるも 

艦艇悉く沈没し海軍主計少佐飯田寛吉殿以下百五十七名の戦死をみたるは洵に悼惜にたえず 然る

に右防衛隊の生存者神田義男氏は昨年東南アジア、沖縄等の戦跡を弔い深く感ずる所あり 町内有

志の賛同を得て慰霊塔を建立せんと発願し余に撰文を求む 依って不文を顧みず梗概を録し以て英

魂を慰む

昭和四十一年一月十日  女川町長 木村主税撰文

 

巡洋艦大浜 …標的艦大浜の誤記。

 

  

女川湾戦没者慰霊塔に供えられた錨

 

女川防備隊 嵐部隊戦歴

碑文

太平洋戦争日増に酣となり 女川港は海軍の要港として女川防備隊の任務は益々重大を極め 明治丸以下

三十数隻の艦艇は三陸沖に於て連合軍の対潜対空監視の警備につき 司令海軍大佐副島種臣以下将兵千数

百名を擁し 昭和十八年以降敵潜水艦数隻を撃沈し 数隻を撃破し 横須賀鎮守府司令長官より部隊感状

を受くるも 我軍も明治丸、第三鶴丸、桐丸、東郷丸、新東北丸、四十八号駆潜艇外十数隻を失うに至る

又二十年八月九日、十日の戦闘に於て数機の敵機を撃墜せしが 我が軍も三十三号掃海艇、金剛丸以下数

隻を失う 一方牡鹿半島全域に亘り第十四突撃隊嵐部隊司令海軍大佐大田春男以下将兵約四千人は特攻基

地を設け 海天回龍を主として二百数十隻の特攻兵器を配備し本土決戦に備え設営中なるも終戦となる

謹みて神州不滅を信じ同方面作戦に於て殉國の英霊となられし将兵に対し 深甚なる弔意を表し御冥福を

祈る

昭和四十一年八月十日  神田義男建之

 

海天回龍 …回天、海龍の誤記。更に女川湾に回天は配備されなかった。

 

女川防備隊所属艦艇 戦没者供養塔

 

天草会 奉納石灯籠

 

択捉型海防艦天草

 

碕山展望公園

宮城県牡鹿郡女川町

 

グレー大尉記念碑

碑文

カナダ海軍パイロット、ビクトリア勲章・特別功労賞受章、カナダ海軍義勇予備役R.H.グレー

大尉(1917〜1945)の栄誉を記念して、この記念碑を建立した。

1945年8月9日、グレー大尉は艦載機編隊を率いて女川湾の日本帝国海軍艦艇を果敢に攻撃し、

勇敢なる防備隊の正確な砲火によって乗機が被弾、大破するも、なお攻撃を指揮し続けたが燃える

乗機が操縦不能に陥り湾内に墜落した。

武勲により死後カナダの最高勲章ビクトリア勲章を授けられ、第二次世界大戦における最後のカナ

ダ人戦死者となった。

昨日の敵は今日の友となり、女川の人々は多大の好意をもってこの記念碑の建立を援助した。

この碑がこの戦闘の戦没者全員の霊を慰め、平和と我等両国の友情の変わらぬ徴しとならんことを。

 

女川湾

 

標的艦大浜

昭和20年 1月10日 三菱横浜にて竣工、横須賀鎮守府籍となり連合艦隊付属に編入

              甲板に多数の機銃が配置され、標的艦より護衛艦としての機能を優先していた

昭和20年 8月 9日 宮城県の女川港に入港、米艦載機の攻撃を受け浸水、着底

昭和20年 9月15日 除籍

 

択捉型海防艦天草

昭和18年11月20日 日立桜島造船所にて竣工、第二海上護衛隊に編入

              船団護衛任務に従事

昭和20年 2月16日 伊豆大島東方にて敵機の銃撃を受け損傷

昭和20年 8月 9日 女川港にて米艦載機の攻撃を受け沈没

昭和20年 9月15日 除籍

 

第四十二号駆潜艇

昭和18年 5月31日 日立造船)因島工場にて竣工

昭和20年 1月22日 父島近海にて触雷し損傷

昭和20年 7月31日 大崎沖にて米潜水艦ソーンバックの攻撃を受け損傷

昭和20年 8月 9日 女川港にて米艦載機の攻撃を受け大破、擱座

昭和20年 9月15日 除籍

 

本土決戦

更新日:2009/12/23