甲飛第十三期殉國之碑保存顕彰会
関西甲飛十三期会 公認ホームページ
会報「總員起こし」 第29号/平成13年
渡辺 和子
桜井昭雄(奈良空− 青島空−戦病死)の姪
「戦没した伯父『桜井昭雄』のこと」
私には昭和二年生まれの伯父がいます。
戦争末期、十七歳で予科練(甲飛十三期後期)に志願し、卒業して中国の青島の飛練に進み、
昭和二十年九月に戦病死しました。
まだ十八歳でした。
戦後半世紀余りが過ぎ、私は今、伯父が予科練に志願した当時の祖母とほぼ同い年になっています。
数年前から盛んに論議されるようになった従軍慰安婦問題、日本の近代史のとらえ方、子どもたちの使う歴史教科書の
内容記述をめぐる論議などをきいているうちに、この問題の中には今の世の中の根底を流れる大きい問題がそっくり
含まれているような予感がして、以来興味を持って追ってきました。
半世紀余り前の戦争がどういう歴史の流れの中で起きたのか、日本が世界の国々との関係の中でどう歩いて来て
これからどう歩こうとしているのか、国と国民との関係・責任、次の世代に何を伝えていくのか、……
どれも普通の母親・主婦の私にとって、手に余る大きすぎるテーマです。
こういう疑問を、自分につながっている戦死した伯父を知ることを通して、具体的に少しづつでいいから自分なりに
わかるようになりたいと思うようになりました。
まず手掛かりになったのは伯父の遺品のアルバムを青島から持ち帰り、実家に届けてくださった方のお名前がわかったことでした。
この方は伯父とは班も違っていたため余り詳しくはご存じないとのことでしたが、同じ分隊の同じ班で青島に行っていた方々数名の
ご住所とお名前を丁寧に調べてくださいました。
この数名の方々宛に伯父のことを知りたい旨、手紙を出しました。
そこからはまるで扉が開いていくようでした。
戦友の方々は伯父のことを覚えていてくださり、電話や手紙が続々と届き始めたのです。
ある方は私の手紙をコピーしてさらに知っていそうな同班の戦友たちに伝えてくださいました。
(この方は入院中だったというのに病院にいながらこれらのことをしてくださいました。)
そのうち、予科練・飛練を通して戦友だったという方も名古屋にご健在であるとこともわかりました。
白い制服姿のその方の写真も伯父のアルバムにありました。
その方とも連絡がとれました。
「伯父さんのことを調べておられるんですってね。……昭雄は無二の親友でした。……お会いしたいですねえ。」
私も是非お目にかかって直接お話しを伺いたいと思いました。
名古屋に行くことにしました。この方は近年心筋梗塞などを患い無理のできないお体とのことでした。
「会いましょう、と言っても私の顔わからんでしょう。」
「あのぅ、十七歳の時のお写真なら伯父のアルバムにありますが……」
「あははは……、ぼくはもう七十歳の白髪の年寄りですよ。七ツ釦はもうないしねえ。……
あ、そうだ、名前を書いた紙を持って改札口にたっていますよ。」
こうして約束の時刻の名古屋駅の改札口。
小柄な白髪のおじさんが「桜井様」と墨で書かれた紙を胸に掲げて、人が行き交う中にすっくと立っておられました。
確かにお年は召していらっしゃいましたが、その眼を見れば十七歳で七ツ釦の写真ご本人であることがはっきりわかり、
胸がいっぱいになりました。
この方は当時やっとの思いで帰還したら故郷の名古屋は一面の焼け野原、戦後無一文から出発したそうです。
戦後十年ほど経った頃、伯父の墓参りに実家を訪ねてくださったことがあるとのことでした。
復員直後の惨めな姿で親友昭雄の遺族を訪ねてはならない、社会的地位も得てから墓参りに行こう、と思っておられたそうです。
戦後は勉学にお仕事に努力を重ね、新たに市場を開発し、懸命に働かれたとのことです。
後日のお手紙には
「……それは尊敬してやまない同期の桜、桜井昭雄に褒めてもらいたいからでした。あれから四十年、私も古希です。
桜井も古希です。
私は今回、和子さんが名古屋に来られたのは彼、桜井昭雄が私を忘れない証拠だと思い、一人で泣きました。…(後略)……」
とありました。
あの日、名古屋駅の改札口でこの方は「桜井様」と大書した紙を掲げ、渡辺和子を遣わした「桜井昭雄」を迎えておられたのです。
その年の七月上旬に海軍航空隊のあった三重で戦友会があり、世話係りの方が私も招いてくださいました。
ここで三十名余りの戦友の方々にお目にかかり、様々なお話しを伺うことができました。
受付で私に渡された名札には 「桜井昭雄代理・渡辺和子」と書かれていました。
他の班の方々も伯父を覚えていてくださり、今までわからないでいたこともだいぶわかってきました。
当時のことを話してくださった後、ある方が
「あなたは私のこどもとだいたい同じ年ですね。私は自分の子どもにこういう話しをしないままだった。……
どうしてだろう……
でもね、孫にはきっと話しておこうと思っていますよ。」と言っておられました。
こうして戦友の方々とのやりとり、聞き書きの記録、手紙、資料などはかなりの量になり、
今ではファイルやノート二十数冊にもなりました。
戦友会というものに対して持っていたイメージも大きく変わりました。
伯父について調べる中で当時のことを話してくださる皆さんから伝わってくるのは、死を覚悟して若い日々を激しく生きた
戦友どうしのきずなの強さ、そして若くして亡くなっていった友への深い慰霊の気持ち、それと声高に言うことのなかった
言い知れない哀しみ、などです。
そしてこういう気持ちからわき上がるように出てくる平和への深い祈り、よりよい国にしなくては亡くなっていった友に申し訳ない、
というお気持ちも伝わってまいります。
伯父について調べることは、かって日本の兵士だった方々の思いを辿ることでもあり、戦後に生まれ豊になっていく時代に
育った私にとって、今までなんと多くのことに無頓着のままできたかに遅まきながら気付かされる事でもありました。
「自分につながる人々がどんな思いであの時代を生きてきたのか」
「自分につながる人々がどんな思いで時代、時代を支えて今に至っているか」
−今までの教育でこういう視点がかなり貧弱ではなかったでしょうか。
亡くなっていった人々をも含めて、自分より前の世代を今の価値観の枠組みから見て論評するのが当然という思い込みが
私たちの世代の中にないでしょうか。
反省の名の下にあの頃を次の世代が裁いていくことが「平和教育」になるのだと今まで多くの人々が思い込んできたのではないか、
そんな気がしてなりません。
いつの世も二世代、三世代がともに走っている切れ目の無いリレーゾーンのはずだと思います。
今までのような教育の視点では世代から世代へのリレーゾーンのイメージが持てないのではないでしょうか。
受け継がれてきたものも渡すべきものも見えなくなってしまう危険があり、これではどの世代にとっても不幸だと思うのです。
まるで若くしてなくなった伯父に導かれるようにあの頃のことが少しつつわかってくるようです。
私をかわいがってくれた懐かしい祖母とよく似た顔の伯父がそばにいていろいろ教えてくれているような気がします。
そしてその伝えんとするところは、私たちの世代の足元をとらえることでもあり、
次の世代を育てていく大きな支柱ともなるように感じています。
昭雄(てるお) 予科練・享年十八歳
渡辺和子編著 信山社サイテック
更新日:2007/10/12