銕尾 隆

陸軍中佐

 

銕尾 隆陸軍中佐           玉憙夫人

 

決師団

戦局が次第に不利となり敗色が濃くなった昭和十九年七月、本土決戦に備え帝都守護に万全を期する

ため「決師団」が編成された。

銕尾 隆陸軍少佐は当時、千葉市にある歩兵学校教官として奉職し、陸軍大学へ入学など高級将校へ

の道が講じられていたが、銕尾少佐は頑として栄達の道を甘受せず、決師団編成とともに第二〇三連隊

第二大隊長に任命された。部隊は訓練にあけくれ機動部隊としての体制は着々と整えられていき、昭和

二十年八月には千葉県湖北地区で戦闘配置についていた。

 

終戦

八月十五日、部隊全員に大詔が伝達された。連隊の各部隊は駐屯地を徹して連隊本部に終結すること

となった。八月十八日、銕尾少佐は部隊より一足早く汽車で連隊本部へ赴き業務を終了させ、いったん

自宅へ帰って自決に必要な品々を整え、玉憙夫人とともに部隊の通過を迎えた。

 

自決

八月十九日未明、連隊本部に程近い宥妙寺の境内で、ただ一筋に国を愛した夫妻は短い生涯を閉じた。

銕尾少佐は軍人の最期にふさわしく古式にのっとった割腹自決であった。白装束の玉憙夫人は夫の最期

を見取ってから拳銃で後を追った。

銕尾少佐、享年28歳。玉憙夫人、享年23歳。

 

辞世

親思う心に勝る親心 二十八年唯謝し奉る

 

両親にあてた遺書

国家最大の悲局に際会し、種々考えてみましたが、小生としては玉憙と共に自決する

のが最良の道であるとの不動の信念に到達しましたので潔く決行します。

先立つ不孝は衷心お詫び申し上げます。何卒切にご自愛の上心をあくまでも強くもっ

て、家の為国の為御邁進下さい。復活の日は決して遠くはなく且今後の御余生は親愛

なる弟妹達がお世話してくれることと確信します。

尚玉憙の文面にあります通り山形の菊代母の御世話を出来るだけお願い致します。

 

宥妙寺

千葉県四街道市

銕尾 隆陸軍中佐 自決の地

    

自決の地に建立された聖観世音菩薩

碑文

大東亜戦争終戦時 止むにやまれぬ真情から敗戦の罪を謝し奉らんと 昭和二十年八月十九日午前

零時頃 大日区緑ヶ丘にて皇居の方向を拝し 銕尾 隆夫妻自決す

後 昭和三十三年十月 緑ヶ丘の有志が其の冥福を祈らんが為 自決の場に観音像を建立す

観音像背面銘文

慰霊

昭和二十年八月十九日

 銕尾 隆・玉喜 夫妻他界之地

 

世紀の自決

更新日:2001/10/27