清水 澄

法学博士、枢密院議長

 

清水 澄博士

 

慶応4年石川県金沢市出身。東京帝国大学法科卒。学習院大学教授、明治38年法学博士号取得。

宮内庁及び東宮御学問所御用掛となり大正天皇・昭和天皇に憲法学を進講。

行政裁判所長官・枢密院顧問官を経て、昭和21年に最後の枢密院議長に任ぜられる。

日本国憲法の成立に日本の国体の危機を憂えたが、 自らの想いとは別に公人としての最後の責任を

全うするため、最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力。

同年9月25日、熱海の錦ヶ浦に身を投じて自決。翌朝、左手に数珠を持ったお姿で発見された。

 

自決の辞

新日本憲法の発布に先だち私儀憲法案を公表したる団体及個人ありたり 其中には共和制を採用する

ことを希望するものあり 或は戦争責任者として今上陛下の退位を主唱する人あり 我國の将来を考

へ憂慮の至りに堪へず 併し小生微力にして之が対策なし 依て自決し幽界より我國体を護持し今上

陛下の御在位を祈願せんと欲す 之小生の自決する所以なり 而して自決の方法として水死を択びた

るは楚の名臣屈原に倣ひたるなり

元枢密院議長  八十翁 清水澄  法學博士  昭和二十二年五月 新憲法実施の日認む



追言

小生昭和九年以後進講(宮内省御用係として十数年一週に二回又は一回)したること 従て龍顔を拝し

たること夥敷を以て陛下の平和愛好の御性質を熟知せり 従て戦争を御賛成なかりしここと明なり

 

青山霊園

東京都港区

法学博士清水 澄墓

 

石川護國神社

石川県金沢市

清水 澄博士顕彰之碑

碑文

憲法学者 清水 澄博士(金沢市東山三丁目ご出身、学習院教授、行政裁判所長官、枢密院顧問官、

同副議長、同議長)は、大日本帝國憲法が廃止され、占領軍司令部が強制した日本国憲法制定の日、

即ち昭和22年5月3日、日本国と天皇制の将来を憂慮され、幽界よりわが国体の護持と皇室のご安

泰、今上陛下の御在位を祈願しようと自決を決意され、憂国の至誠極まる所、泪羅の淵に身を投じた

楚の国の中心屈原の故事に倣い、9月25日、こよなくその風光を愛されていた熱海の錦ヶ浦の波涛

愛国赤心の躯幹を投じられたのであります。(後略)

 

世紀の自決

更新日:2013/02/24