国定 謙男
海軍少佐
国定海軍少佐、長女緋桜子ちゃん、喜代子夫人
国定謙男海軍少佐は、海軍兵学校(60期)卒業に際して恩賜の賞を授かり、やがて航空に志し鋭意海軍航
空の発達と戦力の充実に心血を注いだ。
終戦
軍令部の左官部員は大西瀧治郎海軍中将を海軍次官官舎に訪問した。大西中将は熱涙を以て一語一語
訓した。
「これから先、日本がどうなるか判らない。然しただ一つ、君達は日本人として恥じない様に行動せよ」と。
夜更けて宿舎に帰った国定少佐は、同僚に「降伏とは残念だ。俺は生きておれない。覚悟はもう決まった。
俺は力の限り戦争に努力した。妻子を連れて路頭に迷うような恥じを受けたくない」と、涙ながらに語ったと
いう。
自決
八月二十二日早朝、国定夫妻は乳母車を押し二児を伴って茨城県土浦市の善応寺境内に入り、寺の背後の
小高い丘で拳銃で妻子の命を断ち、自らも自決した。
国定少佐は第三種軍装に参謀飾緒をつけ、恩賜の短剣をしっかり抱き、口元を引き締めて果てていた。
喜代子夫人と二人の愛児は眠るが如き往生で苦悶の後は少しも見られなかったが、子供のそばに置かれた
食べ残しのキャラメルが駆けつけた関係者の涙をさそったと云う。
遺書(公)
一、作戦停止の大命下り海軍軍人として日頃の信念に従ひ自決す
二、最後まで陛下の栄誉有る軍人として武装の侭決行するに付.
. 種種の規則等あらんも特に現服装にて宮城に面し土葬せられ度
(中略)
追記
妻行を共にせんことを願ふに依り再考を促すも決意固きに付許可す
幼児を伴ふと云ふ国家の将来を考えざるには非ざるも虚弱なる二児
の身を思ひ愚かなる親心を察し乞ふ
妻喜代子 三十一歳、長男隆雄 二歳、長女緋桜子 五歳
小生幼時より桜を好み長女は緋桜子と名付け 皇国の隆昌を祈りて
長男を隆男となせり 然るに我等の努力足らずして今日の戦局に遭
ふ 無念なり
遺書(私)
軍は原子爆弾に破れたるに非ず 赤化せる官僚、外務省、親米重臣
のため戦機の一歩前で背負なげを受く 泣くにも泣けず
真実は実に実に残なり 陛下は彼等のために誤まられました 今後
はいろいろ多難がありませうが宜敷く次の日本のために努力を願ひ
ます
善応寺
茨城県土浦市
国定謙男 同妻子之墓/郷里の岡山県とは別に自決の地に建つ
国定少佐慰霊碑
碑文
海軍少佐国定謙男君は岡山県赤磐郡瀬戸町の人、大正二年二月十日父三治母筆与の四男として北海道
室蘭市に生る。夙に志を海軍にたて室蘭公立武揚小学校、北海道庁立室蘭中学校を経て海軍兵学校に学
ぶ。幼少より才学衆に優れ、昭和七年海軍兵学校卒業に際しては成績抜群の故を以て恩賜の賞を授けら
れる。
やがて航空に志し、鋭意海軍航空の発達と戦力の充実に心血を注ぐ。太平洋戦争悲運の戦に終わるや、
当時大本営海軍参謀の要職に在りたる君はその責任を痛感し、更に降伏がもたらす屈辱を甘受するを潔し
とせず、遂に死を決意し、喜代子夫人の行を共にせんとする強き要請を容れ、愛児二人をも伴い、茨城県
土浦市善応寺山内にて自決し一家断絶す。
真に悲壮の極と云うべし。時に昭和二十年八月二十二日なり、享年三十三歳。君は夙に明治維新の志士
佐久良東雄先生を敬仰私淑せらる、その死処を先生因縁の善応寺に選びたる誠に故なきにあらず。
茲に君が十七回忌を卜し、一碑を建て君が霊を慰むると共に、その崇高なる精神を後世に伝えんとする
ものなり。
更新日:2006/08/05