故地探訪  予科練顕彰

 

宝塚聖天

兵庫県宝塚市

情報提供:湯浅 正夫様(甲飛10期)/情報仲介:奥野 敏夫様(甲飛13期)

神風特別攻撃隊之魁/甲飛十期之碑

昭和初期、海軍航空戦力の急激な拡充を目指して、甲飛予科練制度が創設され、我々は昭和十七年

(十九四二年)四月一日、土浦海軍航空隊に第十期甲種飛行予科練習生として入隊、秋霜烈日の猛

訓練に耐え飛行練習生教程を終えて太平洋戦争決戦の大空へ巣立った。昭和十九年十月フィリピン・

レイテ湾に米航空母艦三十数隻を含む大機動部隊が殺到、迎え撃つ我が栗田を主力とする連合艦隊

とのフィリピン沖海戦は、太平洋戦争中最も熾烈な一大海空戦であった。時に第一航空艦隊司令長官

大西滝治郎中将は、この国家存亡の瀬戸際こそ二百五十キロ爆弾を零戦に装着、一機一機肉弾体当

り攻撃の他なしと決意し、十月十九日、第二〇一航空隊副長玉井中佐に特攻隊の編成を命じた。命を

受けた彼は、かつての教え子甲飛十期の零戦搭乗員より二十四名を選抜し、第一神風特別攻撃隊を

編成した。

ああ、これが特別攻撃隊の魁になろうとは

敷島の大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花(本居宣長)

この歌より隊名を敷島、大和、朝日、山桜の四隊とし、直後菊水隊が加えられた。索敵数日、十月二

十五日に至り各隊県敵に成功、祖国の安泰を祈り一矢報いる信念に燃え、全機突入多大の戦果を挙

げた。

若干二十歳にも満たない若者がひたすら祖国最後の勝利を信じ、父母を思い故山を偲び、黙々とそ

の任務を完遂して散華し、卒業事一千四名の80%が還らぬ人となった。その崇高で至純な行為と精

神を後世に伝え、霊を慰め徳を顕彰する為にこの碑を建立する。

 

陸奥記念館

山口県大島郡東和町

予科練甲飛11期生戦没者慰霊 若鷲の碑

碑文

予科練とは海軍飛行予科練習生の略称なり。

甲飛十一期生は昭和十七年十月一日全国より厳選され旧制中学(一六、七才)より五八五名

土浦海軍航空隊に入隊す。

昭和十八年六月八日 艦隊艦務実習の為、土浦航空隊より派遣の同期生一同は戦艦陸奥

長門・扶桑に分かれて乗艦、陸奥に乗艦せる同期生一三五名中一二四名が陸奥と運命を共

にする。

残る同期生一同は予科練卒業後、各戦闘航空隊に配属となり比島・台湾・南洋。沖縄本島・

本土防衛の各航空戦、及び神風特別攻撃隊院として航空戦の主力として終戦までに二三七

名が戦死することに至って、同期生のほぼ三分の二に当る計三六一名が散華する。

昭和五十三年六月八日、生存同期生及び遺族により戦没同期生の鎮魂と恒久平和を祈念

し、この緑の地に「若鷲の碑」を建立す。

生存者の氏名も碑に刻んで有りますが、いずれ他界したらその魂はこの碑に戦没同期生と

共に眠りたいとの念願から同期生全員の氏名を刻んで有ります。

 

橿原神宮 若桜友苑

奈良県橿原市畝傍町

第十三期海軍甲種飛行予科練習生「殉国之碑」

碑文

海軍甲種飛行予科練習生とは、海軍航空戦力の増強を目的として、航空幹部を育成するため、昭和十二年

以来終戦まで、旧制中学高学年よりの志願者について選抜されし者にして、第一期生より十六期生まで、そ

の数十四万八千百十五名なり。

選抜されし練習生は、まず飛行予科練習生教程に於いて一般学と軍事学を修め、将来海軍航空士官として

の躾を第一とした。心身の練磨をはかり、次いで飛行技術習得のため飛行術練習生教程へと進み、しかる

後第一線実施部隊へと配属され、作戦航空部隊の一員として活躍せしものなり。

されど甲飛第十三期生二万八千百十一名は第二次世界大戦において、戦い我に利あらざる国家存亡の秋

学業をなげうちて土浦、三重、奈良、美保、松山、鹿児島の各航空隊に入隊し、落日迫る終戦時における

日米海軍のあらゆる配置の主幹要員たりき。

即ち、九三式中間練習機の特攻訓練を終えて出撃寸前にある者、人間爆弾「桜花」、ジェット特別機「橘花」

ロケット戦闘機「秋水」の搭乗員として出撃せし者。また、沖縄決戦において、「神風特別攻撃隊」(「第一第三

草薙隊」「第一魁隊」「第一第二八幡勤皇隊」「八幡尽忠隊」「八幡振武隊」「皇花隊」「白鷺赤忠隊」、「第一第

二勤皇白鷺隊」「第三正気隊」「琴平水心隊」「第四御楯隊」「一次〜五次白菊隊」「白鷺揚部隊」「十二航戦

水偵隊」「神雷部隊」)として活躍せし者等なり。

かくて、ある者は索敵中に、ある者は訓練中に、またある者は転進中に、あるいは病魔に蝕まれ壮進半ば

にして護国の神として散華せり。また、想いを空に馳せつつ、あるいは人間魚雷「回天」(神潮特別攻撃隊、

千早隊、多聞隊、多々良隊、天武隊、金剛隊、白竜隊、轟隊、振武隊)として、あるいは特殊潜航艇「蛟竜」

「海竜」として、またあるいは水上特攻艇「震洋」(特別攻撃隊第二十、第二十二、第二十五、第三十四、第

三十五、第三十七、第三十八、第三十九、第百一震洋隊)として出撃し、華々しく体当りの末、南海の底深く

散華せり。

かくのごとく大空、水上、水中あるいは陸上と、各面からの特別攻撃に日本最後の国防戦力として奮戦し、

不滅の功績を残せり。

而してその戦没殉国者の数、甲飛予科練出身者六千数百名中、一千五名を数う。まさに甲飛予科連のう

ち、最大の英霊たり。

修験発祥大峯山の麓、奈良県吉野郡天川村洞川の清流にありし青石を採石し、神武建国の地畝傍の森、

橿原神宮の聖域に、永遠の世界平和を念じつつ、散華せし戦友の氏名を錠し、英魂の万古に安らかならん

ことを祈念しつつ、十三期生存者一同これを建つ。

  

 

大阪護国神社

大阪府大阪市住之江区

予科練「貴様と俺と翼の碑」

碑文

昭和5年に、すぐれた飛行機搭乗員の養成は英才の早期教育に俣つとの観点より「海軍飛行予科練習生」

の制度が創設され、昭和12年には甲種、乙種、その後丙種、特乙種の修業課程が定められた。国を愛し

空に憧れた少年達が全国各地はもとより遠く海外にあった者も勇躍志願をしたのである。

予科練出身搭乗員は、昭和12年8月、日支事変に於てその初陣を飾って以来、太平洋戦争では名実ともに

わが航空戦力の中核となって、嚇々たる武勲をたてたのであるが、戦局利あらず本土決戦の秋来るや、祖

国日本の弥栄を信じ一死もって国難に殉ぜんと相ついで航空、水上、水中特別攻撃隊員となり、空に海に

敢然として散華していった。

我ら元予科練習生は終生そのきづなを深め、この聖地に名を連ね、英霊の顕彰と昭和の御代に「予科練」

という紅顔のさきがけありと後世に伝え、世界の平和と子孫の繁栄をこい希い本碑を建立する。

嗚呼

  

 

天龍寺

京都府京都市右京区

情報仲介:奥野 敏夫様(甲飛13期、関西甲飛会)

飛雲観音像

碑文(右)

とぶ雲に身をささげて志人々は 救世観音の示げんとぞ知る

碑文(左)

神風特別攻撃隊 海軍上等飛行兵曹 高崎文雄 十九才

みんなみの雲染む果に散らんとも くにの野花とわれは咲きたし

 

霊山観音

京都府京都市東山区

予科練十八期の碑

碑文

こんぺきの空は果てしなく碧い その空の彼方に散りし 戦友よ 安らかに眠り給え

昭和十七年五月一日、全国から志願した若者千四百七十五名が土浦海軍航空隊に入隊し所定の訓練を

終えてそれぞれの任地へ飛び立って行ったが太平洋戦争は多くの少年達の命を惜しみなく奪って行った。

そして戦後四百五名の戦没主の霊を慰めんと生存同期性が此の地で供養を続けて八年目、“十八期は一

つ”と念願し全国同期性が一堂に集える場所として茲に十八期の碑を建てるに至った。

この碑の前に立つ時、幾多の苦難を共にした想い出を亡き戦友と語り合い乍ら同期の桜を咲かせるであ

ろう。

 

山梨縣護國神社

山梨県甲府市

予科練雄飛会山梨県人会 予科練之碑

碑文

永久に語り継がむ予科練の 昭和の御代の武勲のあと

 

新潟縣護國神社

新潟県新潟市

予科練鎮魂之碑

 

富山縣護國神社

富山県富山市

海軍甲種飛行予科練習生/嗚呼海原よ大空に

 

和歌山縣護國神社

和歌山県和歌山市

ああ予科練

碑文

予科練とは海軍飛行予科練習生即ち少年飛行兵の称なり

航空機搭乗員として英才の早期養成をめざし昭和五年この制度発足以来大東亜戦争終結迄学業半ばの

少年が七ッ釦は桜に錨と志し

卓越せる技量  旺盛なる攻撃精神  崇高なる犠牲的精神

を基に日夜猛訓練に耐え大空に巣立てり

支那事変には海鷲として渡洋爆撃の初陣以来 開戦劈頭ハワイマレー沖航空戦にその威名を世界に轟か

せ我が航空戦力の中核となるも 戦局利あらず敵本土に迫るや悠久の大義に滅せんと自らを爆弾に変え

身をも命も惜しまず特攻機と共に未曾有の国難に殉じたり

祖国永遠の平和と安泰を祈り散るべくして散り得ざりし我等予科練出身者は英魂の万古に安らかならん事

を祈念しつつ この碑を建立し大空に眠れる御霊に捧ぐ

 

備中国分寺

岡山県総社市

若鷲鎮魂之碑

碑文

散る桜 残る桜も散る桜 第二次大戦に於いて 祖国の平和と繁栄を念じ紅顔の身で飛行機搭乗員

として敵陣に或いは敵艦隊に突入し 壮烈大空に散った総社圏域出身陸海軍少年飛行兵と指揮官の

鎮魂の碑である 悲惨な戦争を再び繰り返さないよう永遠の平和を希い 生存搭乗員有志之を建つ

 

岩国護國神社

山口県岩国市

  

予科練特乙二期会慰霊碑

建碑由来

太平洋戦争愈々苛烈を加う一九四三年六月、祖国の難に殉ぜんとの赤心に燃え、日本各地よ

り難関を突破し選ばれし若人我等六百十二名は此の地、岩国海軍航空隊に飛行予科練習生と

して入隊し連日の猛訓練に耐え抜き、各自の適性に応じ各々機種別に別れ各航空隊で飛行練

習生として飛行術を習得し実戦部隊に配属される。爾後第一線に在っては帝国海軍伝統の攻

撃精神、犠牲的精神を遺憾なく発揮し、北太平洋上空より南海の大空に勇戦敢闘克くその責に

尽す。

戦局益々逼迫し遂に戦史に比なき壮烈鬼神をも哭かしむる必死必殺の特別攻撃に至っては、

族の安泰を願い私情を去り、従容として悠久の大義に生くべく白雲を朱に染め水漬く屍と化

する其の数、半数に達す。

嗚呼黙して散った彼等の胸中誰ぞ忖らん。

戦雲去りて半世紀を経た今日、我等茲に恒久の世界平和を祈念しつつ幽冥の卿等を偲びその

鎮魂を希う生存者相集い、我等が揺籃の館を望める此の丘に万感をこめ此の銘碑を建立す。

同期の友よ 安らかに眠られんことを

 

田村神社

香川県高松市

香川雄飛会 海軍少年飛行兵之碑/若鷲之群像

 

香川縣護國神社

香川県善通寺市

鎮魂予科練之碑

 

愛媛縣護國神社

愛媛県松山市

雄飛 予科練鎮魂之碑

 

高知縣護國神社

高知県高知市

雄飛 予科練之碑

 

鹿児島縣護國神社

鹿児島県鹿児島市

海軍甲種飛行予科練習生 鹿児島県出身戦没者慰霊碑

碑文

「先に行く、後は頼むぞ」の言葉を残し、純真無垢な笑顔で決然と出撃したまま、二度と還ることのなかった

君達を今でも覚えている。

日中戦争から太平洋戦争にかけて、海軍航空機幹部搭乗員を短期間に育成するため、全国の旧制中等

学校より志願者を厳選し、優秀な若者達が甲飛生となった。

第一期生から第十六期生まで、横須賀・土浦・鹿児島など各地の航空隊に入隊 操縦員・偵察員として猛

訓練を受けた若者達は、海鷲魂を培い、空を飛び、海原を駆け、あるいは特攻隊員となって、祖国安泰

のために自らの尊い命を捧げることになった。

あの悲惨な戦争を二度と繰り返してはならない。

残る桜となった生存甲飛生並びに遺族は、賛同者の御協力を得て、甲飛生の歴史の伝承と世界恒久の

平和を願い、本県出身者二四〇余名の安らかな眠りを祈念して、ここに慰霊碑を建立する。

 

予科練資料館

大分県大分市上野丘

「予科練資料館」は乙飛18期出身の川野喜一氏が自宅を改造し開館されている。

資料館「平和の館」の意義

戦後半世紀を過ぎても特攻隊員の体当たり攻撃で戦死された戦友のことを思うと、今でも胸の痛みを

感じて仕方がありません。私は当時、攻撃第五飛行隊員として、木更津海軍航空隊基地で連日沖縄

方面に、又本土近海までやってくる敵機動部隊に対し、必中攻撃を行っていました。そして昭和20年

7月25日、我が飛行隊も全員特別攻撃隊員を命ぜられ、終戦の8月15日まで、第4次に亘り特攻攻

撃をかけ、32名もの戦友を失いました。僅か20才前後の青年達が、祖国と肉親の安泰を祈り、いさ

ぎよく死んでいったその崇高な精神、犠牲の極致、又人としてのなし得る最大の奉仕をされた、帰らぬ

君等2543名の特攻隊員と、予科練戦没者の遺徳を後世に正しく伝えたいのです。この悲惨な戦争を

二度と繰り返さないために、我々生き残った者の勤めとして、遺書、遺品と予科練に関する資料を一

堂に集め、その供養をすると共に、多くの人々に観ていただくことを願っております。そして次代をに

なう青少年の育成に役立てば、又世界の恒久平和を希求し散華された多くの同窓の御霊も必ず喜ん

でくれるものと思い、此処に予科練資料館、平和の館を作りました。

(昭和63年8月14日、大分県大分市の自宅地下に開設)

  

 

予科練

更新日:2004/11/15