海軍兵科備学生

 

兵科予備学生

兵科予備学生は館山砲術学校に入校し、約六ヶ月間の軍事基礎教育を受けた後、専修すべき術科

に分かれ術科学校で約一年間の軍事教育を受け、卒業すると予備少尉に任用された。

戦局の悪化に伴い海軍の戦備と戦法が特攻化へ移行し、予備将校も特攻に出撃するようになった。

戦局に即応して採用人数が急増し、教育施設の収容能力不足から、教育場所が横須賀砲術学校、

対潜学校、航海学校、潜水学校等へ追加されていった。

 

兵科予備学生採用人数

採 用 年 月

人数

昭和17年 1月

400

昭和17年 9月

482

昭和18年 9月

3,626

昭和18年12月

3,270

昭和19年 8月

2,532

昭和20年 4月

2,695

 

安房神社

千葉県館山市

館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑

碑文

過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期

兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参

じ 選抜されて入校した学徒である

昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌

昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入

る 術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を

受けた 同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急

を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ あるいは諸艦艇等へ赴任し 熾烈な戦列に身

を投じた 既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総

数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である

しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った あるいは北

海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 祖国にそ

の青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである

われらはこのことを永久に忘れることはできない

ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神社に一

碑を建立するものである

 

金龍禅寺

東京都新宿区

海軍第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑「魂/制潜碑」

碑文

太平洋戦争の戦局全く熾烈となった昭和十八年十月一日、大学高専を繰上げ卒業と同時に海軍

第三期兵科予備学生として武山・旅順に入隊、基礎教育終了後、対潜学校に学び海軍少尉に任

官直ちに戦場に赴く

狂水氷波の北洋海域に或は激戦死闘の南方洋上に更に又孤島要衝の警備確保にと夫々勇戦

奮闘し同期生四三〇名中戦死一〇七名を数う

茲に戦後三十年を迎えるにあたり戦没者戦後死亡者、生存者此の碑の前に集まり、魂の語らい

を計らんとして之を建つ

 

蓮華寺

京都府京都市右京区

海軍第四期兵科予備学生の碑

 

予備学生

更新日:2003/09/28