松尾敬宇

海軍中佐

 

略歴

大正 6年 7月21日 熊本県山鹿市出身

昭和13年 9月27日 海軍兵学校卒業(66期)

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

               第一次特別攻撃隊に指揮官付として参加

昭和17年 3月  日 第二次特別攻撃隊編成

昭和17年 6月 1日 特殊潜航艇艇長としてシドニー湾へ突入

               散華(享年24歳)

昭和17年 6月 5日 戦果を大本営発表

 

 

菊池魂

肥後の菊池神社は、王事につくした鎌倉時代の豪族・菊池一族を祖神とし、菊池千本槍は

建武年間に菊池武重が足利直義の大軍に対して、青竹の先に小刀をしばりつけた槍を武器

として戦ったことに由来して、肥後藩士は槍の穂先を短刀に拵えて帯刀することを武士の誇

りとし、国のためなら死をも恐れず大義と真実を貫くという「菊池魂」の象徴とされた。

 

もののふの上家のかぶら一筋に 思ふ心は神ぞ知るらむ

 

昭和17年3月、松尾大尉は故郷の兄に、父が秘蔵する菊池千本槍と、菊池神社の御守7個

を所望した。

数日後、呉の旅館で両親、兄、姉と会った松雄大尉は、父から念願の菊池千本槍を拝受した。

この時家族達は、松尾大尉の「生きては帰らぬ覚悟」を悟り、最後の別れを惜しんだ。

七つの菊池神社の御守は、その後シドニー攻撃隊に四つ、マダガスカル攻撃隊に三つ分かち

与えられた。

 

松尾大尉の一首

散りぎはの心安さよ山桜 水漬く屍と捧げ来し身は

 

松尾大尉の愛誦歌(吉田松陰の辞世)

親思ふ心にまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらむ

 

松尾大尉と乗り組む都竹正雄兵曹長も、同時期に母と最後の別れをしている。

一億の人に一億の母あれど 我が母に優る母あらめやも

 

宣誓

昭和17年4月16日、松尾大尉以下の特別攻撃隊員たちは、その決意を宣誓した。

宣誓

一、我等は帝國海軍軍人たるを名誉とす。

二、我等は格納筒乗員たるの初志を貫徹す。

三、我等は七生報国の実践を期す。ああああ

 

    

出撃前の松尾大尉

 

遺書

昭和17年5月15日、松尾大尉は伊22潜に乗艦し、シドニーに向けて出撃。

 

5月27日、父に宛て遺書をしたためている。

遺書

先に第一回特別攻撃隊指揮官付として、更に此度は指揮官として光栄ある任務に就く

男子の本懐是に過ぐるものなし

天皇陛下の御稜威の下、天佑神助を確信し誓って成功を期す

顧みれば生を享けて二十有六年、寸時も御両親の御心を安んじ奉る暇もなく果つるも、

此度の有難き任務に就く私最後の孝行と御褒め下され度候(中略)

何等心に残る事もなく散る身を感謝しつつ御両親様の御長命と皆様の御幸福を祈りて

御別れ申上候

 

二伸

本日は目出度き海軍記念日にして、此海面も亦天気晴朗なれど波高く、三十七年前と

思ひ合せ感慨切なるもの有之候

 

追伸

同乗の都竹正雄兵曹は私の最も信頼せる部下にて真に優秀なる人物に御座候  兵曹の

御両親様には申訳なき次第、父上様御訪ねの上宜敷く御伝へ下され度候

 

5月31日17:21、松尾大尉と都竹兵曹が乗りこんだ特殊潜航艇が発進。

22時過ぎ、シドニー湾の数カ所で探照灯の光芒が乱雑に交錯し、港の灯火がスッと消えた。「奇襲成功」

伊22潜の艦橋に歓声がどよめいた。

松尾大尉は敵艦への体当りを試みて、敵哨戒艇4隻から爆雷攻撃を受け、異境の海に散華した。

昭和17年6月1日 午前5時20分。

 

後に松尾艇を引き揚げたオーストラリア海軍の調査によれば、艦首の魚雷発射管が破損していた。

松尾大尉と都竹兵曹は、拳銃で頭を撃ち抜き、抱き合うようにして倒れていた。

 

シドニー湾から引き揚げられる松尾艇

 

オーストラリアの海軍魂

昭和17年6月5日、オーストラリア海軍は松尾艇と中馬大尉・大森一曹艇を引き揚げた。

6月9日、シドニー要港司令官ムアーヘッド・グルード海軍少将は2隻の特殊潜航艇から収容した

四人の日本兵士の遺体を海軍葬をもって弔うとともに、その嚇々たる武勲と忠勇義烈の精神を褒

め称える声明を発表した。

葬儀にはグルード少将のほか海軍士官、スイス総領事などが参列し、日本国旗に包まれた棺に

二列に整列した海軍儀杖隊が「敬礼」「捧げ銃」を行い弔銃を発射した。

 

この海軍葬に対してオーストラリア国内では批判の声があがったが、グルード少将は次のように

述べて批判をしりぞけた。

「あの鉄の棺桶のようなもので出撃するには最高度の勇気を必要とする。彼等の持っている勇気は、

いずれの国民の特質でも、伝統でも、遺産でもない。(中略)これらの勇士は最高の愛国者である。

はたしてオーストラリア人の幾人が、この日本の勇士の千分の一の覚悟を持っているだろうか」

 

  

シドニー要港司令官ムアーヘッド・グルード海軍少将                      オーストラリア海軍 海軍葬      .

 

8月13日、四人の勇士の遺骨は戦時交換船「カンタベリー号」で東アフリカのロレンソマルケスへ運

ばれ、「鎌倉丸」に移乗して10月9日に横浜港へ到着した。

 

我子の戦死に接したご両親のご詠歌

  菊地なる神の訓をひたぶるに よくぞ果せし益良雄の 道

  君がため散れと育てし花なれど 嵐のあとの庭さびしけれ

 

二十二年後の訪濠

昭和40年6月9日、松尾艇の遺品が展示されているオーストラリア戦争記念館のマックグレース

館長夫妻が熊本県の松尾家を訪問した。館長夫妻は松尾中佐の墓に参り、ご母堂まつ枝さん

に対して「全国民が令息の勇気を尊敬しています」と挨拶した。

ご母堂は海軍葬の礼を述べ、自作の和歌の色紙を遺品と共に置くことを望んで手渡し、また潜航

艇に注ぐための清酒を館長夫妻に託した。

これが機縁となって昭和43年4月24日、八十三才のご母堂は娘(松尾中佐の姉)とともに息子が

眠るシドニーへ旅立った。

 

とつ国のあつき情けにこたへばや 老を忘れて勇み旅立つ

 

4月28日、シドニー湾の絶壁に立ったご母堂は、狭い湾口を見つめ、

「よくもこんな狭い所を抜けてシドニー湾を襲撃したものだ。母は心から褒めてあげますよ。 」

頬を涙で濡らしながらとつぶやいた。

 

松尾中佐の許婚だった女性は、一首をしるした紙片をご母堂に託した。

ひとたびはゆかむと思ひし南溟の 君に伝へてよ今は安しと

ご母堂はこの紙片を、小石にくるみ港内に投げた。

 

翌29日、松尾艇が沈んだテーラー湾を訪れたご母堂は、自宅の庭に咲いていた生花を献花し、

菊池神社の神酒を注いだ。

みんなみの勇士の礼に捧げむと 心をこめし故郷の花    .

花を追ふしきし波まに見えかくれ いつかは六つの霊にとどかむ

荒海の底をくぐりし勇士らを 今ぞたたへめ心ゆくまで   .

 

5月1日、シドニーから空路、キャンベラへ飛び、戦争記念館を訪問。この記念館は祖国に殉じた

人々を偲び、戦没者の尊さを伝えるオーストラリア国民の尊崇の場所であり、礎石には「彼らの名

は永遠に消えることはない」と刻まれ、壁には第一次大戦から朝鮮戦争ん至るまでの戦没者役10

万人の氏名が刻まれている。

 

その記念館に、日本の特殊潜航艇銃員の遺品が自国の将兵と同様の扱いで展示され、「この勇気

を見よ」との説明が添えられている。

ランカスター館長が一同を出迎え、庭に展示されている特殊潜航艇に案内した。

最愛の息子が乗り、自決した潜航艇。ご母堂は愛しいものに触れるが如く潜航艇を愛撫した。

愛艇に四つの魂生き生きて 父を呼ぶ声母を呼ぶ声      .

吾子の霊生きてあるらしかの艇の かたへに母はおらまほしく思う

 

  

テーラー湾、キャンベラ戦争記念館を訪問したご母堂

 

ランカスター館長の手からご母堂に、松尾中佐の遺品である千人針が手渡された。この千人針は姉が

真心を込めて弟に送り、松尾中佐が最後まで肌身から離さなかったものである。

ご母堂は全身を震わせ体が大きく揺れ出した。ハンカチで目を覆って館長の手にすがり、ご母堂を抱

きしめる館長の目にも光るものがあった。

姉は、三十年前に自分が弟に送った千人針を目の当たりに見て、在りし日の弟の思い出にむせんだ。

この千人針の返還にあたり、国内で議論があった。戦利品を返還する必要はないという意見に対して、

シドニーのある女性は「多くのオーストラリア人は恥ずかしさで顔が赤くなるだろう」と投書した。


  

ランカスター館長の手からご母堂に手渡された、松尾中佐の遺品の千人針

 

オーストラリアの滞在中、一向は国賓並みの歓待を受け、「お母さん」と言えば松尾中佐のご母堂の

代名詞として通じるまでになった。

 

うしろがみひかれる思ひこの国は 吾子がしづもる土にしあれば

 

菊池神社

熊本県菊池市

    

松尾中佐慰霊碑

 

歴史宝物館/松尾中佐遺品展示

 

  

歴史宝物館/松尾中佐遺品展示

 

三玉小学校前

熊本県山鹿市

殉国之碑

 

  

殉国之碑

 

墓所

熊本県山鹿市

墓碑

 

    

墓碑                                        讃仰碑

 

  

  熊本日濠協会 日濠両国旗                         松尾敬宇海軍中佐の碑(裏面は英語)

 

 

 

特殊潜航艇

更新日:2009/04/26