香 取

 

香取海軍航空隊

昭和19年2月、整備教育練習部隊として開隊、空地分離編成により実戦部隊の編成・練成

基地となり、その後に本土防衛作戦基地となった。昭和20年2月に米軍が硫黄島に上陸す

るに及び、第ニ御楯隊が編成され、2月21日硫黄島沖の米艦艇に突入した。

この地で練成を終えた飛行隊は次々と南九州へ前進し、菊水作戦に散華していった。

 

この基地から飛び立ち散華した英霊 1,207柱。

 

第ニ御楯隊

昭和20年 2月16日、特攻隊編成の命令

香取にある六〇一空は空母飛行隊として訓練を受けた日本海軍で最後の精鋭部隊であった。

艦攻の魚雷は爆弾と異なり抱いたまま体当りしても爆発しない。また魚雷を発射した後の艦攻

が体当りしても、その効果には疑問があった。しかし命令は絶対であった。

特攻隊の編成に当り、二人乗りの艦爆「彗星」、三人乗りの艦攻「天山」の偵察員や電信員を

搭乗させるかどうかが問題となった。しかし搭乗員達の「死ぬときは一緒と誓い合ったのに、体

当りだから不要だからといって降りることはできない」との熱望で、全機が定員通りの搭乗員で

の出撃となった。

 

昭和20年 2月21日、硫黄島沖

第ニ御楯隊は、関東地区の基地から直接出撃する最初の特攻隊だった。

同日夕刻、一機が正規空母「サラトガ」の艦首に体当りして猛烈な火災を起こした。

もう一機が側面に体当たりして格納庫で爆発。                     

さらに一機は直前で撃墜されたが、海中を突き進んで水面下に大穴をあけた。 

さらに一機が甲板に激突し火災を大きくした。                     

 

  

空母「サラトガ」の飛行甲板

 

「サラトガ」はこの戦いの後、本国に回航されて修理されたが、再び戦場には戻れなかった。

護衛空母「ビスマルクシー」には二機が飛行甲板に体当りした。同艦は戦闘機群を収容したばか

りで一斉に燃え上がり、艦内で誘爆を繰り返した。やがて350名の乗員を乗せたまま沈没した。

 

戦果

護衛空母「ビスマルクシー」撃沈、正規空母「サラトガ」大破

 

散華

喪失22機、戦死45名

 

あさひ鎌数工業団地 緑地公園

千葉県旭市

香取海軍航空隊慰霊碑

碑文

この地は太平洋戦争末期に完成せる香取海軍航空基地の跡なり 慰霊碑はこの飛行場より飛び

立ち訓練に或は戦場に向いそのまま還らざりし若鷲たちと空襲により没せし市民の御霊を祀るも

のなり 彼等に限りなき敬意と愛情を抱く全国の戦友と近隣の市民有志が互いに力を合わせこの

碑を建立し 謹みて碑内に霊璽簿を納む

昭和五十一年十一月二十三日  慰霊碑建設期成会

 

    

香取基地戦死者之墓                               滑走路エプロン跡       

 

鎌数伊勢神宮 裏

千葉県旭市

掩体壕

 

春海地区

千葉県八日市場市

掩体壕

 

  

掩体壕

 

神風特攻隊

更新日:2009/06/14