画集戦時徴用船の最期

資料提供:秦  一生様(財団法人日本殉職船員顕彰会 常務理事)

財団法人 日本殉職船員顕彰会

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画・大久保 一郎画伯(大阪商船の嘱託画家/昭和51年没)

 

ぶら志゛る丸

  

昭和17年7月31日、海軍徴用船「ぶら志゛る丸」は軍需物資輸送のため横須賀を出港、

大阪、釜山を経由してトラック島に入港。8月4日、同地から横須賀へ向かった。翌5日、

敵潜水艦の雷撃を受け大爆発、、船尾から沈下し七分後には棒立ちとなり海中に没した。

大野船長は「天皇陛下万歳」を叫びながら、船と運命をともにした。戦死者57名。

 

ぼるねお丸

昭和17年9月27日、陸軍徴用船「ぼるねお丸」は兵器、弾薬、糧秣を積載して小樽を出港

しキスカ島へ向かった。10月6日にキスカ島に入港、徹夜で積荷の陸揚を完了した。連日敵

機の来襲が続くなか揚陸作業を行ったが、16日に敵機の雷撃により火災が発生し船体を放

棄した。戦死者2名。

 

九州丸

昭和17年10月12日、陸軍徴用船「九州丸」は兵員、兵器、弾薬、糧秣を積み込みラバウル

を出港、同14日にガダルカナル島タサファログに入港した。翌15日に陸揚中に敵機の空襲

を受け抜錨、海岸から半マイルの地点で三発の直撃弾を受け猛火黒煙につつまれた。その後、

航行不能となり二昼夜燃え続けた。戦死者14名。

 

ありぞな丸

昭和17年11月12日、陸軍徴用船「ありぞな丸」は兵員、弾薬、糧秣などを積載し、輸送船

11隻、護衛艦11隻と船団を組んで、ショートランド泊地からガダルカナル島へ向かった。し

かし翌々14日の午前5時40分頃、敵機に発見され空爆をかわしながら航行を続けたが、ラ

ッセル島の北北西の地点で急降下爆撃を受け猛火に包まれた。

 

高千穂丸

昭和18年3月14日、「高千穂丸」乗客および雑貨を積んで神戸を出港、門司経由で基隆へ

向かった。同19日、敵潜水艦の雷撃が命中し、大爆発とともに積荷が空中高く飛散し、船体

はわずか4分で沈没した。戦死者98名。

 

ぶえのすあいれす丸

  

昭和18年11月26日、陸軍徴用の病院船「ぶえのすあいれす丸」はラバウルとココボで還送

患者ほか1,192名を載せてパラオへ向かった。翌27日に敵機の空爆を受け、投下された爆

弾は轟音とともに炸裂し船体に大破口を生じた。患者は殆ど救命艇に移乗したが、シャフトト

ンネルから舵機室、機関室に浸水し、船尾より沈没した。戦死者1名。

 

龍興丸

昭和19年 1月14日、陸軍徴用船「龍興丸」は護衛艦一隻とともにシンガポールを出港し、

アンダマン島ポートブレアーに向かった。翌15日、小アンダマン島東方海域で敵潜水艦の

雷撃を受け沈没した。戦死者9名。

 

北陸丸

  

昭和19年3月16日、海軍徴用船「北陸丸」はシンガポールでボーキサイト、重油などを積み、

輸送船9隻、護衛艦4隻と船団を組み仏印沿岸を北上した。翌々18日、敵潜水艦の雷撃を受

け船首から沈没。戦死者55名。

 

瑞穂丸

昭和19年8月21日、陸軍徴用船「瑞穂丸」は広島県宇品港を出港、門司に回航し、輸送船

17隻と護衛艦5隻で船団を組み高雄に向かった。9月16日に高雄へ入港、翌々18日に兵

員5,400余名と軍需品を積みマニラへ向かった。同19日に敵潜水艦の雷撃を受け爆発し

後部より沈没した。戦死者36名。

 

護国丸

昭和19年11月7日、海軍徴用船「護国丸」は護衛艦とともに基隆を出港し呉に向かった。翌

8日、護衛艦は重病人が発生したため佐世保に先行、「護国丸」は単独航行となった。9日、

駆潜特務艇2隻が護衛に来航したが、夜間に見失い再び単独航行となった。10日、古志岐島

灯台沖で敵潜水艦の雷撃を受け、同船は直立して沈没した。戦死者60名。

 

鴨緑丸

昭和19年12月13日、「鴨緑丸」は引揚邦人、遭難船員、連合軍捕虜など3,500余名を載せ、

マニラを出港し高雄へ向かった。しかし翌14日に敵機の来襲を受け、同船の陸軍船舶砲兵隊、海

軍警戒隊が交戦したが、右舷に直撃弾を受け浸水し船体が傾斜。同船は近くのオロンガポ湾に投

錨し、夜陰に乗じて乗員の揚陸に成功したが、敵機の執拗な爆撃により沈没した。戦死者1名。

 

船名不明

  

  

 

戦時徴用船

更新日:2001/09/18