戦時徴用船 馬来丸
馬来丸(マレー丸)
終戦間際の昭和20年 1月20日、満州の歩兵四六連隊は陸軍輸送船に分乗して門司を出港した。
明秀丸には連隊本部と第一大隊主力、くらいど丸には第二大隊と他の部隊、馬来丸(マレー丸)には第三大隊の
主力が乗船。歩兵砲中隊・速射砲中隊・通信中隊は小隊毎に三船に分乗した。
明秀丸は博多沖でエンジントラブルが発生したため引き返し、残る2隻が敵の潜水艦を避け牛深港に引き返した
りしながら沿岸ぞいに南下。
1月25日13:50頃、鹿児島県久志湾口北側付近(31.18N−130.11E)を航行中に米潜水艦の魚雷攻撃を
受け、看視兵が「魚雷発見」と叫ぶと同時に最初の一弾が右舷二番艙付近に命中、続いて第二弾が船橋下部に
相次いで被雷、13:53海中に没した。
湾の沖で大きな爆発音が二回して地響きが起こり、大爆発と共に水柱をたてて海中に沈んでいくのが山の畑か
も見えたという。
漁師達は一勢に船を駆り出して救助に向かったが、その日は雪まじりの悪天候で風・波ともに強く、村人の必死
の救助にも係わらず時化と寒さで作業は困難を極め、救助を待ち切れずに亡くなっていったらしい。
一帯の海岸には多くの将兵の遺体が並び荼毘に付された。乗船部隊・船砲隊・船員 1,612名が戦死。
自然休養村
鹿児島県川辺郡坊津町
馬来丸戦没者慰霊碑
碑文
大東亜戦争の苛烈を極めていた昭和二十年一月、陸軍輸送船馬来丸(四、五五六屯)は、ソ連国境警備隊から
南方転進を命ぜられた第十二師団隷下部隊(関門周辺で編入された部隊を含む)の兵員二、〇五五名を乗せ、
ほかに軍馬、軍需品を満載して門司港を出航し、途中、海軍艦艇の護衛を受け、伊万里湾、牛深港に仮泊のあ
と、同月二十五日午後一時五十分、鹿児島県川辺郡坊津町久志湾の沖合を航行中、突如として、見張兵が敵
潜水艦の雷跡を発見、「魚雷」と絶叫した瞬間、第一弾は、右舷二番船倉付近に大音響を発して命中、続く第二
弾も、船橋下部付近に命中し、船体は急速に右舷に傾斜して沈下しはじめ、輸送指揮官が総員退船を命じたと
きは、既に船首より鯱立ちとなり、午後一時五十三分、船影は完全に海中に没したのであります。
沈没地点、北緯三一度一八分。東経一三〇度一〇分、水深一二六米
当時、海上は北寄りの風強く、波浪高く、水平線一帯に雪まじりの降雨という、視界不良の悪天候でありました。
天地を揺がす爆発音によって、馬来丸の遭難を知った地元久志湾沿岸の住民は、直ちに、あらゆる発動船、漁
船を出動させ、枕崎湾から馳せつけた軍用救助艇と共に、必死の救出活動を展開したのでありますが、時化と
寒気に阻まれて、作業は困難を極め、実に、
. 一、船体と運命をともにし、再び浮上することなく、或いは、脱出後、海中に呑まれて戦死。一、四九九名。
. 一、陸地に漂着して遺体が確認され、或いは、陸地で力尽きて戦死。七六名。
. 一、殉職した船員。三七名。
併せて、一、六一二名の尊い犠牲を強いられたのであります。
更新日:2008/10/28