海鷲三士官

 

昭和16年12月 8日未明、航空母艦六隻を中心とする連合艦隊は長躯ハワイを奇襲。

米太平洋艦隊が終結する真珠湾に、航空機を主力とする攻撃を敢行した。

そして再び母艦に還らざる攻撃機 29機(第一次攻撃隊 9機、第二次攻撃隊 20機)。

54人の搭乗員が従容として散華した。

牧野三郎海軍大尉(海兵60期、「加賀」艦爆隊)、飯田房太海軍大尉(海兵62期、「蒼龍」

艦戦隊)、鈴木三守海軍大尉(海兵65期、「加賀」隊)の三人は、海軍兵学校出身の

「海鷲三士官」として勇猛さを称えられた。

下士官搭乗員の多くも攻撃後の母艦帰投を断念し自爆散華し、不時着後に自決したもの

もいる。彼等の念頭には、落下傘を使って助かるという選択肢は無かった。

 

  

昭和17年 7月 8日付 大阪毎日新聞

 

飯田房太

第二次攻撃隊 「蒼龍」制空隊 第三中隊 第一小隊 一番機

大正 2年 2月11日生れ、山口県都濃郡富田町出身、海兵62期出身、海軍中佐

 

飯田房太大尉は、カネオエ飛行場銃撃時、敵の対空砲火で燃料タンクに被弾、母艦への帰投方向を

列機に示した後、反転してカネオエ飛行場の格納庫めがけ真一文字に突入。享年29才。

 

         

 

カネオヘ基地の飯田中佐慰霊碑

 

         

飯田房太中佐が撮影した僚機の写真(戦後、志賀淑雄氏からご遺族に贈られた)                      .

                   写真を掲げる志賀淑雄氏(開戦時「加賀」戦闘機隊分隊長)ご夫妻/飯田記念室にて

 

牧野三郎

第二次攻撃隊 「加賀」降下爆撃隊 第一中隊 第二十一小隊 一番機

明治44年 1月 7日生れ、愛知県名古屋市出身、海兵60期出身、海軍中佐

 

牧野三郎大尉は、敵艦めがけ急降下爆撃を敢行、必中弾を叩きつけたと思うまもなく敵艦から

大音響とともに猛焔を噴出して大火災となり、牧野機もまた猛噴煙のなかに機影を没した。

享年31才。

 

鈴木三守

第一次攻撃隊 「加賀」雷撃隊 第二中隊 第四十四小隊 一番機

大正 4年 1月 1日生れ、宮城県登米郡石森町出身、海兵65期出身、海軍中佐

 

鈴木三守大尉は、いまだ眠りから覚めぬ真珠湾を急襲、敵艦めがけて発射した魚雷は見事

命中し、入神の腕の冴えを見せると同時に鈴木機はそのまま敵艦に体当りし、壮烈なる戦死

を遂げた。享年27歳。

 

飯田資料室

山口県新南陽市

  

飯田資料室外観                        飯田中佐の飛行帽

 

       

飯田資料室の展示風景

 

浄真寺

山口県新南陽市

飯田房太中佐墓碑

 

切通霊園

宮城県中田町

写真提供:高橋美樹様

鈴木三守中佐墓碑

 

宮城縣護國神社

宮城県仙台市青葉区

  

鈴木三守海軍中佐  遺影と一種軍装

 

特攻の魁        布哇真珠湾

更新日:2007/07/15