太刀洗

 

略史

大正 8年10月  日 陸軍太刀洗飛行場完成

大正 8年11月  日 飛行第四大隊 開隊

大正14年 5月  日 飛行第四大隊、飛行第四連隊に昇格、台湾飛行第八聯隊も同居

昭和 3年 5月  日 陸軍の山東半島出兵に備え、飛行第四聯隊中国天津へ出動

昭和 5年 8月  日 秩父宮殿下 飛行第四聯隊に入隊

昭和 6年 9月  日 満州事変勃発、太刀洗は補給部隊に指定

昭和10年 4月  日 戦闘機隊二箇中隊 正式配備

昭和12年 1月  日 九州関係飛行集団司令部 設置

昭和12年12月  日 渡辺製工所竃町工場が太刀洗航空機製作所として独立

昭和13年 7月  日 高射砲第四連隊 開隊(立石村一ツ木)

昭和13年 8月  日 飛行第四連隊、飛行第四戦隊に改称

昭和14年12月  日 第五航空教育隊 開隊

昭和15年 2月  日 材料廠が立川航空廠・太刀洗支廠として発足

昭和15年 3月  日 飛行第四連隊、小月に移駐

昭和15年 7月  日 九七式戦闘機二箇中隊 配備

昭和15年 7月  日 立川航空廠・太刀洗支廠、太刀洗航空廠に昇格

昭和15年 9月  日 熊谷陸軍飛行学校太刀洗分教所、太刀洗陸軍飛行学校に昇格

昭和15年10月  日 太刀洗陸軍飛行学校 開隊

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和17年 3月  日 知覧分校 設置

昭和17年 4月  日 航空廠内工員養成所、航空廠技能者養成所として独立

昭和18年  月  日 目達原分校 設置

昭和18年10月  日 野戦高射砲隊がニューギニアに出陣、跡地に甘木生徒隊 設置

昭和20年 1月  日 太刀洗陸軍飛行学校にて特別攻撃隊 編成

.              九八直協偵察機36機で新田原より出撃

昭和20年 2月  日 太刀洗北飛行場 完成

昭和20年 2月  日 太刀洗陸軍飛行学校 閉鎖、第八練習飛行隊 開隊

昭和20年 2月  日 飛行第二四四戦隊 移駐のため飛来

昭和20年 2月  日 太刀洗陸軍飛行学校、第五一航空師団に吸収。

昭和20年 3月  日 飛行第九八戦隊 移駐のため鹿屋より飛来

昭和20年 3月27日 太刀洗空襲

昭和20年 3月31日 太刀洗空襲

昭和20年 4月18日 回天制空隊・山本三男三郎陸軍少尉が太刀洗上空に飛来したB29に体当り敢行

昭和20年 4月  日 飛行第六十二戦隊、特攻部隊として西筑波より飛来

昭和20年 5月  日 飛行第六十二戦隊、重爆撃機4機が沖縄へ特攻出撃/二機散華

昭和20年 6月  日 二九九・三〇〇・三〇三・三〇四振武隊、特攻部隊として児玉より飛来

昭和20年 7月  日 飛行第六十六戦隊、万世より移駐のため飛来(北部九州防空)

 

大刀洗飛行学校

太刀洗飛行場は西日本における陸軍航空発祥の地であり、大東亜戦争当時は日本陸軍が東洋一と誇

った航空戦略の一大拠点で、大正8年の創設以来、時局の変遷に応じて部隊・設備も逐次増強され、基

幹部隊である「飛行第四戦隊」からは多くの実戦部隊が編成され、満州、上海、支那事変では目覚しい

戦果を挙げた。

飛行第四戦隊の熊本県菊池飛行場への移駐に伴い「熊谷陸軍飛行学校太刀洗分教場」となり、さらに

「太刀洗陸軍飛行学校」「第五航空教育隊」が新設され教育的施設の色が濃くなっていったが、次第に戦

局が悪化すると特攻基地となり、爆撃機「飛龍」の部隊が配備された。また知覧万世目達原などの中

継基地として、沖縄の海に散華した多くの英霊を送り出した。

昭和20年3月27日および31日の両日、米軍機の大空襲により壊滅的な大打撃を受け、約27年にお

よぶ太刀洗飛行場の歴史は幕を閉じた。

 

大刀洗平和記念館

福岡県朝倉郡三輪町

今日の平和は数多くの尊い犠牲の上にあることを思い、その鎮魂と平和を守り続けるために、

昭和62年4月に設立された。

 

陸軍九七式戦闘機

由来

平成8年9月10日、博多湾雁の巣鼻から南東600m、水深 3mの海底で発見、引き上げられた。操縦席内に

あった箸箱から、搭乗者は渡辺利廣陸軍少尉(鳥取県淀江町出身)で、満州から知覧へ飛行中に故障で不時

着したものと判明。

渡辺少尉は4月22日に別の機で知覧基地から特攻出撃(第一〇五振武隊)し沖縄で散華された。

 

太刀洗飛行場跡

福岡県三井郡大刀洗町、三輪町

慰霊碑(当時は時計台)       西日本航空発祥之地

 

  

監視壕

 

憲兵隊宿舎

 

飛行第四連隊 門柱

 

第五航空教育隊 正門

 

第五航空教育隊 東門

 

第五航空教育隊 北門

 

地下司令部壕

 

  

地下司令部壕

 

掩体壕

 

北飛行場 滑走路跡

 

北飛行場 滑走路遺構

 

太刀洗陸軍航空廠 技能者養成所之跡

 

一木児童公園

福岡県甘木市

飛行第四連隊 甘木生徒隊 正門

 

   

前列左から 早川 勉伍長、荒木幸雄伍長、千田孝正伍長   後列左から 高橋 要伍長、高橋峰好伍長

 

この写真は知覧の観光ポスターに使われ、多くの書籍やメディアにも引用され ている有名な写真である。

この写真に写っている五人は昭和18年10月から昭和19年3月にかけて、飛行第四連隊の甘木生徒隊

で訓練を受けていた。

昭和20年5月27日、第七十二振武隊として万世飛行場から出撃し、沖縄南方海上の敵艦船 に突入、

散華した。

 

辞世の句  荒木幸雄

帰らじと 父母に決別若櫻 馳せ参じ征く 大君の股肱

 

甘木公園

福岡県甘木市

少飛十五期大刀洗会 朋友の碑

碑文

突兀と聳え立つ古処の霊峰と、慈母にも等しい筑紫次郎の流れとに抱かれた、茲甘木

の町にかって大刀洗陸軍飛行学校甘木生徒隊があった。

それは太平洋戦争も急を告げる昭和十八年の秋であった。我々二千余名の若人は従

来の学業をなげうって、全国各地から少年飛行兵第十五期生として入校したのである。

爾後日夜伝統ある飛行兵魂の鍛錬に邁進したかいあって、ある者は朔風すさぶ北蒙の

前線基地へ、更には南十字星輝く南の基地へ飛び立ち大活躍したが、戦いは日本に利

あらず戦争は終結した。

今にして顧みると、この間祖国護持と同胞の平和安泰を願い散華した朋友と泌々と偲

ばぬ日はない。生命ありて、今日の日本の繁栄と平和に満ちた種々相をみるにつけ、

かかる尊い犠牲を基盤にしてこそ今日の新生日本は建設されたのではあるまいかと。

我々少飛十五期大刀洗会はかく観じ、生徒隊ゆかりの故地に在天の英霊の冥福を祈

ると共に、今後我らは新興日本建設のために寄与することを誓い、朋友の碑を立つる

ものである。

昭和四十七年六月十一日  少飛十五期太刀飛会

 

太刀洗陸軍飛行学校 甘木生徒隊 特幹の碑

碑文

陸軍特別幹部候補生操縦一期生、約三千名が大刀洗陸軍飛行学校甘木生徒隊に入

校したのは昭和十九年四月であった。

「我こそは大空の決戦場へ」を合言葉に、汗と涙の厳しい地上基礎訓練の日々を重ねた

我々は、七月末、生徒隊課程を終了して各地の操縦教育隊に配属され、憧れの操縦桿

を握った。そして昭和二十年八月、ある者は南海に散華し、ある者は空爆の犠牲となり、

ある者は特攻待命中に戦いは終わったのである。

特幹の歌

翼輝く日の丸に 燃える闘魂眼にも見よ

今日もさからう雲切れば 風も静まる大刀洗 ああ特幹の大刀洗

あれから五十有余年−我々はあの甘木生徒隊を原点とした同期戦友の熱い絆を残して

きた。そして激動の時代を共に生き、そこに我々なりの真実を尽くしたことを自負しつつ、

平和な日本再建への先駆けともなった矜持と、亡き同期戦友らへの鎮魂の思いをこめて

ここに「特幹の碑」を建立し、昭和の歴史と魂を永遠に後世へ伝えるものである。

平成十年六月吉日  陸軍特別幹部候補生 操縦一期生

 

飛行第九十八戦隊戦没者之霊

 

南溟高射砲兵之碑

 

陸軍特攻隊

更新日:2010/01/17