駆逐艦 

 

 

艦歴

昭和 5年 3月 7日 浦賀船渠で起工

昭和 6年10月22日 進水

昭和 7年 8月15日 竣工

昭和16年12月 4日 香港攻略戦(海上封鎖任務)

昭和17年 1月 9日 メナド攻略戦

昭和17年 3月 1日 スラバヤ沖海戦

              【戦果】英重巡洋艦エクセター・英駆逐艦エンカウンター・米駆逐艦ポープ撃沈

昭和17年 5月 2日 北方部隊所属

昭和17年 5月29日 陸奥湾川内を出港しアリューシャン作戦に参加

昭和17年10月  日 ラバウルに進出

昭和17年10月25日 ガダルカナル島ルンガ泊地の米艦を攻撃

              【戦果】高速掃海艇ゼーン損傷、艦隊曳船セミノール・哨戒艇YP−284撃沈

昭和17年11月12日 ガダルカナル島沖で米艦隊と交戦(第三次ソロモン海戦)、損傷。

昭和18年 3月22日 アッツ島への輸送作戦で幌筵を出港

昭和18年 3月27日 アッツ島沖で米艦隊と遭遇し交戦(アッツ島沖海戦)

昭和18年 3月30日 幌筵海峡で駆逐艦「若葉」と接触事故をおこし損傷

昭和19年 4月13日 グアム島西で米潜水艦ハーダーの雷撃を受け沈没

昭和19年 6月10日 除籍

 

スラバヤ沖海戦での敵兵救助

昭和17年3月1日、スラバヤ沖海戦の掃討戦において、ジャワ海で重巡洋艦「足柄」「妙高」「那智」「羽黒」、

駆逐艦「山風」「江風」と共に英重巡洋艦「エクセター」英駆逐艦「エンカウンター」米駆逐艦「ポープ」を撃沈。

英国乗組員多数が救命ボート等による漂流を続けていたが、連合部隊側は艦船15隻中11隻を撃沈で失い

残る4隻は逃走。

 

漂流者が生存の限界に達した翌3月2日、「雷」(艦長:工藤俊作)は海面に浮遊する多数の英国兵を発見。敵

潜水艦から雷撃を受ける危険性がある戦場でのことであったが、「雷」は「救難活動中」を示す国際信号機を掲

げ、英国兵の救助に当たったのである。

長時間の漂流で体力を消耗している英国兵を海面から拾い上げる救助作業は難航したが、工藤艦長は

「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」「漂流者を全員救助せよ」「漂流者は一人も見逃すな」

との命令を発し、船内総力を挙げての救助に当たるよう指しし、ほぼ総員に近い兵員と使用可能なすべての装

備を投入して救助にあたった。

「雷」の乗組員に倍する英乗組員422名を救助し、重油で汚れた英国兵士の身体をアルコールと木綿で丁重に

拭き取り、貴重な水と食料を提供した。

 

翌日、工藤艦長は救助した英乗組員の中から将校を甲板に招き、言葉をかけた。

「諸官は勇敢に戦われた。諸官は日本帝国海軍のゲストである」

この言葉に英国将校たちは敬礼を以って感謝の意を表したという。

英乗組員422名はボルネオ・パンジェルマシンに停泊中のオランダ病院船「オプテンノート」に捕虜として引き

渡された。

 

「雷」に救助された「エンカウンター」砲術士官・サムエル・フォール元海軍中尉は、戦後恩人である工藤の消息

を探し続けていたが、消息を探し当てた時には既に他界していた。せめて工藤の墓参と遺族へ感謝を伝えよう

と平成15年に来日したが実現せず、フォールは惠隆之介氏(防衛大学22期、作家)に調査を依頼、平成16年

12月に墓所等の所在が判明し、恵隆之介氏が墓参等を代行した。

 

工藤は昭和17年8月に駆逐艦「響」艦長、11月に海軍中佐進級、12月には海軍施設本部部員(横須賀鎮守

府総務部第一課勤務)、翌年には海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられた。昭和19年11月から体調を

崩し、翌昭和20年3月15日に待命。

体格が良く柔道の有段者であったが、性格はおおらかで温和であり「工藤大仏」という渾名がついたという。海軍

兵学校時代の校長であった鈴木貫太郎の影響を受け、艦内では鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔て無く接し

ていた事から、工藤が艦長を務めていた艦はアットホームな雰囲気に満ちていたという。決断力があり細かい事

に拘わらなかったので、部下の信頼は厚かった。

 

戦後、海兵のクラス会には出席せず、仏前で戦死した同僚や部下達の冥福を祈ることを日課にしていたという。

昭和54年に胃癌のため死去。

 

惠 隆之介著

敵兵を救助せよ!英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長/草思社

 

聖寿寺

岩手県盛岡市

為、大日本帝国海軍駆逐艦雷乗組諸英霊之供養

 

薬林院

千葉県川口市

駆逐艦「雷」艦長 工藤俊作墓碑

 

連合艦隊

 

更新日:2008/09/23