軍艦防波堤

 

終戦時に健在だった旧日本海軍艦艇のうち、戦勝国へ引き渡す戦時賠償艦として適当な状態ではない

艦艇の一部は、解体された船体を港湾の防波堤として利用された。

 

秋田県 秋田港

駆逐艦「栃」(未成) 

昭和20年に舞鶴工廠にて建造中、中止命令のため建造中止。

 

駆逐艦「竹」(初代) 

大正8年に川崎造船所で竣工

昭和15年に除籍後は舞鶴海兵団の練習船。23年解体。

 

福島県 小名浜港

駆逐艦「桂」(二代・未成)

昭和20年に藤永田造船所にて進水

中止命令のため建造中止。日本海軍最後の進水艦。

 

駆逐艦「澤風」

大正9年に長崎造船所で竣工

大東亜戦争では船団護衛・対潜学校練習船として使用、横須賀で終戦。

 

駆逐艦「汐風」

大正9年に舞鶴工廠で竣工

大東亜戦争では南洋方面作戦・北方方面作戦・船団護衛等に従事。

昭和20年5月に人間魚雷回天搭載艦に改装されたが終戦。戦後は復員船として使用された。

 

東京都 八丈島神湊

駆逐艦「矢竹」(未成)

昭和20年に横須賀工廠にて建造中、中止命令のため建造中止。

 

京都府 竹野港

駆逐艦「春風」

大正12年に舞鶴工廠で竣工

大東亜戦争ではフィリピン攻略戦・バタビア沖海戦等に参加。バタビア沖海戦では重巡洋艦「最上」や

姉妹艦「朝風」「旗風」等と作戦を共にし、米巡洋艦2隻・駆逐艦4隻を撃沈した。

その後、戦後まで現存し昭和20年に除籍・解体された。

 

福井県 四箇浦港

駆逐艦「蓮」

大正11年に浦賀船渠で竣工、青島で終戦。戦後解体。

 

山口県 岩国港

巡洋艦「平戸」(初代)

明治44年に神戸川崎造船所で竣工

第一次世界大戦では、南洋諸島占領作戦・南シナ海、南太平洋方面の作戦に従事。

上海事変では熱河作戦の支援を行った。

昭和15年に除籍、海軍兵学校に繋留し練習船として使用、18年には兵学校岩国分校に回航し終戦。

20年に浸水着底、22年解体。

 

福岡県 若松港

駆逐艦「冬月」

昭和20年4月7日の坊ノ岬沖海戦から戦闘可能な完全状態で帰還

門司港で防空任務についていたが、終戦後に門司港内で触雷し艦の後部を大破。

修理後は博多港で工作艦として就役した。

 

駆逐艦「涼月」

昭和20年4月7日の坊ノ岬沖海戦で艦首に被弾し大破。通常航行が不能となったが後進帰還。

戦後は佐世保に繋留された。

 

駆逐艦「柳」(初代)

大正期の旧式駆逐艦で、第一次世界大戦の地中海遠征に参加しイギリス軍輸送部隊の護衛を行った。

昭和15年に除籍となり大東亜戦争には不参加、佐世保に係留され主に旧制中学の軍事教練に利用された。

 

秋田港(土崎港)

秋田県秋田市

秋田港 北防波堤(写真左の中洲のように見える所)

経緯

戦前、土崎港(秋田港)の出口は冬の波で押し寄せる漂砂による航路埋没で、春には船が航行出来ない

状況だった。昭和20年8月14日夜半から15日未明の土崎空襲では壊滅的な打撃を受け、敗戦直後は

砂を掘ることも出来ず廃港の窮地に立たされた。

漂砂を防ぐには北防波堤の建設が必要だったが、経済の混乱により資金も資材も欠乏していたところ、

旧軍艦3隻を沈めて防波堤を築堤する事が提案された。

昭和23年に駆逐艦「栃」「竹」、海防艦「伊唐」の三隻が沈められ、268mの北防波堤が築堤されたが、

物資が不足した時代に作られた軍艦は鉄板が薄く防波堤の完成直後から壊れはじめたが、度々補修

され30年間に亘り砂と荒波を遮り秋田港を守った。

昭和50年、港の外港展開とともに取り除かれ役目を終えた。

 

  

秋田港 北防波堤

 

小名浜港

福島県いわき市

駆逐艦「汐風」を着底させた位置を示す1号埠頭の路面表示(艦尾)

 

           

.        昭和32年頃の状況                     駆逐艦「汐風」を着底させた1号埠頭(右舷)

 

  

.        現在の状況(平成21年)                     駆逐艦「汐風」を着底させた1号埠頭(左舷) 

 

駆逐艦「澤風」が基礎として沈められた魚市場前の防波堤

 

三崎公園

福島県いわき市

駆逐艦「澤風」顕彰碑 艦魂 (駆逐艦「澤風」のタービン機関)

説明板

東北地方最大の国際港であり、日本一の広域都市いわき市の海の玄関でもある小名浜港は、かつては今日の

ような護岸も防波堤もない、遠浅の砂浜に小さな漁船を引き揚げておく程度の漁村にすぎませんでした。

長い苦しい戦争を戦い抜いて生残った日本海軍の艦艇は武装を撤去し、過酷な悪条件下に海外の復員軍人の

みならず、婦女子や病人など、十数万の国民の帰国に働いた後、本土沿岸の危険な機雷処理に働き、更にある

ものは連合軍に引取られ、あるものは現在の海上保安庁に残されたりしましたが、横須賀港にあって15センチ

9連発ロケット砲を装備し、対潜学校練習艦として沿岸警備に活躍していた駆逐艦「澤風」と、日本海方面にあっ

て人間魚雷「回天」の搭載艦となっていた駆逐艦「汐風」の2隻は、日本再建の希いをこめて福島県小名浜築港

の基礎とするため回航され、澤風は今の魚市場の防波堤として、また汐風は現在の1号埠頭の中央付近に着底

さ せ、コンクリートで固定してそのまま使用する事になったものです。

澤風・汐風は同型艦で、大正9年・10年の完成で、1.215トン、長さ97.5メートルの技本式(海軍技術本部式)

バーソンス型タービン38,500馬力2基を備え、当時39〜40ノットの高速を出し得た駆逐艦であり北洋警備などで

も活躍して本県の北洋漁船員にはおなじみの軍艦であり、戦前いわき市出身の艦長小野四郎少佐が指揮をして

小名浜港に入港したこともあるのですが、これらの艦も今は忘れられた存在となっていましたが、小名浜在住の旧

海軍々人有志の海桜会が廃棄処分となった同艦のタービン機関を保存しその後こに名前を連ねる福島県海友会

を中心とする有志の人々の苦心と熱意によって記念碑として永久に保存されることになりました。

昭和48年11月3日  福島県海友会記念碑建設委員会

 

   

駆逐艦「澤風」植樹記念碑                         福島県海友会建立の句碑

                     澤風の  孤高を慕う 波がしら

 

響灘工業団地

福岡県北九州市若松区

駆逐艦「柳」の船体

説明版

この岸壁に出ている船体は、旧日本海軍の駆逐艦「柳」です。戦後間もない昭和23年9月他の駆逐艦「冬月」

「涼月」とともに、洞海湾を響灘の荒波から守る防波堤として沈められました。北側の響灘は埋め立てられ防波

堤の役割は終わりましたが、今でも「軍艦防波堤」と市民に呼ばれています。「冬月」「凉月」の二艦はこの手前の

護岸の中に埋没していますが、この両艦は昭和20年4月沖縄特攻作戦の戦艦大和の護衛艦として出撃し大

破しながらも奇跡の生還を果たした艦です。

なお、高塔山中腹にこの三艦の戦没者慰霊碑が建立されており、詳しい説明が書かれております。

北九州市港湾局

 

  

駆逐艦「柳」の艦首                                   駆逐艦「柳」の艦尾

経緯

駆逐艦「冬月」「涼月」「柳」は終戦時に九州で健在だったが、戦勝国へ引き渡す戦時賠償艦としては適当な状態

ではなく、北九州若松港の防波堤として利用されることになった。

昭和23年7月に若松港に曳航され砂州上に一列に沈設、この三隻を中核として防波堤が建設された。

沈設当時は三隻とも防波堤上に船体が上部構造物を撤去した状態で露出していたが、鉄泥棒による被害が相次

ぎ、自然劣化も加わり、昭和37年の災害復旧工事で「冬月」「涼月」の船体はコンクリートで埋められた。

平成11年の台風で「柳」の艦首部分が崩壊したが、翌年に北九州市港湾局により船体の周囲がコンクリートで補

強された。

 

高塔山

福岡県北九州市若松区

駆逐艦 冬月涼月 柳 戦没者慰霊碑

戦没者の英霊に捧ぐ

今日の日本の平和と繁栄はあなた方の尊い犠牲の上に築かれたものでありまして

私達は決して忘れはいたしません

又あなた方と生死を共に戦った三艦は奇跡の生還を果たして当港の防波堤となり

戦後の復興に大きな貢献をしております

そしてあなた方の魂と共に永くその使命を完うすることでありましょう

御霊よ安らかに

昭和五十一年四月七日  若松海友会   協賛 若松遺族会 冬月会 涼月・柳有志

 

  

駆逐艦「柳」の双繁柱  

 

連合艦隊    八月十五日

更新日:2009/10/18