野中五郎

海軍大佐

 

略歴

大正  年  月  日 

昭和 8年11月18日 海軍兵学校卒業(61期)

昭和11年  月  日 海軍飛行学生

昭和  年  月  日 航空母艦「蒼龍」乗り組み

昭和  年  月  日 土浦航空隊

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和16年12月  日 比島クラークフィールド基地攻撃参加

昭和16年12月  日 マニラ攻撃参加

昭和16年12月  日 香港攻撃参加

昭和17年 1月  日 コレヒドール攻撃参加

昭和17年 2月  日 ポート・ダ゛―ウィング攻撃参加

昭和18年 5月  日 アッツ島艦船攻撃参加

昭和18年 7月  日 ガダルカナル島飛行場攻撃参加

昭和18年11月  日 ギルバート方面艦船攻撃

昭和19年 6月  日 硫黄島進出、サイパン島夜間攻撃参加

昭和18年10月 1日 第721海軍航空隊(神雷部隊)陸攻隊隊長

昭和20年 3月21日 第一回神雷桜花特別攻撃隊出撃、戦死(享年35歳)

 

兄・野中四郎

昭和11年 2月26日、陸軍の皇道派青年将校が反乱決起(二二六事件)。

「蹶起趣意書」筆頭名義人…陸軍歩兵大尉 野中四郎

同年2月29日、陸軍大臣官邸にて拳銃自殺。

絶筆

天壌無窮

陸軍大尉 野中四郎 昭和十一年二月二十九日

 

野中五郎は、兄の写真を終生身につけて離さなかったという。

  

野中四郎陸軍歩兵大尉                     226事件二十二士之墓/東京都港区 賢誓寺

 

神雷部隊

一式陸上攻撃機は「一式ライター」と揶揄され、敵機の攻撃に対する防御力は極端に低かった。

2トンもの「桜花」を吊るすことによって、母機である陸攻の速度、航続距離が減少し、迎撃して

くる敵機に撃墜される危険性は高かった。

野中大尉は、神雷部隊による「桜花」攻撃の成功率が極端に低いことを認識し、

「この槍使い難し」

「たとえ国賊とののしられても、桜花作戦は司令部に断念させる」

と発言している。

出撃前の第一回神雷桜花特別攻撃隊

 

第一回神雷桜花特別攻撃隊出撃

昭和20年3月21日、野中大尉が率いる神雷部隊が出撃する事に決まった。神雷部隊司令

岡村大佐、五航艦参謀長横井少将は、陸攻18機に対して掩護戦闘機55機では成功の望

み無しとして、五航艦長官宇垣中将に計画延期を進言した。しかし宇垣中将は「今の状況で

桜花を使えないなら、使う時が無い」として計画を強行した。

午前11時20分、神雷部隊は鹿屋基地を発進したが、途中22機の掩護戦闘機が故障で引

き返した。多数の敵機の迎撃を受け甚大な被害が発生することは間違いなかったが、宇垣

中将は「必死必殺を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」と攻撃続行を厳命した。

野中大尉が乗る陸攻は「桜花」を懸吊していなかったが、一路敵艦隊を目指し雲間に消え

ていった。

 

愛児への手紙

ぼー まいにち おとなちく ちてるか おばあちゃまや おじちゃまが いらっちゃるから 

うれちいだろう

おたんじょうび みんなに かわいがられて よかったね おめでとう おめでとう

おとうちゃまは まいにち あぶーにのって はたらいている

ぼーが おとなちくして みんなに かわいがられているときいて うれちい

もうちょろちょろ あるかなければいけない はやくあるきなちゃい

おかうちゃまの いうことをよくきいて うんと えいようをとって ぢょうぶな よいこどもに 

ならなくてはいけない

ちゅき きらいのないように なんでも おいちいおいちいってたべなちゃい

でわ さようなら おとうちゃまより ぼーへ

  

敵機と交戦中の第一回神雷桜花特別攻撃隊

野中大尉は、出撃前に「湊川だぜ」の一言を残し、あぶーに乗って死地へ飛び立った。

戦死160名(桜花15名、陸攻135名、戦闘10名)、戦果0。

 

鎌倉霊園

 

野中家之墓

 

花散りし海 碧々と静かなる

力子(令夫人)

 

神雷部隊

更新日:2002/02/10