旅順港閉塞
広瀬 武夫
海軍中佐
略歴
明治 1年 5月27日 大分県直入郡竹田町 出身
明治22年 4月22日 海軍兵学校 卒業(16期)、練習艦「比叡」乗組
明治27年 7月 日 日清戦争従軍
明治27年10月 日 戦艦「扶桑」乗組
明治29年 4月 日 横須賀水雷艇隊長
明治30年 6月 日 ロシア留学
明治32年 4月 日 ロシア駐在武官
明治35年 1月 日 チタからハバロフスクまで馬橇単独行(3月28日帰朝)
明治35年 4月 日 戦艦「朝日」水雷長(兼)分隊長
明治37年 2月 日 日露戦争海戦、第一回旅順港閉塞隊として「報国丸」指揮
明治37年 3月27日 第二回閉塞隊として「福井丸」を指揮、戦死(享年37才)
明治37年 4月13日 東京青山斎場にて海軍葬
旅順港閉塞
日露戦争において日本海軍は敵の要港・旅順港要塞を封鎖すべく、その港口に運送船を沈める作戦を実施した。
第一回は5隻、第二回は4隻、第三回は12隻が突入したが敵の探照灯の光芒が交錯し十字砲火が降り注ぐ中に
突入する決死隊であった。
広瀬中佐と杉野兵曹長は、第一回「報国丸」に続いて第二回「福井丸」の指揮官と指揮官付として、明治37年3月
27日午前4時に福井丸は港口に辿りつき、船に爆弾を仕掛けて退去するため短艇に乗り移ったが、杉野兵曹長
が戻らない事に気づいた広瀬中佐は三度船上に戻り探したが見つからず、短艇に戻った広瀬中佐を敵砲弾が直
撃し肉一片を残して壮烈な戦死を遂げた。
広瀬武夫海軍中佐 旅順閉塞隊/山本芳翠画
広瀬中佐
一、轟く砲音飛び来る弾丸 荒波洗うデッキの上に 闇を貫く中佐の叫び 杉野は何処杉野は何処
二、船内隈なく尋ねる三度 呼べど答えど探せど見えず 船は次第に波間に沈み 敵弾いよいよあたりに繁し
三、今はとボートに移れる中佐 飛び来る弾に忽ち失せて 旅順港外恨みぞ深き 軍神広瀬と其の名残れど
青山霊園
東京都港区
海軍中佐贈正四位廣瀬武夫墓(右)
広瀬神社
大分県竹田市
広瀬神社
広瀬中佐胸像 拝殿扁額 「広瀬中佐」歌碑
広瀬中佐が水雷長を勤めていた戦艦朝日のカッター 広瀬武夫記念館 .
海軍中佐広瀬武夫 生誕之地
海軍中佐広瀬武夫墓
飛騨護國神社
岐阜県高山市
広瀬中佐銅像
佐世保海軍墓地
長崎県佐世保市
海軍兵曹長 勲六等功六級 杉野孫七墓
専行寺
三重県鈴鹿市
海軍兵曹長 杉野孫七墓
磯山地区
三重県鈴鹿市
杉野兵曹長顕彰碑
旧万世橋駅前
東京都千代田区
初代万世橋駅/広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像 関東大震災後に建てられた二代目万世橋駅と銅像
青山公民館
大分県別府市
第一回旅順港閉塞隊「報国丸」マスト ※広瀬中佐は「福井丸」乗組
川口護國神社
川口県川口市
写真の提供 K-N様
嗚呼忠烈 小池幸三郎君之像
碑文
海軍機関一等兵 小池幸三郎君を偲ぶ
君は小池武兵氏の次子 明治十三年七月十五日 川口町二六八番地に生る
明治三十三年十二月横須賀海兵団に入り 同三十五年六月軍艦高千穂の乗組員と
なる 日露の戦役起るや直ちに旅順の攻略に従い 決死旅順港口第二次閉塞隊に
志願し 広瀬武夫海軍中佐指揮の福井丸に乗船して 猛砲火の下に旅順港口の下
に突入したが 黄金山の西海岸半■に達した時 ついに敵駆逐艦の魚雷を受けた
よって自ら爆沈して任務を完遂した広瀬中佐 杉野兵隊曹長と共に帰らず 英魂
とこしえに靖國の霊となる 実に明治三十七年五月二十三日夜である
更新日:2010/03/28