海軍艦艇殉難史 早 蕨
駆逐艦「早蕨」は、大正13年7月24日浦賀船渠で竣工した820噸、35.5節、二連装魚雷
発射管2基の若竹型最後の二等駆逐艦であった。
昭和7年12月5日、南支方面警備中に海の難所の台湾北端富基角北方60浬で荒天に遭遇、艦長
角田健吾少佐(兵47)以下必死の操艦を続けたが、艦の動揺が甚だしく逐に復元不可能となり、
転覆沈没し、艦長以下104名が艦と運命を共にした。
呉海軍墓地
広島県呉市
駆逐艦早蕨殉難者之碑
碑文
時維昭和7年12月3日駆逐艦早蕨は僚艦3隻とともに南支那警備の重任を帯び呉軍港を発して
遠く馬公に向う 偶々東支那海は北風強吹して波浪山の如く 航行真に困難を極む 越えて同月
5日風愈々強く波浪益々高く艦の操縦極度の困難に陥り早蕨遂に覆没の厄に会す 而して僚艦必
死の努力に依り一部乗員を救助し得たるのみにて爾後幾十日に亘り荒天を冒しあらゆる捜索を試
みたるもその効なく艦長門田中佐以下104名は艦と運命を共にせるものと断ずるのやむなきに
至る。鳴呼悲痛なんぞ堪ふべけんや 此の報一夕に伝へらるるや挙国殉難将士の壮烈を悼み 捐
金忽ちに聚りて数万に達す 則ち之を頒ちて遺族を賑恤し 茲に碑を建て其の遺烈を長へに後世
に伝ふと爾言
更新日:2009/06/07