峯 眞佐雄 奉職履歴

 

昭和60年 勤務先社内報「随想」

空母「瑞鶴」の最後

 

昭和十九年一〇月二五日、後々二時、私(海軍少尉、空母瑞鶴の高角砲指揮官、当時二〇歳)は、

北緯十九度五七分、東経一二六度三四分、ルソン島の東方二六〇マイルの地点、

すなわち太平洋の最も深いとされる海上に浮かんでいた。

あたりは一面重油で、私達は波間に浮き沈みし、重油を飲み、目や鼻を刺激されながら、

目の前で静かに最後の時を迎えつつある空母「瑞鶴」を見守っていた。

この日天候は快晴。

 

その五日前の一〇月二〇日、捷一号作戦の発動と同時に、小沢中将を長官とした機動部隊は、私達を

乗せ静かに別府湾をあとにした。

この作戦は、小沢艦隊が「オトリ」となり、米艦隊をひきつけている間に、主力部隊の栗田艦隊が

レイテ湾に突入するというものであり、後にいう「レイテ海戦」である。

この海戦においては、私達は文字通り「オトリ」になることであり、これが成功するということは、

すなわち生還を期し得ないということであった。

 

そして一〇月二五日の朝を迎えた。

午前八時、レーダーが米軍機の大群を捕らえた。

艦載機を全機発進させた後、私達は直ちに戦闘配置についた。

けし粒の様な小さな点が、だんだん大きくなり、旗艦である瑞鶴目指して、約八〇機が急降下したきた。

誰もが息を殺し、静寂が艦内をおおった。

ほんの数十秒の時間が、とても長い時間に感ぜられた。

貼りつめた気持ちが耐えきれなくなり、やがて恐怖心に変ろうとする時、「射ち方始め!」の号令が下り、

高角砲と機銃が一斉に火を吹いた。

 

急降下爆撃機と水平魚雷攻撃機が、艦上で交錯する。

爆弾が命中したのか艦が大きく揺れた。

そのうち大きな音と共に、全艦が左右に揺れた。

魚雷が命中したに違いない。

生と死の境目で、誰もが夢中で動きまわった。

やがて米軍機が去り、再び静寂が訪れた。

私達は、怪我をした者、死んだ者を背負い医務室へ急いだ。

小沢長官はしてやったりと「吾交戦中」を司令部と栗田艦隊に打電した。

すなわちオトリ作戦成功である。

しかし、この情報は司令部には届いたが、何故か肝心の栗田艦隊には届かなかったという。

やがて、第二次三〇機、第三次一〇〇機が殺到してきた。

後の戦史によれば、瑞鶴は爆弾七発、魚雷七発を受け、遂にその名に反し、不幸な時を迎えんとしていた。

貝塚艦長は「総員退去」を命じた。

 

部下が一斉に私の顔を見た。

心の中を見すかされぬように私は無理に平静さを装い、「行くぞ」といって海に飛び込んだ。

艦長は再び戦闘指揮所にもどり、静かに帽をふっておられた。

そして、二度と私達の前に、その姿を現されることはなかった。

やがて瑞鶴は艦首を上に向け始め、垂直になったと思う瞬間、あっという間もなくその姿を太平洋深く

沈めていった。二時一四分であった。

 

私達は作戦命令を完全に果たした。

しかしそれは生かされなかった。

オトリ作戦成功の情報を入手出来なかった栗田艦隊は、レイテ突入をやめ一路母国へ急いだのである。

情報不足と不徹底、連携プレーの欠如による敗戦といわれる所以である。

 

 

私は、戦史が現代のビジネスにそのまま通ずるとは思っていない。

しかし、少なくとも私個人にとっては、この戦いは若き日の強烈な思い出であると共に、ビジネスの場で、

常に情報の重要性を教えてくれる大きな事件であった。

情報というものは大きいものでも、又どんなに小さなものでも、指揮官にとって重要なことであり、

それがタイムリーに届くことが大事である。

しかし情報は、単に下から上へのみではなく、上〜下へ、又横にも必要であることを忘れてはならない。

どんな形でも良い。

重要な情報は、早く必要な場所へ届くよう、いろいろ考え直して見るべきではないかと思う。

各人の努力を無駄にしないために。

 

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更新日:2007/12/30