峯 眞佐雄 奉職履歴

 

昭和45年 6月20日 海軍兵学校第七十三期クラス会

「海ゆかば」矢野 清、土屋幸次

 

矢野君も土屋君も一号の時、九〇八分隊で机を並べた仲である。

矢野君は、私から見て、誠にテレヤでハニカミヤで真面目な男であった。

三号へのお達示の時は、真赤になってやっていたが、終ったあと何となく恥ずかしそうな顔で我々の方を

みていた。それだけ純情であったのであろう。

 

先日、思いがけず、九〇八分隊当時の二号であったK氏から電話があり、この文を書いたところなので、

矢野君のことを聞いてみた。

「矢野さんは、全く純情な人であったにつきる。私は卒業の時、かっこのいい生徒帽を送られた。

矢野さんは頑張ってくれと手を握られ、正門を出ていかれた。

私は一号時代それを愛用し、大いに張り切った」ということであった。

 

土屋君は、いつも口を一文字に結び、目を大きく、前をまっすぐに見ていた男。

気持ちのさっぱりした九州男子だったと憶えている。

彼の話には威厳があった。

彼からは、よく熊本の話を聞いた。

昨年はじめて熊本市 へ行った。土屋君の面影を思い出し、御冥福を祈った。

 

昭和十九年十月二十五日、捷一号作戦で、三航戦はフィリピン沖で勇戦した。

矢野君は空母千代田に、土屋君は駆逐艦若月に、私は空母瑞鶴に乗っていた。

この日の戦闘で千代田、瑞鶴ともに沈み、矢野君は名誉の戦死をされた。

さだめし彼は、部下を激励、勇戦奮闘、壮烈な戦死であったろう。

 

瑞鶴のまわりには駆逐艦が二隻いた。

そっちの一隻が若月で土屋君が乗っていた。私は、泳ぎながら、若月に近づき助けられた。

土屋君は、はだかの私に、略装と下着一式を分けてくれた。私は人並みの服装で呉に帰った。

その彼も、その後マニラで戦死された。彼もまた壮烈な戦死であったろう。

 

昭和19年 3月 4日 海軍兵学校第七十三期908分隊 宮島巡航

矢野  清生徒(左から一人目)   土屋幸次生徒(左から二人目)   峯眞佐雄生徒(右から二人目)

 

目  次

更新日:2007/12/30