峯 眞佐雄 奉職履歴
平成 6年 7月22日 北海道回天会「回天と北の若人」
私の大津島時代
この度、皆様が協力して北海道関係の回天戦士の偉業を永く後世に伝えるべく、北海道回天会を結成され
ましたことは、誠にすばらしいこてであり、深い感銘を受けました。
まず最初に、北海道回天会名簿の中の戦没殉職者のお名前を拝見しました。
七十一期の加賀谷さんをはじめ、思い出深いお名前を拝見して胸ふさがる思いです。
この方々の若い純粋な面影を偲び乍ら、当時を思い出しています。
昭和十九年十二月初め、私はトランク一個を下げて初めて大津島に赴任しました。
寒い日でしたが、坂道をのぼり乍ら、小さな島の中のバラックの建物や動きまわる人達を見、正に前進基地か
秘密基地かというのが率直な感想でした。
しかし、回天の現物を見たときは、思わずウムーとうなり乍ら、諸先輩の方々が戦況を挽回すべく
必死にこの様な兵器を考えられたこと、更には尊い犠牲を出し乍らも、尚前向きに努力されてきたことに、
厳粛な感動を受けました。
私は昭和十六年十二月一日、太平洋戦争のはじまる一週間前に海軍兵学校へ入校しました。
卒業後空母瑞鶴乗組を経て回天へ、そして終戦まで僅か三年九ヶ月の海軍生活でしたが、
その間の経験は正に荒々しい、しかし充実した体験であり、その後の私の人生のベースになった貴重なものでした。
そして私はそれを誇りに思っています。
十九年三月、兵学校卒業後直ちに瑞鶴に配属され、六月には「マリアナ沖海戦(あ号作戦)」に参加、
目の前で空母大鳳・翔鶴が沈没、私自身も負傷。
さらに十月には「レイテ沖海戦(捷一号作戦)」に参加、今度は瑞鶴が沈没、フィリピン沖で二時間程泳ぎ、
駆逐艦若月に救助されましたが、同時に救助作業をしていた駆逐艦初月はその夜の夜戦で沈没、
私達はほうほうの態で呉に帰りました。
一ヶ月ほど呉沖の三子島で監禁同様の生活をした後、呉鎮人事部に呼び出され申し渡されたのが
「乗る艦が無い。極秘だが、最近九三魚雷を改造した人間魚雷というものが開発され、搭乗員を集めている。
行ってみる気はないか」
と言われ、よく判らなかったが「いいです」とその場で答え、大浦基地経由大津島に赴任しました。
大津島での八ヶ月は、正直いって精神的にも肉体的にもきびしい緊張の連続で、所謂ストレスのたまりっぱなし
でした。
しかし、訓練や学習が終わった後、階級・上下の別なく皆なで一杯のみ乍らのダベリが、正にストレス解消の妙薬
となり、軍艦でのガンルーム生活と又一味ちがった楽しみでした。
ところが、初めて回天に搭乗した時は、本当に地獄の三丁目(といって、ある先輩がおどかしたのですが)、
そんな気持ちを、ハッチを閉めてカーンカーンと確認の音を聞いたとき感じて、ハラハラドキドキでした。
しかし訓練が終わり、空気がザァーと音をたてて入ってきたこと、そしてその空気のうまかったこと、
今だに忘れられません。
大津島では甲板士官も経験しましたし、兵舎での映画会、徳山へ遊びにいった事、楽しいことが一杯ありました。
しかし訓練中の事故で殉職者が出た時は、本当につらい一日でした。
又、出撃を見送るのも感無量で、心の中で「成功を祈る。俺も後に続くから」と念じ乍ら、何時までも帽を振って
いたことを覚えています。
ようやく私にも基地回天隊として、
八月六日大津島を出発しました。
私が隊長で、伊藤兵次少尉、一飛曹青山善一、高坂 林、中村八郎、石田 忠の六名です。
しかし、すぐに八月十五日を迎え終戦。
一旦大津島に帰任後、各々郷里に帰りましたが、青山(横田)、石田の両氏が他界、淋しい限りです。
以上が私の回天史です。
回天の全容については、いくつかの書に、あらゆる角度から論ぜられ、真実を後世に伝える意味で大変有難い
ことと思っております。
考えてみれば、私達は、確かに自爆の訓練をしていたのですが、誰一人として之を否定することなく、むしろ明るく全力投球していたと言っていいのではないでしょうか。
確かに五十年たった現在の感覚では、考えにくい点があるかも知れないが、戦死・殉職された戦友達の尊い行為を
考えるとき、正しい記録を残す努力をしなければならないと考えています。
最後に、戦没・殉職された方々の偉業を心から称えると同時に、深い祈りを捧げるものであります。
更新日:2007/12/30