峯 眞佐雄 奉職履歴

 

昭和41年 2月25日 プラスチック経済新聞

貴様と俺とは同期の桜

 

司会:第一線では、どんな任務に従っていましたか。

 

峯 :私は最初、航空母艦の瑞鶴に乗り組んだんですが、詳しく言えばその前、戦艦大和で訓練しながら

.  シンガポールに行き、そこで瑞鶴に移ったんです。

 

司会:いつ頃ですか。

 

峯 :昭和十九年の五月です。それで六月末にマリアナ沖海戦に参加しました。

.  その時艦は沈まなかったんですが、爆弾の破片で足に怪我して跛行寸前でした。

.  幸い艦内で手術をしてよくなった。

.  それから内地に帰り、十月にはレイテ沖海戦参加となるわけです。

.  われわれは囮艦隊でやったんですが、その時の状況は雑誌や本などで書いてあるように作戦の齟齬で失敗

.  したわけです。

.  その時に瑞鶴は沈み我々は海に投げ出されたんです。

.  丁度駆逐艦が二隻救援に来てそれぞれ救出されましてね。

.  ところがその中の一隻に土屋というクラスメートが乗っているんで、私はそちらに移った。

.  奴の衣服を半分わけてもらおうというわけでね。

.  ところがそれがツイていまして、もう一隻の方はたちまち沈んでしまった。

 

司会:それが運のツキはじめというわけですね。

 

峯 :そうですね。そのあと特殊潜航艇の方に行きました。例の真珠湾攻撃をした型です。

.  行ってみるともう満員で私の乗る余地が無いんです。

.  そうこうしているうちに「新しい魚雷艇が出来かかっているので、それに乗らんか」といってきた。

.  回天という奴です。

.  「それじゃ、その方をやう」というわけで行った。

.  任務は搭乗兼教官でした。

.  千葉県の大原に六本の魚雷艇を運び、私は六人つれて訓練を開始しました。

.  要するに敵の機動部隊が太平洋沿岸に来たら突っ込もうというわけです。

 

司会:そこで終戦を迎えたんですか。

 

峯 :そうです。私はもともと潜水艦じゃなくて、鉄砲屋なんです。

.  つまり高角砲の指揮官というのが本職だったんですが・・・。

.  私は航空母艦だったでしょう。飛行機が空母を相手にやってくる時は、大砲を水平に倒すんです。

.  見るとほとんど一直線になって来る。撃ったって当たらないですよ。

.  それで魚雷をおとす。ドシン、とくる。気持よくないですよ。

 

司会:攻めるも守るも怖いですね。

 

峯 :アメリカの雷撃機の攻撃でうちの艦も沈んだんですが、艦橋スレスレに飛ぶ時、搭乗員の顔など

.  良く見えるんですね。

.  「こんちきしょう」と歯がみしたものです。

.  とくに航空母艦は格納庫があるでしょう。外側を破れば中は空洞なので脆いんです。

 

司会:峯さんの負傷は爆弾の破片ですか。

 

峯 :そうです。ところが戦闘中はまるっきり感じませんね。

.  終わってから「おい、大分血が出ているじゃないか」と言われて、ああ負傷したなと思った途端痛みだしてね。

.  終戦があと一ヶ月のびたら駄目だったね。

.  終戦の日に死んだのがいるが、これは可哀想だった。

.  怖いといえば、敵機が来てそいつが側まで攻撃をしかけてくるのを待つ瞬間ですね。

.  降りてからこちら側が撃つまでシーンとしています。

.  この時間はたまらんです。撃ち出したらもう全然怖くない。お祭りのようなもんです。

 

司会:そうしてみると生きているのが不思議ですね。ところで峯さんの末期の頃はどうでした。

 

峯 :回天に乗って毎日訓練です。なにしろ狭いでしょう。朝一時間の訓練中、中に入りきりなんです。

.  ハッチをひらくと空気が音を出して入ってくるんです。空気の味というのが良く判ります。

.  で、一時間の訓練が終わるとビールを飲んで昼寝です。

.  これは疲労回復策として軍事医学の面で認められていました。

.  とにかく体力が消耗しますからね。

 

司会:死んだ人もいますか。

 

峯 :毎日訓練しているので殉職者も出ます。

.  回天という奴は、底の砂に突っ込んだりすると駄目なんで、後へは戻れんのですよ。

.  魚雷は九三魚雷といって、雷撃機が持って行くのと同じものです。

 

司会:九三魚雷は、当時性能は世界一でしたね。

 

峯 :航跡がわからんのですよ。

 

司会:回天は出撃したんですか。

 

峯 :出ていますよ。

 

司会:戦果の確認は。

 

峯 :潜水艦で行けば確認は取れるんですが、分かりませんね。

 

司会:有り難うございました。では、この辺で・・・。

 

※海兵同期生との対談より本人部分のみを抜粋

 

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更新日:2007/12/30